2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

57

【2008年開幕時点】

 

 ドラゴンズの出世番として著名な「57」。そのイメージが付いたのは'80年代の平野から。
 '78年に投手として入団(1年目は「81」番)。'79年途中~外野手転向。'80年途中~両打[スイッチ]転向。4年目の'81年(大卒なのですでに26才)に1軍初出場、翌年レギュラーになった遅咲き。この'82年二番で51犠打(当時新記録)、14補殺(=送球アウト数)ともリーグトップで打率.288、20盗塁&ゴールデングラブ賞受賞。 しかもチームの8年ぶり優勝にも貢献と一気に“プロ野球選手”としての地平に立った。脱番後も引き続きレギュラー~一番に入った'85年打率3割、'86年盗塁王と順調に成長し、'87年選手会長就任。が、4月骨折リタイア。ここで代役に抜擢されたのが次着「57」の彦野。過去4年間計30試合のプロ5年生(高卒なので23才)は3試合目に先制打、4試合目に4安打と猛アピールを展開し、1ヶ月半後の平野復帰からは互いに準レギュラー格として競合。オフ、平野が移籍すると、翌'88年一番に座り.273、15本塁打&ゴールデングラブ賞の活躍で'82年以来のチーム優勝に貢献。さらに'89年26本塁打&得点王&ゴールデングラブ (~'90年も同賞受賞)にオールスターでMVPと順調に成長。も、'91年6月にサヨナラ本塁打を放った直後、一塁ベースを回った際に左膝を痛めて転倒、同僚にかつがれ退場し、代走者がダイヤモンドを一周する珍事を現出。残りのシーズンも棒に振り、背番号はオフ改番となる(~'98年再着番も7打席0安打)。
 から次々着・野口が「57」では8登板0勝も、脱番後の'99年MVPの活躍で'88年以来の優勝に大寄与。またかつての平野同様大学で投手&野手の2刀流で鳴らした蔵本が、3年目の'01年1軍に上がり15試合で14安打1本。'02年~守備走塁定着。英智[ひでのり]と改称した'04年初めて出場試合が100を超え、福留[ふくどめ]孝介の五輪出場~帰還後さらに骨折離脱…・・・の穴を見事埋める活躍で、実質半レギながらゴールデングラブを受賞&'99年以来の優勝へ貢献(~'05年は控え)。'06年準レギ格で2年ぶり優勝寄与(~'07年半レギ)。と、'99年時を除くと優勝の度に当該「57」の叩き上げ&球団お膝元(愛知 + 英智のみ準地元の岐阜)出身{※1}選手が“壊刀”的活躍を見せ、ドラゴンズにとっては出世番以上の意味を持つ“ご利益ナンバー”となっている。
 また、平野~彦野~英智の“俊足バイプレーヤー”は全体的にも「57」と相性がよく、'71年には若松、もっと遡れば'50年代中盤台頃の広瀬、とのちに首位打者を獲る「57」OBの2大巨頭が、かけ出しの俊足“バイプレーヤー”時に滞番。そして平野~彦野、の各「57」躍動のちょうど空白期、やはり脱番後首位打者となる同系・佐々木誠が'85年1軍定着~'86年半レギ格と“穴”を埋め、当イメージ常在浸透。
 対抗勢力としては、平野に先んじて頭角を現していた'77~'79年佐藤文{※2}、'78'79年大野、より発動のリリーフ投手像。平野~佐々木のちょうど空白年となる'83年には、神通力イマイチも金本[かなもと]が30登板弱でイメージを注ぎ、'84年森厚は14登板ながら、5月のプロ初打席で初球を本塁打して存在微拡張。も、その後沈黙。かわって台頭したのが、'87年より1軍半~準定着、'91年より半レギ着座の古久保、'96年定着、'97年より準レギ~レギュラー格の的山、の捕手像。助勢役として'90年大塚が10試合台ながら.357 3本、'91年坊西が第3捕手定着、同'91年今久留主[いまくるす]は出番わずかもプロ初安打がサヨナラタイムリーの話題提供。
 また'90年から森範が内野守備要員として定着し、'92年は遊撃半レギュラー。'94年からは上田浩も内野守備定着。森は実働9年326試合591打席で124安打 8本、スタメン出場もたびたび&初安打が本塁打と話題も生んだが、上田は実働13年716試合で314打席(49安打0本)、'00年時点では438試合で102打席 (13安打)とほとんど守備固めだけ出場。高校時7試合連続本塁打を記録した“パワーヒッター”であったことが冗談に思えるほど地味な役割[キャラ]で徹した。
 一方で強打者・佐藤幸が'91年~1軍定着して、“彦野”の堅守像、強打像が各々枝分かれして継がれる形となり、佐藤が半レギの座を獲た'93年~メディーナ、ディアーと“真打ち”大砲続々来日の追い風が吹く。が、メディーナは'93年故障で3試合~'94年14本&三振王~'95年(35試合で)4本。ディアーは'94年(70試合で)8本&打率1割台・・・と“大型扇風機”化してイメージ散逸。佐藤も'94年13試合と急落。ようやく'95年後半~代打要員で再定着、100試合超えを果たした'98年~切り札的存在となり、'98と'01年はスタメン時と併せ準レギ級の出番を獲て各8本と堅守方の上田同様の息の長さでイメージ再構築。'99年からは好打の林孝が(過去'95年6試合出場のみ→) 8年目に台頭~定着し、'98年~こちらも好打者にスタイル改造した佐藤をフォロー(→'05年マリーンズの「57」を直接引き継ぐも、2年間計4打席)。
