2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

69

【2008年開幕時点】

 

 現在「99」にその座をとってかわられているが少し前まで“選手番のドン尻”だった「69」。見た目に「99」 ほど切迫感なく、スマートな印象を持つ“秘密兵器”ナンバー・・・それは99と100には“桁数が変わる”という原則的な相違があるのに対し、「69」 (より前は選手番)と「70」(より先は首脳陣番)の間に流れる“へだたり”は野球界においてのみ存在する掟で(しかも球団によっては「70」まで選手術の場合も)あるからだろう。そして松本、沢本、西岡、山岡、山崎、平川、金沢、佐藤文、羽生[はにゅう]田、竹内、草場、原田和、伊貸[いがし]、高見、竹峰、知野、榎、伴、田畑、石井、高橋、佐藤誠、李、渡辺、井手、松下、土井、中村憲、はその年の当該球団におけるドラフト最下位{※1}、 もしくはドラフト外入団での新人年「69」着(制度導入は'65年)。プロ入り3年目までの入番者まで範囲を広げるとさらに藤田、金子、品田も含まれ、その他の面々も小石澤(3位入団新人着)という例外{※2}&移籍組を除けば皆4位以下での入番。10位以下の選手も佐々木、田畑、松下とおり、田畑、高橋、渡辺、松下、に土井({※1}参照)は当該年の全12球団でのしんがり被指名入団。ちなみに田畑はその年限りでドラフト司会を勇退した伊東一雄[パンチョ]氏のドラフト“ラストコール”選手でもある。
 また、この田畑がプロ入り前に家業の大工をしていたエピソードは有名だが、もう一人、井上も'97年オフ一旦退団~家業の大工に就き、1年後テストで広島再入団~「69」着(そして開幕1軍入りしプロ初出場~計6試合、2打席0安打)。他に茅[かや]場、トニー田島{※3}も当機構[NPB]復帰組。大黒[だいこく]、成田、大場、柚木[ゆき]、市原、中村佳、杉田、谷内[やち]、筒井正、石橋、岩下、瑞季、谷中は前年オフ別球団で自由契約(=解雇)となっての移籍着。森本、中村日、西川、東[あずま]、マレン、實[さね]松はシーズン途中入団者。さらに日月[たちもり]は高校で野球→やり投げ転向、を経てのプロ球界入り。山岡も柔道から、石田はサッカー、呂[ル]は短距離選手、から野球へ転向。そして呂は中国初のプロ野球選手{※4}で、玉木も日系ブラジル人初のプロ野球選手。と“秘密兵器”を思わず余話が多く(ただし玉木は別番にて実績を残した既成1軍戦力)、その極み付きが高橋。高校時故障のため公式戦ゼロ登板にかかわらず、潜在能力を買われて高卒直で広島入りした「秘密兵器のプロ」。脱番後('98年)1軍で1登板と一瞬表在し、6年間プロ在籍。・・・の上を行くのが谷内。プロ入り('91年)当初から独特のクセ球に着目され続け、通算20登板ながら10年間それをメシの種にした本家「秘密兵器のプロ」。
 そして「69」の全体イメージもなかなか孵化しない“秘密兵器”の趣で、未だ規定投球回or規定打席の到達例は0。それでも投手陣はレギュラー級を'98'99年メイが先発計10勝16敗、準レギュラー級で'94年榎が7勝4敗、'05年マレンも6勝8敗、に中継ぎ要員で'00年西川フル奮迅、’01年西川、'05年玉木、'06年~小林は半定着レベルと一定の成績を残している。が、野手はとなると'07年井手の61試合、149打席、26安打、11得点、2本塁打、16打点、7二塁打、9四球、1死球、1犠飛&'07年天谷の2盗塁、1死球が全て「69」のシーズン最多(本塁打と死球はタイ)という脆弱ぶり。ちなみにそれまでは打席が'05年井手の49(に次ぐのは何と投手・メイの'98年45、の次もメイで'99年40)、安打も'05年井手の9 (に次ぐのも井手で'04年8・・・'07年に天谷も8)、本塁打と打点は'05年井手の2と8、得点も'05年井手、と'96年市原の6(・・・'07年天谷も6)、出場試合にいたっては'00年西川の45 (通算でも'06年まで西川78が最多→'07年井手が115と更新も西川未だ2位)という有り様。(他に二塁打が'93年中村日、'98年メイ、'04井手の2、盗塁が'95'96年市原、'04'05年天谷の1、四球が'05年井手の4・・・'07年上記井手とともに天谷も5で更新、に死球は'98年メイ、'05年マレン、'06年天谷で1。また'07年記録者0のの三塁打は'04'05年井手、'04年天谷の1が最多。)
 そんな「69」が初注視されたのは、長島茂雄の監督(第1次) ラストイヤーとなる'80年、長島の出身・佐倉高から2人目のプロ野球選手として巨人入りした山岡の来番。'82年デビュー(含め2登板3イニング1奪三振)、が「69」の初マウンド。元柔道選手の出自から「背負い投げ投法」のキャッチコピーも得た。が、肘痛で横手投げ改造~(「69」では)1軍返り咲きならず。
