2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

70番超(99を除く)と02

【2008年開幕時点】

 

 当機構[NPB]初の“70番超”選手は、'52年「71」の小田喜美雄。身長191cm 体重86kgの巨躯でも目を引く存在で、'54年3打席1安打をマーク。その後'57年に「71」アラン山本が20打席1安打。から'61年、「75」後藤修が36登板(9先発)で93イニング5勝6敗(打は27打席7安打.259)&日本シリーズ 1登板と準主力躍動。'64年には「71」山本公士が主に代走で106試合(14盗塁13得点)54打席15安打.306と控え定着。 「73」中城[なかじょう]透も'63'64年計3代走で1盗塁と微々助勢。他に'64年「73 」矢野晃が1登板、「75」無徒[むと]史郎6打席1安打(〜'65年無徒1軍定着もシーズン「36」番着用。'64年の「71 」ベルトイア、「72」バーンサイドも各々「15」、「32」番)。
 一方首脳陣は'55年塚越正宏を皮切りに、'56年天保[てんぽ]義夫、'57年薮本和男、'60'61年林義一、'61年~深見安博の各コーチがいずれも「70」着。から'62年、巨人にてコーチ陣が「70」 中尾碩[ひろ]志、「71」武宮敏明、「72」牧野茂、「73」荒川博と一斉来参。他に同年巨人コーチは(選手兼任除き)「11」別所毅彦のみ。その別所も8月退団したため、以降全員が70番台着用となった。さらに'64年「74」堀内庄、「75」南村侑広、「76」木戸美摸[よしのり]を加え、'65年監督の川上哲治も「77」着。そして当'65年よりV9が始まり、首脳陣は“70番台が本道”のイメージが浸透していく。
 また('53~)'60年まで「60」が最大だった監督番が、'61年途中より藤本定義「61」〜'64年林義一「71」〜そして'65年川上「77」と一気に高騰。'67年には水原茂が「81」を背に祀[まつ]り、もう何が憑[つ]いてもおかしくない奮囲気に包まれる。加えて'67年は“80番台コーチ”も2名見参。
 さらに同'67年、ライオンズ新入団選手が「71」〜「83」を連番で埋め、この中から「78」基満男が主に二塁で準レギ(124試合347出席 .225 3本 10盗塁)、「77」柳田俊郎も控えで半定着(34試合41打席7安打 .184 1本)し、「74」 岡村佳典1登板、「79」藤本和宏2登板、「80」荒武康博3打席。翌'68年に「76」 甲斐和雄3打席~'69年19打席 .158 2盗塁、'69年「75」小野泰敏4打席1出塁。'68年新入団組の「74」 内田照文が'70'71年計4登板。他球団までは'69年「80」関口穣二が主に代走で16試合(1打席)、'70年 「82」 水谷実智郎が12登板1勝(プロ初勝利・・・'72年3年ぶり勝ち星マークの「70」 島田源太郎は「13」番扱い)、'72年「81」高木好一が13打席1安打。また実績者ながら井上善夫が'69~'71年 「81」を着け計59登板(62・2/3回1勝3敗)。同時期異種実績者(陸上五輪代表走者)の飯島秀雄も「88」で3年計117出場 (23盗塁、46得点で打席0)。
 さて“最大監督番”へ話題を戻すと、初の80番台監督として登場した水原は結局当年退団。'68年より再び川上の天下となる。'71(~'73)年そこへ三原脩が「80」を着け飛び込むと、'73(~'74)年稲尾和久が「81」着、'74年中西太「88」着、そして'75年~長島茂雄「90」着。