 同時に、林は(上田と比べると“無難”レベルながら)万能内野手でもあり、'01年に関しては49試合で21打席とほぼ守備要員の印象。'05年からは(過去7年間で11試合→)8年目の飯山が1軍台頭~定着。守備精度も“堅守”レベルと上田の後継に着任。また'06年には脇谷[わきや]が後半二塁レギュラー。好打&俊足も併せて生かし“一番”像をも半復活させた。
 また彦野が属した“外野”の堅守像は'02年~蔵本(英智)が再発現。捕手も古久保~的山で次代正捕手番イメージを芽吹かせたあと、'02年6月入番の実績者・田口が正捕手・城島健司の負傷離脱を埋め、城島復帰後第2捕手定着。'04年、鶴岡が(過去8年で計24試合→)正捕手・相川亮二の五輪出場時の穴埋め役、をきっかけに60打席で打率.400~以降第2捕手(&'06年代打にも)定着。で'60年代以降2軍定住が常だった「57」捕手像を“1軍昇格”させた。
 そして長らく休眠中だったリリーフ投手像も'01年~條辺[じょうべ]、'04年~三瀬と頭角を現し再始動。くしくも同時期、米大リーグで'02年~右のフランシスコ・ロドリゲス(通称K-ロッド)、'04年~左のヨハン・サンタナが大開眼して「57」株日米同時急騰(ただしサンタナは先発投手)。相乗を励みにさらなる席巻気運も焚かれたが、今なお大リーグ最強クローザー、にスターターとの呼び声高い「57」コンビに対し、日本の條辺は'03年以降絶不調に陥り、'05年わずか24才で選手引退。三瀬は('04年セーブ王~)'05年も4月11Sと好スタート・・・もそこから急衰勢しリリーフno.2異動~'06年左のno.2~'07年は劣勢時の登場中心と徐々に神通力低下。それでもこの間「57」では最も矢面に立っており、暫定ながら現在の「57」旗頭は三瀬。
 またかつて、「57」 プレーヤーで初めて1軍に定着したのも三瀬(雅康)。'54年、遊撃中心に守備固め + 代走要員で50試合に出場した。その後、'55年青木に萱[かや]原、'56年酒井と控え定着、'55年石川緑10登板で3勝。そして'56年トータル19試合(26打席)ながら.400、7月の初スタメン試合では第1打席三塁打~第2打席バント安打・・・で計4安打&初盗塁マーク、9月に勝負どころ(7回)で代走出場の際はフィールディングの名手・荒巻淳投手からバント野選を2連続で誘い二塁→三塁と進み、犠牲フライで本塁生還、の巧センスを見せつけた広瀬が'57年主に遊撃で準レギ~'58年よりレギュラー。 '58'59年と得点王&'58年二塁打王&'60年三塁打王、さらに'58年30盗塁~'59年打率3割~'60年10本塁打クリアと理想的なリードオフマン像を描出。 (投手より転向の点も含め) その後の「57」野手レギュラーの原型も象った。この間'57年浅越、'59年石井茂が顔見せ的に30前後出場。そして'61年宮原が代打定着、'65年亀田は同半定着、'60年には内野控えで松下、'69年出番わずかも守備走塁でチャンスを得た上田武が打っても23打席で3本塁打と猛アピール。のスポット参戦が続き、'71年若松が準レギながら3割強、3本6盗(で翌年首位打者、14本20盗塁の前兆萌芽)~'72年マックファーデンも半レギ弱(.283)で2本 6打点の5盗塁 2三塁打と俊足好打系、'74年守備走塁定着の今津も含め「57」はこのタイプ主調でまとまっていく。そして、しばしの空白&リリーフ投手像の発動でイメージが薄れかけたところで、冒頭のドラゴンズ勢の連鎖台頭開始。
 から'07年、その出世性質は“元ドラゴンズ”の小山にも伝幡。(過去10年間で123登板3先発の5勝12敗0S→)同年後半、リリーフエース・福盛和男の負傷離脱により後釜抜擢されると3勝1敗16S(防御率0.58)と開眼。くしくもドラゴンズ時の先輩・野口におっとり顔や大柄体型、時おり露わとなる小心さまでソックリで、野口が「57」で躍動できなかった分を埋め合わせるかのような奮闘ぶりでリリーフ投手像を進境させた。
 すると'08年、本元のドラゴンズで五輪出場濃厚な荒木雅博or 井端弘和の、当初より“穴埋め”候補として堅守内野手・デラロサが入番。また小山は、福盛大リーグ移籍で代役から完全1人立ちする好機を得た。同時に「57」も補填番イメージを脱却させる絶好のチャンスだ。
【2008年開幕時点】

{※1}ただし彦野は生まれは石川。また当該での寄与でなかった野口は愛媛の出身。
{※2}選手引退後高校野球部監督に。「57」OBでは竹本も同じ道をたどった(金刃[かねと]憲人~宮西尚生は竹本の教え子1~2期生)。
【2008年開幕時点】