 その後'90年原田賢、'91年榎が各4登板。このうち榎は(前年春の甲子園ベスト4投手→)高卒1年目で先発も2と期待値の高さが窺われる内容。それに応えたのが上記の'94年先発7勝(現在も「69」のシーズン勝ち頭)で完投も1マーク(・・・が脱番後は伸び悩み)。その前'93年には田畑が先発で「69」初勝利(計13登板2先発1勝)~も'94年16球援0勝1敗止まり。
 また93年、投の田畑と一時張り合う存在だったのが打の中村日。シーズン途中移籍後、代打役でベンチ入りし結局定着ならなかったものの12試合に出場、15打席4安打、2二塁打で.308 4打点 3 得点と「69」の初長打&初得点マーク。翌々’95年には市原が「69」初盗塁~こちらも定着ならずも4安打3得点、'96'97年は守備走塁要員で各20試合前後に出場した。
 そして'98年、ついに年間戦力のメイが登場。数字こそ4勝~'99年6勝だが投球回は129 2/3~112 1/3(両年とも規定投球回は135・・・ちなみに'94年榎は90 2/3)で'98年には完封もマーク。続いて同じく左腕の西川が'00年シーズン途中加入後45登板(ちなみに移籍前にも同年11登板)で“左腕ナンバー”イメージ急浸透。だが翌年以降28~5登板と衰勢。他メンバーからの台頭もなく、「69」イメージ自体がもう1度仕切り直し、という感じになった。
 そこから飛び出たのが井手。'04年いきなり開幕スタメンという形でデビューすると、10試合で8安打(うち二塁打2、三塁打1で5打点)・・・も左肩負傷で残りシーズンを棒に振る。が、これに触発されたように同年6月加入の東4登板(うち先発2)、終盤には(前年~当年と連続2軍盗塁王の)天谷が10試合に出て2安打(三塁打1、1打点 1盗塁)と新台頭続々。東、天谷はその後足踏みシーズン続くも、井手は'05年21試合9安打なから「69」第1号含む2本、8打点(代打では8打数3安打 1本 6打点)と進境。また当年マレンがシーズン途中より94イニング 6勝8敗(完封1)で薄らいでいた左腕像を再描出。と同時にベテラン・玉木が22登板で (10年目の自己最少も)中継ぎ像を注ぎ足す。終盤には小林がデビュー{※5} (4登板)~横手投げ改造し'06'07年名20登板前後と“中継ぎ”に加え“左腕”も併せて塗布。また同じ“左”の“横手”“中継ぎ”岩下が'06年3登板で色を付けた。'06年は5登板ながら自身4年ぶりの1勝を挙げた右“横手”の東も連なり、画餅段階では“横手”像一斉萌芽の目もあった。画餅といえば'06年は野手陣も、当年3度目の2年盗塁王を獲る天谷を筆頭に、井手、石橋、瑞季と俊足選手が勢揃いしていたが、1軍では天谷17試合0安打0盗塁、井手も23試合で4安打.129と沈静。明けて'07年投は牽制巧者・江口という“走”の行き足を止める人材を得、打へは天谷、井手と同い年のスピード系・寺内が来参、とより対抗[ウロボロス]構図クッキリ。
 そこから飛び出たのが井手。8月以降スタメン定着し打率は.235ながら半歩抜け、20試合8安打2盗塁&プロ初本塁打の天谷ともども次年ブレイク予感を焚いた。・・・がオフ天谷に寺内脱退で井手はソロ奏者に。の一方投陣は小林、江口、にベテラン・谷中と即戦力者は皆リリーフ起用濃厚と活き先が固まっており、当面の目標も“「69」の初セーブ”で一致(中村憲は先発、リリーフ、という以前に投手、野手かの活き先も流動的な原石段階選手)。
 そしてもうひと方、高卒2年目の新鋭・土井を擁する “捕手”、の系譜をたどれば、'55年河合が「69」選手初出場となったあと、'65年岩木「69」初打席&初打点、'66年成田 「69」初安打をマーク。 またこの3人は「69」 出場選手の1~3号でもあり、'68年成田 (9試合1安打)のあと訪れた長期沈黙を破ったのも'74年松本(4試合1安打)。と選手「69」像は捕手陣がリードしてきた歴史がある(ただし成田は捕手出場0・・・ほぼ代打、かアテ馬役←背番号「48」※3参照)。'72と'01年に捕手4人が揃う('89年も捕手2 + ブルペン捕手2人)という引きの強さもその史実を曳いている。'06年、'74年松本以来の捕手出場(打席は'96年杉田の1打席以来)を果たし、「69」捕手最多の11試合15打席を記録した實松(1安打.071もその1安打が二塁打で3打点)の勇姿が若武者・土井のブレイクイントロダクションとなるか。
【2008年開幕時点】

{※1}ただし土井と中村は、社会人+大学生、と高校生で分離開催時の高校生でのラスト。
{※2}もう1人、打撃投手で来番の関根('93年度1位)という“例外”も。
{※3}いかにも怪しげな名だが、これは当機構離団中に米球界で授かったプレーヤーネーム(=「77」のハイデー古賀、「29」のマック鈴木も同由来)~再離団後、さらに渡台。他に金沢が渡韓、中山が監督で渡台、交告[こうけつ]は'69年一時活動した地球[グローバル]リーグ入り。
{※4}'07年アジア選手権にて古巣ドラゴンズ相手に5回1死まで無安打、でイメージ改行を果たした。
{※5}初登板ではいきなり危険球退場~翌年日本シリーズ初登板では初球与死球で降板。
【2008年開幕時点】