2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

13

【2008年開幕時点】

 

 「11」~「19」番中で最も伸びしろを有す、逆にいえば実績の乏しい手番号。70余年の歴史中でエースを張ったのは、小川健、西口に、'88年の小野和、だけ。リリーフエースも、石本、岩瀬、でもう打ち止め。 野村、西岡、中山孝、柴田保、に'55年円子、'63年高橋栄 、'72年森中、'90年宮本和は安定していたものの“準エース”格、リリーフも葛西、五十嵐、吉田篤の“準リリーフエース”に、横山、鈴木皖、佐藤政、中条、永射、森、岡部、前田、岡田、長冨、キク、加藤博、柴田佳、菊地原、佐藤賢、小倉、佐竹、那須野、林昌、吉田修、'99年生駒[いこま]、'00と'03年牧野の“献身”中継ぎ{※1}が大勢[たいせい]('71年鈴木、'92年までの加藤、'95年までの葛西、'94'95年五十嵐、'99年生駒、'03年牧野は先発兼務)で、石本と岩瀬も“縁の下”の力持ちの風情。また西口も、'99年から松坂大輔が同僚となってからは、成績はともかくたたずまいは“次点エース”{※2}に落ちついている。'07年、松坂退団するが今度は涌井秀章の後衛へ。かわって、岩瀬が“セットアップ役”から'04年以降リリーフエースへと押し上げられたが、それまで「13」が基本的には陽の当たらないポジションにいたことを考えると、そろそろ次代の先発エースが出ないと西口&岩瀬で蓄えた“矢面に立つ「13」”像も足が出るだろう。
 さて、ではなぜこれまでスポットを浴びてこなかったのかというと、別掲表で一目瞭然。ご覧の通りスキ間だらけなのだ。確かにキリストの処刑日、との謂われからキリスト教圏では嫌われ易い数字だが、それほどキリスト教圏でもない日本(の球界)でここまで露骨に避けられているのは一種異様ですらある。背番号とは、ある活躍した選手によってイメージ付けされ、それを引き継ぐ者によって伝統を育んでいくものだが、ここまで冷却期間が多いと独自イメージが根付かず、長らく“憧れ”を生まなかったのも当然。
 活躍した選手も、戦前・戦中は'37年秋の青柴の「2勝」が目立つのみ(防御率は9位だが、同僚のスタルヒン164 2/3、沢村栄治140に対して53•1/3イニングと谷間補完要員)。 '43年小池は三塁レギュラー格(打率.125)も、当年開幕前背番号廃止。

 また小西は監督だから目立つポジションにはいたが、チーム成績19勝29敗1分で8球団中6位。しかも'36~'38年春の(大東京~ライオンでの)監督期間中、背番号が'37年春ま「21」、'37年秋「13」、'38年春「30」と変わっており、「13」での印象は希薄。と、この当時の「13」はほぼ幽霊番号然。
 戦後に入ると'49年松葉、'50~'55年徳網{※3}、'50'51年片岡照がレギュラー確保。投手も野村が'50年{※4}~18、13、16勝。'50年日本シリーズでは不調のエース(荒巻淳)にかわり3勝を挙げ、胴上げ投手ともなった。笠松{※5}も'50'51年計7勝23敗ながらチーム3番手役、と胎動開始。しかし、'55年ルーキーで12勝を挙げた円子が翌年以降低迷。'63年高橋栄も11勝を挙げたが改番。'61年佐藤公、'62年竜も戦力定着(各4勝)したのち改番。野村、高橋は2年をおいて再来番、という流れの中に「ジプシー{※6}後藤」まで加わり、「13」は“デラシネ{※7}”番の感強くなる。
 その流れを止めんとして立ち上がったのが小川健{※8}。来番までの経路は2年間プロ在籍~ノンプロに身を置き、'64年30才にしてプロ復帰と“根無し”そのものだが、翌'65年~5年間計93勝した奮闘ぶりは、「13」を“1級投手番”として根付かせるに充分だった。'67年~白石、'68年~河村、永易[ながやす]も先発入りし、小次郎(横山)、三四郎(西岡)も台頭、とまさに上げ潮ムード。
 ところが'69年からの「黒い霧{※9}」騒動でそのムードはいっぺんに消し飛んでしまう。この事件で準ローテーション投手・永易を失うと、翌年のオートレース八百長事件(※10}で小川も去っていく。残ったのが中継ぎの横山と代打の正垣[しょうがき]・・・。から'72年森中、'73年榎本、'74~'76年中山孝がローテーション定着(森中と’75’76年中山は2桁勝利)、'76年~堂上[どのうえ]、'80年谷村はオールマイティー役、'71年~鈴木皖、'81年~佐藤政は主に中継ぎ役で('79年永本、'80年成田も抑え役で半) 定着。野手は俊足つなぎ役ショートの飯塚が'74年~準レギュラー、ウィリアムスが'76'77年各20本塁打&10盗塁以上、強打捕手・片岡新~笠間が1軍定着して片面は'77年半レギで10本、笠間は'83年レギュラーを務め12本。と、そこそこにぎわうものの、小川のような“軸”がおらず脇役タイプ大勢。どうやら“縁の下・・・”イメージがこの辺りで固まった感となる。加えて小坂、千葉、市橋、榎本、有田、西田、登記、藤田、片岡大のドラフト1or2位ルーキー入番者達が揃って不結実(先の'73年榎本=5勝というのが唯一実績らしい実績)。鈴木、森中、飯塚、片岡新、谷村、笠間、佐藤(に永本、成田)と一定の成果を挙げたほとんどを移籍選手が占め、“デラシネ”番の趣さらに強くなる。
 転換が訪れたのは'85年。ドラ1入番・石本がロングリリーフ役で19勝7Sと突如開眼。翌年(8勝32S=40SPは当時日本タイ)と併せタイトル連続奪取。現在のセットアッパーとクローザーを兼任したような形で両年とも100イニング超 ('85年規定投球回到達)。'87年息切れ(3勝7S)するもリーグ最多登板を3年連続(計184)とした。同じく'85年、移籍2年目の柴田保が先発に抜擢され11勝~翌年も14勝でともにチームトップと躍進。加えて宮本和も'85年中継ぎ入り、 小野和'86年~先発ローテーションと若手続々台頭。'87年には高卒ルーキー近藤が初登板無安打無得点の大快挙(含め10先発3完封4勝)~'88年 小野最多勝(18勝)~'89年宮本シーズンと日本シリーズともに胴上げ投手 ('90年もシーズン優勝決定試合で延長10回完投。ただしサヨナラ決着のため胴上げ投手とはなれず)~'90年柴田無安打無得点と良報続き。
 すると'90年以降、加藤博、葛西、江坂、五十嵐、渡辺秀の生え抜き若手が次々先発入り。かつての“デラシネ”番もだいぶ落ち着いた風情となり、'96年~西口が先発&エース着座で13勝以上7度(計151勝)、印象は一変・・・するのだがどうも飛躍具合が煮え切らない。加藤、葛西、五十嵐は中継ぎへと配置換え、江坂は良かったのが'93年だけ、西口と両輪を組むべき渡辺も2桁勝利に届かず、'99年からは先発を外れた。生駒、牧野は伸び悩み、新参も鉄腕リリーフ・岩瀬('99~'07年平均59登板)に既成大砲・ペタジーニ(計63本)ぐらい。と西口以後長期先発定着投手は出ず(“大砲”も汲まれなかったため)、“献身”ばかりが増幅された。
 ただ'04年~岩瀬が抑え[クローザー]となり3年連続40S以上(2年連続の時点で史上初 + '05年46Sは当時新、現在タイ)&'06年シーズン、'07年シリーズで胴上げ投手と“献身”より1歩抜け、'07年中継ぎ共演した那須野&林も将来“脱・献身”(~先発エース)の芽を残す長身本格派。
加えて、パで西口と双璧を誇る“しなやか細腕エース”だった金村が'08年移籍入番。お互いここ2年1桁勝利と陰が挿し始めているが、“再競演”となって「13」を再び陽射しに導けるか。
【2008年開幕時点】

