2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

67

【2008年開幕時点】

 

 “6”という字面の持つ明イメージに“7”のクール感が調合され、シャープかつ鮮やか{※1}な番相をたたえる「67」。その印象通り、黒江、加藤、亀山・・・と敏捷系で名を成した選手を輩出している。捕手ながら野口寿も脱番後(の'00年)三塁打王とスピードに秀でており、かつて(=「67」着前)の準レギ内野手・広瀬、池之上、斉藤に、若手の吉本、西島、松田、志田、さらに選手時の塁間疾走像を想起させる平井、田宮、宇野、井上、上田、高木、河野旭のコーチ陣も印象増進に一役買っている。ただ(コーチ陣を除けば)実際には鮮やかというより“泥臭い”核弾頭タイプが多く、その証言的プレーが、'66年7月の黒江“体当たり本塁生還”。
 2年前の社会人・都市対抗で8打席連続安打を含む18打数12安打.667を記録し、大会後の8月に入団{※2}。から主に走塁要員で定着していたが、打つ方は前年まで計119打席.168、1打点。の微妙な立ち位置から、当試合の7回に三塁打~次打者スクイズでの本塁突入時、完全アウトのタイミングも強引激突生還、で1点勝ち越し~最終的にも1点差勝ちし、同月末には9回2死まで無安打無得点の場面でチーム初安打を記録、と存在を猛アピール{※3}。手をかけつつあった遊撃ポジションへ争奪からイチ抜け (91試合=遊撃出場は79=で.244 2本 21盗塁)、日本シリーズの最後第6戦では6回に4点差に広げるダメ押しソロ本塁打(第1戦でも中盤4→5点差に広げるタイムリー三塁打)を放った。そして'67年は129
試合.278 9本10盗塁+リーグ最多の8死球、&オールスター出場にシリーズ.304と新“顔”完全定着
 とともに、'62年グルン(193cm 95kg)26番板11先発で2勝8敗・・・80イニング強ながら与四球50、暴投5&打で98打席(.211) 3本、'63年6月入団・クレス(184cm 70kg)74試合300打席.30613本、で「67」に付いた“大型・粗削り”イメージ(=はクレスが脱'64年にセ2位の36本を放ったことでの逆流入分追加でより膨張)へも、'65年守備走塁要員 + 打は130打席.207 1本の吉本とのタッグ(173cm 65kg&黒江は167cm 75kg)で風穴を開け新風を吹かせた{※4}。
 が、その後70年代終わりまで('74'75年岡本、'76年田村が微々出場した他は)パタリと凪ぐ。最も目立っていたのが「王(貞治)の恋人」と呼ばれた{※5}打撃投手の峰、という状態で、のちに旋風をおこす加藤も着'73年は高卒4年日&両打転向年で2軍奮戦中{※7}。
 ようやく80年代アタマになってベテラン・広瀬が主に守備要員で2年計70試合(79打席.197 1本)から終盤にもベテラン・池之上が主に代打で計106試合157打席.270 2本。
 また86年、木下が中継ぎ役で準定着(~'87年微定着)、'89年乱橋も同半定着と左投手勢が印象植樹。右も原田が'86年半定着し10月3日に初勝利・・・のはずが後日取り消され、半月後のシーズン最終日 (ダブルヘッダーの1試合目)に初先発時、改めてプロ初勝利の同情票付き合頭。野手では亀山が'89~'91年計74試合117席.168 盗塁4(2軍では'90年首位打者&盗塁王~'91年首位打者)のポツポツ台頭→脱番年一気のレギュラー&黒江を思わせる突貫走塁[ヘッドスライディング]で人気者に。これに続けと'92年西島がラスト2試合で5打席2安打(.500)1盗塁の上々デビュー(・・・も脱番後2年間出番なしで気運枯れ)。
 から'93年、プロ5年目にして3球団目&4背番号目の小早川が初1軍~中継ぎ半定着。翌'94年同系技巧左腕の柏田も初1軍〜中継ぎ半定着し1勝マーク。'94年は野口寿もチーム正捕手のピンチに登場~(過去1試合0打席→)63試合156打席.270と及第点代演した{※8}。また同年3年ぶりプロ復帰の中山裕が「125」経由で来番し6登板→脱番後定着、同じく「37」より途中来番の吉武が翌'95年初登板勝利、含め11先発5勝→脱番年定着。さらに'94年当初打撃投手採用~選手復帰の西が'97年、プロ13年目での最遅記録{※9}初勝利含め中継ぎ役で58登板2勝+前後の'96'98年半定着(~'99年微定着)。'97年は抑え期待で6月緊急補強された身長2m右腕・デビットが初登板より4連続セーブ〜もその後3連続救援失敗で2軍落ち、の一瞬助勢。この間左も('94年1登板減退の)小早川が'95'96年と準定着~定着(~'97年微定着)、そして('95年2~'96年8登板止まりの)柏田は脱'97年、5月から大リーグ定着(35登板3勝)。また着'99年8登板0勝だったデセンス(右腕)も、脱番年より大リーグで2年連続2桁勝利{※10}。
 「67」着時でのリアルタイム次台頭は、'01(=1勝)'02年と中継ぎ半定着の酒井・・・も'02年は防御率10点台~'03年微定着と伸び悩み)。同系快速右腕の松本輝も'00~'05年計40登板4先発のチャンス得るも不定着(→脱番後の'07年、12年目のプロ初勝利マーク)と“あと1歩”の続き。一方で野手方の松田が'00~'02年守備走塁で微定着(計60試合62打席.204) 、志田が'02年同半定着(40試合80打席.205 1本)と“兆し”レベルだが芽を出し、打イメージ復権の道も模索。
 という中で'03年、ルーキー・伊代野が4月に早々1勝(救援)~結局6登板で降格も、かわって戸部が5月下旬に昇格~中継ぎ定着(35登板2勝1S)。'04年は戸部12登板に減退も、新たに小野が11登板補填でトータル半躍動。くしくも半開花で「67」を去った小早川&柏田のサイド像を汲む右3人衆のイメージ継投により新展望が開けた。ただ、3人衆は'05年登板なし{※11}~'06年伊代野、小野が各1登板~'07年伊代野3登板のみ、で“サイド”イメージは半結実。
 この間'04年に2m&100kgの巨漢・オバンドーが途中入団~42試合148打席で8本.338を放ち“打”を猛烈アピール。 しかし満を持しての'05年24試合59打席で3本.218だとシーズン途中退団。で今度は左腕・リーが途中入団する目まぐるしさで、後半9先発3勝~'06年は前半11先発5勝(~後半離脱)。そして同じく左腕の高橋聡が'04年より中継ぎ台頭、当年半定着(&日本シリーズ1登板)~'05年は61登板2勝15H[ホールド]~'06'07年半定着(計2勝14H&'07年シリーズ1登板)。とやや停滞気味も、'07年右のホセロ(108kg、身長は183cm)が定着し(3勝2S10H)、“MAX150km/h超中継ぎ”のイメージ両論を組んだ。ホセ口は1年で退去するも、現状で高橋、伊代野、新里[しんざと]以外は1軍出場なく(新里も「67」では0{※12})、しばらくは“高橋(=中継ぎ)の番号”のイメージ独走で進行していきそうだ。
 それに“待った”をかける候補としては、3名が揃う捕手勢が筆頭だが、元気者・大塚淳を旗印とする“脚”の復権推進者が、大砲の梅田、坂本に捕手の銀次と他派にも叶え継げる人材が眠っており、意外な“跳び道具”としてイメージレース対抗馬に躍り出る可能性も。
【2008年開幕時点】

