2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

64

【2008年開幕時点】

 

 え、こんな選手いたっけ? いつの間にこんなスゴくなったんだ? 今までどこに潜んでたの? そんな声が聞こえてきそう。誰に注目されずとも、至ってマイペースに夜ごと爪を研ぐ不言実行タイプ。自らで光るより主役の脇で映える性質にもリンクする。ただ、'65年に田辺が規定投球回に達して5勝(9敗)2完封~'66年は準主力で4勝1完封、の次に一定定着したのが’86年山脇(61試合74打席.265 2本=初本塁打は満塁弾)で'87年は7試合4打席。かわって藤本健治が'87年37試合(11打席0安打)デビュー~'88年は(9試合)17打席で3安打、当'88年原口も18登板(1先発、36イニング)で1勝(=救援)とプチ頭角を現したあと、'94年北村が(別番でのプロ2年目以来)5年ぶり1軍昇格を果たし17試合(22打席)出場~'95年は30試合79席(.225)で1本 マーク、同'95年吉田も(15試合16打席で)1本=ともに初本塁打。また当年プロ5球団目の在籍となるベテラン・山中が「64 」選手初の100打席超え(61試合103打席)、の翌'96年、プロ10年目の高見(2試合2打席1安打)&7年目の田之上(2登板3回[イニング]) が初出場・・・といった感じで、田辺(に山脇の満塁弾)以外は印象に乏しく、先の資質は主に脱番後に本格体現されてきた。ために「64」の素性も長く明かされずにいた。
 そして雌伏時「64」着{※1}した、のちの有能者を列挙すると、まず田中尊が「64」では出場0→移籍の'57年1軍初出場(20試合)し、'58年~準レギ捕手。'60年、コーチ1年日の牧野が来着→翌年より巨人にて監督・川上哲治の参謀に就き、常勝軍団の「知恵袋」となる。'62年にはのちに名将と詠われる上田がコーチ1年日に着。(選手に戻って)同じく'62年入番のルーキー投手・七森は「64」では出場0→脱番後の'64年にわずか4登板ながら2勝1完封を残すと、オフ、金田正一巨人移籍の人的補償要員として一躍クローズアップされ、'65年、今度は高校野球部監督として'61年全国制覇~'62年より大学野球部監督、を経てプロ野球団2軍監督で着番の田丸が、翌年離番し1軍督就任。そして'71年着・与那嶺が'72年離番し監督就任~3年目、先の牧野が首脳を務める「川上巨人」の常勝をストップさせるセリーグ制覇。その'74年、来日着・ルーツが'75年離番し監督就任〜自身は開幕1ヶ月で退任するが様々な意識改革で“戦う集団”の礎[いしずえ]を造り、あとを受けチームを監督した(4試合代行の野崎泰一&)古葉竹識との合作で球団初優勝を指揮。そしてこのあと'79年~'80年代前半にかけ優勝常連チームとなっていく“古葉カープ”、の中で名参謀として馳せたのが冒頭で名を挙げた田中{※2}。
 他にも、のちの名投手コーチ(~優勝監督)の権藤が指導者1年目に、のちの球団社長・田口が2軍監督時に、現在フロント no.4の井手も指導者1年目に着。名スカウトマンとなる備前、渡辺省、に助っ人スカウトマンの藤江、名物寮長となる藤本健作(ちなみに先の健治の父)も在番。加えて脱番後に大リーグで投手コーチ&スカウトを歴任するコルボーン、'06年同スカウトに就いた紀田、さらに'05年オフから松井稼頭央の個人トレーナーを務め、行き詰まっていた同選手を鮮生~'08年ライオンズの打撃コーチ(補佐) へ凱旋就任の熊澤。・・・選手に戻ると望月が「64」では出場0→脱'90年に1軍デビュー~'92年より3年連続40登板超の中継ぎエースとなり、 小早川も「64」で出場0→脱番後中継ぎで半開花と地味ながら助
太刀して“夜研ぎ”イメージを注[つ]ぎ、野手も山脇が脱番後再定着、吉田は半定着、に野々恒も(「64」では8試合4打席→)準定着{※3}。加えて準実績者('97年開幕時点で通算9勝16敗)の鶴田は、'95年春からの長期リハビリ生活が、着'97年2軍で実戦復帰(1登板)~脱'98年1軍4年ぶり復帰(3登板)~'99年 5年ぶり勝ち星・・・と明けていく、まさに前夜に「64」 逗留。と“隠れ家”的に才能を匿い、あくまで陰の番号として生き継がれてきたが、世紀末、ついに「64」の爪を明かす選手が“ホークス”より現れる。
 '90年ドラフト外入団・・・以来2年間を「94」で過ごし、7年目の'96年終盤にようやく1軍デビュー。そして'97年開幕ローテ入り{※4}。「田之上慶三郎」という名前とも相まって“秘密兵器”的イメージで一気に存在浸透。初勝利は5月5日~最終的に14先発4勝9敗(計32登板、防御率5点台)とのんびりとした歩みながら確かな足跡を印した。が翌年0勝~翌々年2勝で「未完の大器」に逆戻り。するも'00年、再びローテ準定着で8勝(うち救援2勝)、8勝目は優勝決定試合での先発勝利で、日本シリーズでも3登板(1先発)~'01年はフル定着で13勝(7敗で最高勝率のタイトルも獲得)、初の規定投球回入りを果たし、初完投、初完封も記録~'02年開幕投手に選ばれるまで存在飛躍を遂げた・・・が当年6月(以降、計6勝)。
 また共鳴するように、小島が(過去3勝=2完封も直近5年間で11登板、から)'97年 中継ぎ20登板弱。続いて高木晃が(過去8勝マークも直近6年間で5登板、から)'98年中継ぎ 20登板強~'99年は先発で7(+救援2) 勝3完封、プロ13年目で初の規定投球回入りも達成。'98年にはルーキー・平松も中継ぎ役で30登板弱、'99年には高卒2年目・ユウキが10先発で5勝(~'00年は5先発2勝)と「64」に成果が還元され始める。
 打方も'99年途中来日のオバンドーが94試合で20本.306と及第点の成績を残し、'00年30本 101打点に.332(=2位)でベストナイン受賞~'01年は故障で52試合 15本(.259)。から'02年、犬伏が(それまでプロ11年間で8試合 11打席→)相手方が“左腕先発”時の三番・DH要員で準抜擢され(74試合 151打席で)3本.307、日本シリーズでも6打席(0安打 1出塁)を経験と田之上に続いて「未完の大器」のカラを破り(以降は代打半~プチ定着) 、一方で当'02年関本が(「64」では2試合5打席→ )半レギブレイク(5本)、ユウキも再台頭(7勝2完封)、&ハーストも('00年台湾で16勝→'01年日本では1勝=22登板2先発で34 2/3回、防御率5.97→)台湾で再活躍~3年目には最多(17) 勝と“裏・夜研ぎ”{※5}バージョンも健在。そしてバリバリ実績者ながら前年オフに大リーグ挑戦表明~オファー(入札)なく断念の大塚を、'03年開幕前まさに虚を衝いた感じでドラゴンズが獲得~「64」入番。さすがの実力で当初中継ぎ~途中より抑えとなり51登板1勝17Sを残し、ややくすぶりつつあった“投手「64」”像を再建(→オフ再び挑戦表明し渡米・・・後3年間で202登板と“裏”バージョン伸長にも寄与)。並びに、同系・剛球リリーフ投手で前'02年高卒1年目にして3登板、早くも1Sを挙げた鴨志田への道筋も点けた。・・・ものの鴨志田は伸び悩み~同系・酒井も不孵化。に長打力ウリの櫻井、強肩出色の南、機動力自慢の石橋など分かり易い武器を持つ選手が苦戦する中、かつての田之上同様選手名鑑の寸評に「期待の選手」としか載ってなさそうな無印バランス型の鶴岡&井生[いおう]が'06年、庄田が'07年に頭角を現し、鶴岡は'06~'07年半レギ捕手として連続優勝にも貢献 (計3本.226 + 日本シリーズ 18打席0安打も犠打4)。井生も定着 (74試合152打席.268 0本)、庄田は半定着 (24試合45打席.289 1本)と着実にステップアップし、「64」に“大外からの伏兵”産出ナンバーの感を植え付けた{※6}。
 他方'07年、前年までバランス型だった中島が“長距離砲”進境を遂げ2軍で序盤、打撃3部門のトップ独占~3年ぶりに1軍出場 (8試合16打席.400)&ヒーローインタビューも経験と“ブレイク前夜”へ足を踏み入れ、投手からも150km/h級左腕のマットホワイトが後半台頭~終盤リリーフで活躍 (計24登板、3先発で32・2/3回 4.96)。残る現役衆も長打力の田中彰&會澤[あいざわ]&森田、機動力の松本、(負傷中ながら強肩・中田)に現状スピード今1つも豪腕型の清水昭と特徴のはっきりしたタイプが多く、誰かの音頭で一斉追従する可能性もある。・・・が番史的には、1軍級ながら平均点“マルチツール”プレーヤーの牧谷(1軍未出場)&西山(前番時5登板=4先発も0勝)の、時流に乗っての慣性追従台頭が先か。
【2008年開幕時点】