 また'75年、広島にて序盤は「70」ルーツ〜突如退団後「76」 野崎奉一4試合代行~5月4日正式に「72」 古葉竹識が就任しての球団初優勝指揮。で川上オンリーだった“70番台(以上)優勝監督”像へ新色を吹きつけると、'76'77年長島が連続優勝指揮。で一気に“90番台監督”の胴上げ現出。以後、'78年「71」広岡達朗、'79'80年「72」 古葉竹識、'81年「73」藤田元司&「86」大沢啓二、'82年「80」広岡達朗、'83年「80」 広岡&「73」藤田、'84年「72」古葉、'85年「81」吉田義男&「91」広岡・・・と毎年セパどちらかからは“70番台以上優勝監督”が輩出されるようになる。
 この間選手は「76」藤瀬史朗が'77'78年計104試合で30盗塁31得点(25打席3安打)と代走駆。'81年新人「71」秋山幸二も6打席1三塁打でプチ走駆。から'83年「77 」テリーリーが44試合で10本29打点.319をマーク。また'84年打撃投手の「83」有沢賢持がシーズン途中選手復帰し34才で初出場~22登板。翌'85年「77」 川本智徳も同経路2登板(&「95」益山性旭 も打撃投手→選手復帰し「39」で8登板)。他に「72」鈴木孝行が'84'85年計11登板('84年は先発4・・・も0勝)。
 一方'79年に全12球団の過半数(7人~'87年10人~'92年ついに12人)に達した“70番台以上監督”は、'86年より「81 」森祗晶の黄金期。'94年まで9年間で8度優勝、6度日本一。その間日本シリーズで対峙したセの優勝監督中“70番台以上”は'86年「75」阿南準郎、'88年「77」星野仙一、'90年「73 」藤田元司、'91年「88」山本浩二、'92'93年「73」 野村克也・・・'93年のみ森敗北。 また唯一パ制覇ならなかった'89年の優勝監督は「73」 藤田元司&「71」仰木彬。
 この間は選手にも、まさに“70番台以上の黄金期”と呼ぶにふさわしい活躍が続々生まれ、'88年「91 」ギブソンと「97」呂が6月14日神宮球場で相対する形でスタメン初出場〜初打席で本塁打を放った呂は当試合含めデビュー17試合10本塁打、うち1試合2発3度、サヨナラ弾2度と扇風を巻き起こし、その時点で実績1ヶ月にかかわらずオールスターにも出場。打たれた側のギブソンも7勝11敗、防御率はリーグ最下位の成績ながら規定投球回到達。後半失速した呂も最終的には(79試合で)16本40打点 .255に留まった。が、これが呼び水となったが如く'89'90年と既成大砲の「78」門田博光がかけつけ各“30本90打点”超(&'89年は3割超)で両年オールスター出場。から'93年、松永浩美が6月末より(70超ではないが同じ“非日常”番の)「02」着〜8月3試合連続初回先頭打者本塁打の新記録樹立し計(「2」番時分含め)80試合で8本.294。同年「93」ブラントリーもシーズン途中来番〜13試合0本.182・・・で救世主とはなれず。明けて'94年は新鋭の「71」落合英二が27登板 (34回 2勝1S)、5年ぶり当機構[NPB]復帰の「77」野中徹博も21 登板(31・1/3回 1S)、また「109」リベラが2先発(0勝)して“3桁番”初の1軍出場を飾った(・・・同年3年ぶり復帰の「125」中山裕章は「67」で6登板)。一方で「90」パンチは当年22打席.273をもって(0登板ながら元主戦格の西本聖も「90」で)選手引退。
 さて森ライオンズ退団後の監督は、'95年「73」野村克也&「72」仰木彬、'96年「72」仰木、'97年「73」 野村&「78」 東尾修、'98「72」権藤博&「78 」東尾に、'99年「89」王貞治&「77」星野仙一、'00年「89」王、'01年「75」若松勉&「73」梨田昌孝、'02年「83」原辰徳&「73」伊原春樹、'03年「89」王&「77」星野、'04年「83」伊東勤(&シリーズ不出場もシーズン1位の「89」王)、'05年「80」岡田彰布(&シーズン1位の「89」王)、'06年「88」ヒルマン(&WBC制覇の「89」王)、'07年「88」ヒルマン(&シーズン1位の「88」原辰徳)、が優勝指揮。「73」に「89」は川上、森に及ばずも各々準黄金期と呼べる成績を残し、現在「88」が“80番台優勢”への印象決裁権を握った状況。