{※1}根は同義語だシャープ=鋭は一断面、鮮は鋭の連続性を現す因と果の違いがある。
{※2}その2年前に辻も都市対抗後プロ入り~「67」着。翌'63年クレスも途中入団。
{※3}翌'67年オフには、当番号の辻が出場増を監督に“体当たり”談判”~翌年準レギ格に。
{※4}またクレス(脱番後は三塁)~黒江で遊撃番の感も定着(吉本はほぼ三塁での出場)。
{※5}とはいえ王の専属というわけではなく他の選手も請け負ったが、王がちょうど絶調期にあり、その王のパートナーを多く担ったためこう呼ばれた。'74年オフには当時の日米通算本塁打王、ハンク・アーロン(733~最終755本)と王(634~最終868本)によるホームラン競争が行われた際、王の相手投手役を務めて{※6}より印象増(結果は10対9でアーロン勝利)。余談だが'64年、王に当時シーズン新となる53号目を浴びてもいる。
{※6}と、注目を集めた上で翌年コーチに就き出世番像発揚。他に田宮が脱番年代行~翌'71年正式監督へ。山田久も脱番年より2年連続優勝し名コーチ評確立~'02年監督に。
{※7}脱番後も、2軍では'74年首位打者~'76'77年盗塁王獲得も、1軍では8年目まで計11試合。 から(9年目31試合→)10年目に1軍定着~翌'80年“3割30盗塁”クリアの超晩成選手(しかも翌年レギュラーを手難しながら、16年目に再奪取)~通算21年在籍。
{※8}だがその後は出場大幅減=3年間で計45試合(捕手出場は28) ~も'98年移籍で正捕手(5年)~'08年現在も19年目の選手シーズン全う中、と加藤的紆余曲線をたどった。
{※9}'97年に野中徹博がプロ入り後14年目に初勝利も、在籍は10 (台湾時含めても11)年目。
{※10}に替わり金谷[かなや]、村西が米アカデミーより当機構[NPB]入りし来番。また小野がイタリア、オバンドーはパナマを経て当機構復帰~来番。さらにデビットは米国~台湾~イタリア、デセンス(に初回時オバンドー)も米国~メキシコから来日。加えて脱番後渡米した田島が'95年、柏田も'98年別番で当機構復帰。から田島は再離団後台湾へ・・・小早川、中山裕、に監督で中山義、田宮も渡台。亀山は少年野球監督で世界大会制覇。
{※11}2軍で伊代野43・1/3回8、小野34回7 、戸部81回7与死球と武器のシュートが悪作用。
{※12}来番前に2試合・・・着前年3年目で3球団(2背番号)目→当'07年4年目で3背番号目。伊藤も6年目で3球団、大塚賢も7年目で3球団目で、松田は脱番~2年連続移籍。また西は10年目での3球団目だが、選手引退後同球団打撃投手復帰~“打撃投手”としてドラゴンズへ移籍。他に原田、野口理、酒井も選手時とは別球団で打撃投手に。
【2008年開幕時点】