2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

59

【2008年開幕時点】

 

 潜在能力はきわめて高い。 '77年二軍史上初の打撃3冠 (+盗塁王で史上唯一4冠)王の庄司(・・・一軍では「59」計57試合で6打席1安打)、 '97年二軍2例目の3冠王・ボニチ(・・・一軍計12試合21打席で0安打10三振)。 '56年12勝1敗 ~〜'57年13勝2敗で連続最優秀投手、'58年も10連勝するなど二軍では敵なしだった馬場 (・・・一軍計3登板0勝)、'90年には西が2ヶ月で8勝→途中移籍後ペースダウンもトータル11勝で二軍最多勝(・・・「59」時一軍計5登板 0勝)、 また中村良は前番時、'91~'95年の5年間で4度の二軍本塁打王+'94'95年は打点王とで2冠 (一軍計5安打0本) → 「59」着 ( 一軍出場0) 、山本勝も来番前の'81 と'83年二軍で首位打者&本塁打王の2冠 (一軍計17安打1本)→「59」着(31打席6安打)、 佐藤裕も来番前二軍で打率3割4度 (首位打者1、一軍計2安打)→ 「59」着 (3打席0安打)。 加えて吉成は右投&左投の二刀流 ( 一軍出場0)、ペルドモも投手&野手の二刀流 ('99年) で、 代打→次イニング登板、の象徴的シーンも現出 (投は計47登板=全救援=3勝、打は'99年49打席9 安打 1本 《野手出場20》+'97'98年6打席0安打)。 さらに小川健は一度プロ退団→ノンプロ8年→プロ復帰して「59」着、同じく一旦プロ解雇され、オフにバッティングセンターで住み込み修業を積んで翌年プロ再契約、 で 「59」着の山本和ともども、「59」 をステップボードに脱番後主力繁栄。 また田口は一旦選手引退→打撃投手、 より選手復帰での来番{※1} (も登板0→再び打撃投手に)、 逆に西は「59」 脱後、選手引退~打撃投手→選手復帰して中継ぎ台頭で“宿潜在能力”表出。 そしてこの潜在能力を"パッと見”で最も端的に想起させる体のデカさでは呉、 川邉、ボニチ、山北、 黒田が身長190cm (北原、石毛、宮下、奥村、松本拓、小野、小川将、ダーウィンも 187cm) 以上、 石毛、 川邉 ガルベス、ボニチ、エバンス、モレルが体重90kg (滝口、田口、白鳥、 小野も 87kg) 以上と近年、ビッグユニットタイプ多く、完全浸透まではいかないもののそのイメージ増領中。そしてこのビッグユニット&高潜在能力イメージを最初に植え込んだのは、“二軍で圧巻”像の元祖ともなった馬場。
 それまで、'53年に白崎 {※2}3登板 (8・2/3イニングで1敗&3打席1安打)、 手沢1試合(打席0)、'54年に玉木4試合 (4打席2安打) が出場実績のところへ、高校を2年で中退した190cm強 (〜プロ野球選手引退時200cm、体重は90kg) の馬場が "新潟県出身2人目のプロ野球 (当機構)選手”のトピック付きで入番。 大イメージスポンサーを得た「59」は一気に跳梁気運が沸き、 まず高木が'55'56年と一軍定着、 '56年は半〜準レギ級の活躍で.227  7盗塁を残す。 翌'57年には馬場が一軍初登場 (3登板7回を投げ1失点)、シーズン最終日のダブルヘッダー第1試合では先発も経験 (負け投手。ちなみに相手先発は杉下茂=この試合完封で通算200勝到達) するが、同オフ視力障害に見舞われ開頭手術を受ける。 致死の危険もともなった難手術だったが、 奇跡的に成功すると、 10日で退院。その3週間後にはキャンプ {※3}に参加するという不屈ぶり。 ただ、 一軍の舞台へは返り咲けず、 '59年オフ退団。 翌60年、 ホエールズのキャンプにテスト参加するも、風呂場で転倒し左手重傷・・・これで野球を断念し、4月日本プロレス入団。
 その後、蓜島が'60'61年、 下須崎が'64年と微出場。 投では'64年小川健~ '65年水谷が二軍で最優秀防御率&最高勝率を獲り、 '68年若生 (一軍1勝) とともに一軍微頭角。小川は脱初年より主戦定着、に誘発されるように、 野手からも森本が'66年二塁兼三塁の半~準レギ級で.218 4本→脱初年より長期でレギュラー。また同'66年山本多が控え定着、'67年~代打役に半着座し、 微出場ながら佐藤一が'67'68年各1本。から'71年小川
弘が代打役で定着 (4本 .186)。 '72年ゴンザレスは31試合0本 (.297・・・79打席で16三振)と期待外れも、同'72年小形に'75年庄司、 半定着だが'79年田中彰が代走役でベンチ入り、'79年佐々木は控え捕手で台頭 (1本)。 投方は'72年鵜沢が32登板 (5先発)で5勝頭角、'77年西岡は15登板 (2先発) 3勝でプチ復活。
 そして'82年、無印新人・上川が僅かなチャンスを突いて二塁の半〜準レギ (.227 2本)を獲、 さらには日本シリーズでチーム2連敗→3戦目も6回まで無得点、での7回に起死回生の逆転3ラン本、 など6打点をマークし敢闘賞を受賞 (全6試合)。 勢いそのままに'83年レギュラー掌中 (.249 5本) ~'84年は3割マーク (.309=11位) で7本 5三塁打 17盗塁と大進境。 これが号令となったかのように'83年山本和が半レギ弱(.227 2本)、'84年にも玄岡が半レギ (.293 4本)→ '85年は代打役 (.242 3本)。 また'85年二軍盗塁王の西本和が同年6試合に出場 ~'85年二軍同タイトル者・山崎賢は同年32試合 (58打席で.255 1本)→ '86年より一軍定着 (半レギ弱→代打→半レギ強)、 そして'89年レギュラー定着= .309 (5位) で7本5三塁打 17盗塁 (安打は上川より22多い147)。 ゴールデングラブにベストナインを受賞&オールスターへ出場した他、 本来一・二番打者の柄 {※4}ながらチーム事情で四番の座も任された。
 さらに'86年二軍最多勝の松浦が同年1登板1勝→'87年リリーフエース着座=48登板96・2/3イニングを投げ 8勝8S、 山崎に先んじオールスターにも出場し、1登板2回で1S。 続いて'90年二軍の最優秀救援・石毛が同年一軍でも (23登板) 1S→ '92年よりリリーフエース着座、 3年で計16勝65S (145登板207イニング) を挙げ、 '93年一軍で最優秀救援投手。から'96年ガルベスが16勝で最多勝& 200イニング超で防御率2位、 オールスター~日本シリーズにも出場し「59」 像に “先発投手”陣を新設。 翌年12勝→'98'99年各9勝と着々築城 {※5}し、4年間で計10本塁打、'99年には2本の満塁弾 (投手最多)を放つ貪欲さで、当期間中、 '96年桜井伸の19試合30打席4安打、が最大成果だった野手領へも、同郷(ドミニカ)の二刀流・ベルドモとともに一定イメージを架橋増築した。だがラストシーズンとなった'00年0勝6敗 (前年から数えれば10連敗) で退出すると、その後北川、 ダーウィンが年数度の先発機会でいずれも勝てず {※6}印象希釈。 リリーフエースも二軍では'95年北原、 '05年伊達がタイトル獲得、 '95年別番時に同獲得→「59」着の岩崎、'03年台湾球界一軍で同獲得→「59」着のモレル、に '03年有力候補の1人で開幕一軍始動した松本拓、と出るが新着座なく、 こちらも記憶後退。
 に替わり前線に踊り出たのは捕手勢。 遡って'90年、青柳が半レギ6本 (.227) で山崎より打像バトンを受け、'91年半レギ弱 (1本 .222) と屈んでから、'92年準レギ~レギュラーで9本 (.245) と翔び、'93年も準レギ維持 (5本 .223) 。をイメージ導入に'93'94年木村・・・は外野守備走塁要員定着でスピードをより生かす道を選んだが、その木村が脱番後の'99年(裏ワザ的に) 初捕手出場 (計4試合)。それに誘発されたように、同年相川が一軍デビュー~(ガルベスが不況に陥る) '00年より一軍定着 ('01年まで主に代打で出場) ~ '02'03年半レギへ躍進 (計6本、打率2割台前半) ・・・脱番後にレギュラー獲得。の輩出実績も加味しての "伯楽” ぶりにあやかって、以降新人捕手の入番続々(現状はまだ一軍出場は'04年小川将5試合、だけ)。
 で、 '02年山北が定着&同年橋本半定着、 を導入とし'04年モレルが半定着〜'06'07年ダーウィン定着、 に'07年15登板ながら4勝を挙げた新鋭・金森、 の中継ぎ帯が先に立つ形へと移行。 また当時はリリーフエース (最終救援) 像の “軒” 然だった岸川、西村、 ペルドモの中継ぎ半定着群が、 こうなってみれば先行援軍した感となり印象助長。で投番イメージも顕在。
 二軍にて、 そろそろ孵化気配が漂う山本芳、細谷、に小川が潜在強打力を一軍飛躍させ急先鋒に立つか、 金森+原石6投手が共栄して "散発”に抑え込むかが今後のカギとなる。
【2008年開幕時点】

