2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

60

【2008年開幕時点】

 

 厳密には'53年着の(専任) 投手コーチの元祖・谷口 {※1}がいるが、何といっても「60」を表舞台へと押し上げたのは三原。 入番した'54年はライオンズ監督就任4年目。この年二塁に仰木彬、 一塁に河野昭修が準定着し、 既成レギュラーの三塁・中西太、遊撃 豊田泰光と合わせた “黄金の内野 ”陣容 (ほぼ) 決定。 また (くしくものち 「60」を着ける) 石本秀一が若手投手を鍛え西村貞朗、 河村久文に大津守と揃い、ベテラン・大下弘の巧打も冴え、でついに初栄冠 (日本シリーズでは敗北・・・相手方監督はのち「60」 着の天知俊一) 〜翌年2位。 から'56年、 西鉄 「野武士軍団」 最後のピース、 というより各惑星 {※2}の軌道を定めた “恒星”稲尾和久入団 (当年シーズンのエース格は島原幸雄)。 残り 30試合時点で首位に7ゲーム差、 から猛追撃でペナント奪取すると、三原が長年抱き続けた“打倒・巨人”を叶える機会がついに訪れる (背番号 「31」「50」参照)。 そして敵将・水原円裕 (=茂と同一人物)との "巌流島決闘”は6戦目で、このシリーズで全試合登板した稲尾が完投胴上げ投手となって決着。翌'57年は一番・高倉照幸から豊田〜中西〜大下・・・と続く 「流線型打線 {※3}」 が完成し2連覇。 '58年は11ゲーム差をひっくり返して優勝〜シリーズでも3連敗後4連勝の神がかり的な逆転劇で3連続(水原巨人を負かしての) 制覇。 すると (翌年4位〜) '60年、もはや短期決戦では(打倒巨人、打倒水原には)食い足りないとばかりにセリーグへ乗り込み、前年まで6年連続最下位のホエールズを、開幕6連敗スタートしながら、1点差試合34勝17敗に集約される “作戦統率の妙{※4}”を駆使して優勝。日本シリーズも全て1点差勝ちで4連勝 (ちなみに相手方監督はかつて「60」を着けた西本幸雄)。 そしてセ2位に終わった巨人の将・水原は退団〜フライヤーズ=パリーグへ移籍。 だから、というわけではないだろうがホエールズは翌年最下位に落ち、'62'64年は優勝争いするも逆転敗北 (両年とも覇権をさらったのはタイガース・・・監督はかつて「60」着の藤本定義)。 で、結局三原が監督として優勝を味わったのは (脱番後も含め) '60年が最後となった{※5}。
 以後、くしくも “三原ホエールズ”でヘッドコーチを務めた別所、 選手だった近藤、に '57年開幕戦で“三原ライオンズ”相手に71 球の最少タイ完投勝利を挙げた植村、が「60」 監督を継いだが全て下位。 また三原在番中や代理監督者を入れても全年下位。 ただ植村は投手コーチでは手腕を発揮、 中原、稲川に短期着だが河村も高評を得、「谷口番」 の由緒を正した。
 一方、 選手「60」は黎明期、 日本球界 “テスト生出身 no.1 ”実績者となる野村、 に中野、高橋明が脱番後主力、 後藤修も脱初年準戦力となり、 溝上も代打定着と “出世番”としては上々の発進。「60」リアルタイムでは'57年、梅本が9登板4勝 (1完封)・・・するが以後長期沈黙。ようやく'70年にルーキー・坪井が18試合に出て4安打1本塁打 ( &二軍首位打者) とちょっと芽吹いたあと、'77年テスト生・大野豊が1/3イニング5失点(防御率 135.00) とかつての野村'54年11 打席5三振 (0安打) デビューを思わす散々な内容。 ながら脱番後、 野村同様主軸に成長。次々着・今井も脱番後に代走役でカープ戦力に参画。 逆に'79年大石は、 かつて2桁勝利5度の実績者で当年ラスト2年目着〜リリーフ36登板。