{※1}田辺も脱番後1~0~0勝と低迷→4年目11勝と大局的には「64」時含め雌伏の印象。
{※2}退任後はドミニカでアカデミー担当。また森下はのち台湾で監督・・・その後同球団(=兄弟)よりハーストが来日着。吉田はプロ退団後住友金属鹿島へ移籍~(米国経由で)同社所属だった井戸が入番、進藤もプロ退団後シダックスへ〜同社より庄田が入番。
{※3}さらに各々脱番初年に貝塚が2軍最多勝~佐藤滋が同本塁打王・・・原口も同最優秀防御率。
{※4}当年は池田も隠しダマとして同期待をされたが、フタを開ければ登板0~翌年退団。
{※5}以降は平松が先発半開花、高木は中継ぎで再定着&オバンドーが一旦離団~再来日。
{※6}また田代尚、小島、庄司、井戸は社会人で退部~プロ、鶴岡も廃部~プロ、西山は休部〜カナダ&四国の独立リーグ~当機構、辻田、井戸も米国修行~当機構、北村、清水昭は高卒後1浪し、白坂は日本~台湾('99年)~日本、藤井は内野~投手~内野、石橋は2年連続“戦力外~再契約”トライアウトを経て入番と「紆余曲折」も横溢中(加えて佐藤滋〜櫻井はブラジル出身・・・櫻井は'03年、佐藤の甥のツギオと「42」並列)。
【2008年開幕時点】