 選手に戻ると、'95年「80」広沢克己がレギュラーで20本 .240~'96年は控え(4本)。'96'97年「92」 山本和範も準レギ計26本 .265 + '96年オールスターで代打決勝MVP本塁打~'98年控え(2本)。に'97年「70」福浦和也が4年目で半レギ6本 .289デビュー。 投手では'95年、前年リベラに続き「106」チェコが、ドミニカ・カープアカデミー出身者2人目の1軍デビュー。開幕4戦目の初登板で完封、含め193・1/3回を投げ 15勝(球援勝利1)、オールスターでは先発も務めた。明けて'96年、当アカデミー出身者が広島の「70」~「74」を埋め、その中から「72」ぺレスが57打席.278 1本 3盗塁、「71」ペルドモが13打席1安打〜翌'97年「74」ソリアーノが19打席2安打。また「97」日笠雅人が中継ぎで'96年半~'98年定着、これに'98~'01年と「95」野村貴仁も中継ぎ半〜準定着で続き、'98年「91」{※1}吉田豊彦も定着→'99年は先発半定着 (2勝)~'00年中継ぎ半定着。加えて'00年「91」カルロス先発兼救援で定着=42登板7勝4S(~'01年は11登板1勝)と左腕続々。'02年以降は逆に「92」藤川球児('04年まで計55登板14先発4勝)~'04年「93」ランデル(24登板3勝 1S)、「97」コーリー(21救援)、「97」マイヤーズ(20救援)〜'05年「77」吉井理人(先発6勝)、「70」レイボーン(先発3勝)〜'06年「78」ゴンザレス(先発9勝)、「97」姜[ジャン]建銘(先発3勝)〜'07年「92」ジャン(先発6勝)、「94」GG(先発1勝)、「94」クルス(17救援)、に'04~'06年計10 先発(0勝)の 「98」フェリシアーノ、'06'07年計29救援の「93 」マルテと右優勢。'03年のみ先発3勝の「96」林昌範&各6救援の「95」野村貴仁、「95」十[そ]川雄二の左優勢も、あとは'05年「70」 トーマス(34救援)、 に'07年5先発(0勝)の「91」インチェが目につくぐらい。打方も左は'99年山本がプロ最終打席決勝本塁打、後は'02年「77」七[しち]野智秀が1本、安打も七野3、に「88」 宮崎一影、「94」小斉祐輔各1のみ。片や右勢は'03年「70」ハースト127席5本.207~'05年「77バティスタ」中軸で27本90打点.263。より「70」田上秀則'06年半レギ3本.283~'07年準レギ9本.264。の他'05年「96」フランコ48打席.229~'06年「91」アリアス64打席2本 .167、に守備走塁で「95」奈良原浩が37試合〜日本シリーズ出場、で選手生活有終を飾った。
最後に“最大監督番”へ話を向けると、'85年に広岡「91」着で更新後('92年「91」 江尻亮が途中就任、はあったものの結局) 抜かれないまま時は経ち、'04年~“70番台以上”も14年ぶりに2桁割れ (9人→9→8)→'07年は7人まで減('08年は8人)、と価値観変容。の一方で'08年渡辺久信が「99」着し23年ぶり最大更新、と真逆の価値観が揺り戻され、本年パでは「1」と「99」による史上最大振り幅対決も実現化。果たして今後の主流はどちらに振れるか。
【2008年開幕時点】

{※1}当初「01」予定も連盟が却下。以後1軍へは「00」か「0」〜「99」着が慣例化、'06年制定。
【2008年開幕時点】