 ここまでがビッグバン以前である。
 '83年、バリバリ四番の門田が来番。 実質初といえる「60」選手への熱い視線が注がれる中、いきなり40発を放って自身2度目の本塁打王。その後は30本前後に落ち着いたが88年、40才にして44本、125打点の2冠+打率3割、 &初の全試合出場 (=DHなので外野手だった若手〜中堅時と単純比較できないが) 。オフ、移籍で脱番となるが94年、逆に移籍来番という形で日本球界が誇るもう1人のヒロミツ、落合が 「60」着。 当年41才を迎えるが12月生まれのためシーズン中は "40才”、 そして "四番”での参与。 15本 .280と数字は今一つながら優勝請負業務を完遂 (「60」では'60年三原以来) したことで'88年時の門田イメージの対句となった {※6}。 その影響もあるのか中谷忠、白幡(隆宗時)、 荒井、高橋智、大豊[たいほう]、村上の代打定着者は荒井以降入番年齢30代、大豊、村上は35才超とあとへ続くにつれ高齢化。
 反面、'86年〜守備要員準定着の川相、から '93年二番で半レギ弱の嶋田、'95年〜一番準レギ、'98年は初規定打席到達で3割マークの大村、'99'00 年遊撃 or 二塁の準レギ〜'01年控え定着の田中秀(に控え微定着の松元、吉本、 田中雅、宮崎、稲嶺)のかきまわし役は、台頭年齢でも一番上で嶋田 (に吉本、宮崎) の27才と若め。 ただ、 川相以外”左打”というところに門田イメージの影がうかがえる (〜'08年、次代候補として三輪、安部の同特徴選手新着)。
 打特長選手も当初は左打者が集まっていたが、落合、 そのあとマルティネスが'97'98年連続30発以上 ('97年は3割、100打点もクリア)で続き、さらに '99年高橋智が半レギ強で(代打と併せ) 16本・・・でイメージ右傾{※8}。 村上 (に微定着だが伊与田、牧田) も控えで続き、次代本命として'02年入番した中村剛が03年、(二軍本塁打王〜) 終盤いきなり四番スタメンで初出場し、初打席で初安打初打点〜翌年初本塁打を放つと'05年、
80試合で22本(特に5月は10本、うち1試合2本3度)と開眼・・・が以降9〜7本で減産(〜'08年“左”の本命・中村晃が新着)。
 さて、他方投勢は宮下('86年40登板3勝)、永野( '88'89年計38登板 2勝) が半孵化したあと、 '94年〜グロス先発定着でイメージ孵化。 5年間で55勝 (9完封)をマークし、落合〜マルティネスのちょうど間隙を突いての '95~'96年に各16~17勝で連続最多勝。 投げる「60」像を大いに刷り込んだ。 その後実績者の手を借り、'00年新谷が8先発3勝+リリーフ20登板、'03年には西川が中継ぎ役43登板と各々ラスト2年目で最後の力を振りしぼり投像増進に寄与。 つられるように'00年に前田浩6先発2勝・・・で翌年の先発定着への足掛かりをつかむと、次着・河端は中継ぎ役41登板 & 日本シリーズ4登板〜脱番後も継続活躍、さらに次着の石堂も'03年5先発4勝〜'04年16先発6勝の準ブレイクとスワローズの新戦力が続々輩出される。 また'99年藤﨑(8月2度)、'04年平岡(4月に1度)は高卒1年目で先発マウンドを踏んだ。ただ藤﨑は毎年数登板のチャンスを生かせず'02年1勝のみ、 平岡は夏に肩痛リタイア。 同'04年4月に抑え着座(9登板5S)の伊藤も肘痛で長期離脱。 それでも'05年、藤﨑(に石堂)が開幕ローテ入り。期待がかかるが4先発3敗 (石堂も5先発1勝2敗) と応えられず。・・・'06年はリリーフ中心21登板 (石堂は0〜'07年は藤﨑、石堂とも0)、 を最後に選手引退。
 と入れ替わるように'06年、成瀬が13先発5勝(1完封)。 10月には高卒1年目・齊藤が初登板先発勝利してイメージ反転(すると伊藤も終盤2年半ぶり復帰し5登板 2H)。そして'07年、成瀬が16勝1敗 (4完封) 、防御率&勝率とも1位と一気に抜きん出た(伊藤 11 登板、 齊藤は0)。 加えて二軍では深田[ふかた]が防御率&勝率とも1位で “次” へ名乗り上げれば、 '08年高卒1年目の佐藤が新着と左腕 (前田も含め、 現状では "輩出”) 番
号像屹立の流れができつつある。
【2008年開幕時点】

{※1}大正時代の早大エース〜大連実業団。 '28年都市対抗決勝戦で1-0完封&タイムリー安打。'79年殿堂入りの名選手だが、 “ジャイアント馬場のプロ野球選手時分の師匠”としてプロレスファン間にも知名度あり。 他業界で名が有るといえば石本龍は退番〜競輪A級選手。 後藤修は尾崎将司(=もこの道の大家だが)のイップス=過緊張からくる瞬間コントロール不全病も克服させたゴルファー指導者。 新田も慶大野球部主将〜ゴルファー、より「ゴルフスイング理論」 を構築し再び野球界席巻~来番。
{※2}三原は選手をこう喩えた・・・そして三原は各惑星(地球[ファン]も含めた)の「月」を全兼任した。
{※3}てっとり早くいえば三番最強打者説。その三番を最大限に生かすため一〜二〜三番と段々長打力が増すよう並べ、四番以下は始末役で確実性の高い順に置いていく。 その上で一番には初回“宣誓”本塁打も求める。という構想に適ったのが列挙の4人で上位を組んだ "戦意喪失”誘発打線(ただし役者不揃い時は “四番最強” 説を採った)。
{※4}翌年『菊池寛賞』をスポーツ人として初受賞した際の、選出理由がこのフレーズ。
{※5}脱番後バファローズ〜アトムズで監督、ファイターズで球団社長〜 '81年(くしくも前身・フライヤーズでの'62年水原監督時以来となる)優勝をお膳立て。選手、監督、 球団社長で優勝を経験したのは史上唯一。他に根本、岡本がのちフロント要職在任。
{※6}加えて出番少だが代打の後関'87年、松井隆'95年{※7}と1本塁打して双句の奥行き微拡張。
{※7}また当年松井&橋本将が野村以来の「60」捕手出場〜'97年橋本、'98'00年田村が各30試合弱。
{※8}そんな中、逆行するように峰秀[たかひで]→大豊→瀬間仲の左長距離打者リレーを興し、しかも各々韓国→台湾→ブラジル出身 (ただし峰秀 〔新井峰秀〕 は出生〜小4まで日本) のサイドイメージまで添付して定着を意気込んでいたドラゴンズにて、'04年、右の同系・清水と瀬間仲との「65」⇄「60」交換で流れがストップする結果を呼んだ ”大量背番号シャッフル” を立案~挙行したのは、この時ドラゴンズ監督に就いていた落合。
【2008年開幕時点】