{※1}結果残せずも、実績者の芝池、成重、宮本幸、池内、梅澤、宮下、平沼、鈴木平、橋本(&再来番時の山田喜=キクと同一者、柴田佳)も在籍しイメージ占拠率UP。
{※2}また'02、'05年と“9回2死まで無安打無得点”を各1度、に'05年別試合では“9回3死まで完全試合”ながら延長戦で初被安打、とツメでの大記録逃しが続き“次点”印象深化。
{※3}大学ではのちの池田高校監督・蔦[つた]文也とバッテリーを組んだ。ブレーブス・蔵はその蔦門下第1期生。また'70~'80年代在番の堂上、笠間は高校~社会人でバッテリー。
{※4}この年アマ球界を経てプロ復帰。他に室脇、江上、小川健がアマ経由の復帰組。
{※5}'47年、別組織のプロ野球「国民リーグ」で監督(林直、長谷川も選手で在籍。 林は夏季MVP)を務めたのち復帰。是久は'69年世界組織のプロ「グローバルリーグ」 日本―ム参加・・・'05年発足の独立プロ「四国リーグ」では小野和、藤城、白石が監督、加藤博がコーチ。'07年発足の「北信越[BC]リーグ」には長冨がコーチ、富岡が選手で在籍。
{※6}移籍7度をくり返し付けられたあだ名。「13」選手は他に、のべ4球団以上在籍者13名(&監督・小西も4球団歴任)。同一球団2度在籍者8名。「13」離番~再来番者8名。
{※7}また'50年ルーキー・徳網は一旦は新球団「毎日」の結成に参加・・・も、開幕を迎える前にタイガースへ移籍、して「13」着。その後'73年飯塚も、一旦は(ホエールズから)カープへ移籍···・・・も開幕前にオリオンズへと再移籍、して「13」着。
{※8}小川といえば枕詞は“背面投げの”。'69年王貞治に対し2度実施(いずれもボール)。
{※9}野球賭博対象試合での、一部選手の八百長行為が明るみになった事件。
{※10}オートレース賭博で八百長を仕組んだとして数名の選手が追放された事件。余談だが、'62年の社会人都市対抗1回戦、“延長22回”に0-0からのサヨナラソロ本塁打でようやく決着した日本ビール対電電近畿の一戦、先発したのが小川と永易だった。小川は11回無死まで投げ、永易はサヨナラ被弾も完投。また、両者とも横手投げ・・・ここ数10年で永本、佐藤政、池内、梅澤、加藤博、柴田佳、小野仁、寺村、鈴木平、佐藤賢、高橋秀、小倉、清水(&下手投げの成重、永射、葛西)と同投法像再浸透。
【2008年開幕時点】