{※1}'76年にも、 肝炎で長期入院していた西本充が3年ぶり選手復帰し来番 (出場は0)。
{※2}この白崎も180cm (体重73kg) で、 170前後が普通だった当時では頭1つ抜けた長身。
{※3}ちなみに当キャンプで新人・長島茂雄のプロ初キャッチボールの相手をしたのが馬場。翌年キャンプの紅白戦では新人・王貞治の初打席時相手投手ともなった。
{※4}バット形状も、一・二番打者向きのグリップ部が太い通称 "タイ カップ型、をカリカチュアさせたようなグリップ極太の通称「こけしバット」を愛用。
{※5}このガルベスの活躍は、米国で頭打ち→台湾 (or韓国) 球界経由で日本入り、が路線化するきっかけとなった。「59」ではモレルが当該者。趣向は違うがベルドモも (日本→ドミニカ帰国→)台湾球界経験(→日本復帰2年目「59」着)。 また日本発では吉成、 山田裕、木山、小野、真木が脱番後、田中聡は来番前、笹川も'03年一時、他国球界参戦。さらに各々脱番後に土居がコーチ、山根は監督、大慈弥もスカウトで在籍。加えて深沢は日本の独立プロリーグ→当機構(NPB)入り、富岡は脱番後、 独立リーグ入り。
{※6}最も「惜し!」かったのが'01年近鉄の優勝王手試合で先発時の北川。 7回途中2失点の好投~8回終わって自軍3点リード、 も9回相手方に代打満塁逆転サヨナラ本塁打が出て勝利ならず.・・・'03年今度はダイエーの優勝王手試合に救援登板しプロ初勝利。
【2008年開幕時点】