2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

46

【2008年開幕時点】

 

 「46」のイメージデビューは'53年。前年春の甲子園大会で4試合オール完封で優勝投手となった田所の入場時。しかしプロの水は甘くなく、29登板2勝6敗に終わった。シーズン終盤にはもう1人の高卒1年目投手、中村が10登板でアレヨアレヨと4勝(2敗)を挙げ、日本シリーズでも第2戦に先発 (7回に3連続被本塁打で逆転され負け投手)。衆目はこちらへ移っていった。その後'55年宮崎1勝を挟んで、'56年長光が55登板で13勝~'57年も46登板12勝を挙げ、イメージは“投手”番号で固まっていく。ただ重量番号柄、そうそう順風なフォローは吹かず'57年後藤2勝、'58年長光も3勝(~以降0勝)、'60'61年波山各1勝と衰勢。
 対して野手陣は'56年恵[え]川が遊撃控え~'57年三塁半レギでイメージ胎動。から瓦谷('61年)、松並('62年)の両捕手が控え定着。'63年には守備走塁要員で田中裕(三好も代打兼務で半)定着。そしてまたもホークスから国貞が、'64~'65年と二塁半~準レギュラーで台頭し、両年とも日本シリーズ出場 ('64年はチーム最多の5打点)。
 しかし'65年、投に逸材。前年夏の第46回甲子園大会出場にちなんで「46」着した成田文。当大会前、プロ球団との2重契約騒動が持ち上がって大会に出場できなかった高橋一(この年はドラフト制導入前年。またかつての田所もプロ入団時に同騒動の渦中となった)。ただ初年度は成田1登、高橋3登。を、尻目にもう1人の高卒1年目、平岡が31登。以降も37、57、66と投げ(計10勝19敗)、後2年はリーグ最多登板。うち先発は計15の中継ぎ役。他番時も含め通算で対王貞治50打数0被本塁打で「王様殺し」と称された(ただし13被安打で被打率は.260、加えて15年与四球、許出塁率.431と“抑え込む”までは至らず。余談だが横浜高出の初プロ野球選手)。さて成田は'66年8勝、翌年~5年連続2桁勝利(20勝台3度)、で計100勝に達したところで「18」へ。脱番後の'72'73年を含め、8度出場したオールスターで6度先発を務めるなどチーム、にとどまらず“パリーグの”エースとして活躍した。そして高橋は'66年準先発要員で6勝を挙げると「21」改。他メンバーでは'67年7勝~'69年5勝の佐々木、'67年3勝~'68年1勝の城野が「成田番」フォロー。'71年には、前年まで計20登0勝の藤本が突如花咲き10勝、8月には無安打無得点も記録し、1.71で防御率のタイトルまで獲っていった(~も翌年以降1勝もできず、の強烈1年開花)。
 野手はようやく'73年大室が半レギ格、以降守備走塁定着。'76年昇格の大島忠は翌年以降(主に'77'78年と)代打役。'79年昇格の岡本圭、同年新人の川又も代打、'82年小沢は代走、微出場だが'81年兼光は守備固めでといった地味な配役を経て、'85'86年と村上隆が正遊撃手の座獲得。守備は粗いが(=両年とも失策王)16~22本塁打と強打魅力のスター候補がイメージ参画して光明が舞い込むと、'86年こちらも人気者となる栗山が台頭。準レギ格ながら3割マーク~翌年控え陥落も、'88~'89年と一~二番レギュラーに定着。盗塁はさほどでもないが内野安打の多い健脚持ちで、'88年規定打席不足も.331~'89年は.250台に降下もゴールデングラブを受賞。この村上&栗山の存在が以後「46」野手のイメージ原本となる。
 その間投手は平岡(に半定着だが'68年渡辺)を印象起点に'74年~竹田、'77'78年安木&小俣の左リリーバー勢が躍動。特に'74'75年の竹田は優勝争い最中のチームで“リリーフ no.2”を担い、'74年は優勝~日本シリーズでも3試合に登板した。'80年代に入りフルでの躍動例は一旦途絶えるが、若手野手揃い踏みの'86年に伊藤優が台頭。から'92'93年河本がストッパーで各40登(='93年1先発あり)し各20SP[セーブポイント]と“結実型”も現出。ながら、それ以外では'88年に再び伊藤、'90と'92年乱橋、'94'95年清原、'94年伊林、'00年河野[こうの]博、'06年佐久本、'07年野口がリリーバーで一定定着したものの、安定していたのは'95年の清原だけ(この年チーム優勝~日本シリーズ2登板)。右で同役着座の'76年倉持、'86年平沼、'98年カラーラ、'99年木村恵、'00'02'04'05年山﨑健、'06年デニー友利(に'90年山内、'95年金澤、'99年伊藤剛も半定着。また'82年金井、'95年古[こ]池はストッパーで微定着)ともども切り札ではなく“猫の目継投員”中の1人といった感が強く、群像としては今1つ突き抜けられない印象で落ち着いてしまった。一方“成田(=先発)”像の躍動具合は、安木がほぼリリーバーの'77'78年先発でも各2勝→先発と半々になった'79~'81年計先発7 + 救援3勝。'86年伊藤も終盤4先発2勝(1完封)。'95年古池は先発メインの5(+救援1)勝~'97年4勝。という中で、三浦が'93年8先発3勝~'94年6先発1勝(=完封)、から'95~'97年と規定投球回到達して計23勝(21敗)、'97年は10勝(3敗で最高勝率)と“成田”の後継資格を得たが、得たと同時に「18」 変更を踏襲してイメージ霧散。以降は'05年グローバー5勝。他にドラフト1位入団着の白井が'86年1勝(=完投)、同じくの谷口が'01'02年各1 (+'01年救援2)勝、3巡目(='00年までの2位)着の大島崇が'05年2勝で予惑を焚いたが、以来浮上せず鎮静。 入番直前'06年の台湾最多勝投手・呉[ウ]も苦戦。また救援陣も含め平成に入ってから、山内、高木、金澤、木村恵、河野博、山﨑健、河[かわ]野昌、デニー友利、佐久本、野口とかつて活躍~下降線をたどる“昔名前”の選手が多く、成田幸、乱橋、清原、古池、伊林、金澤、川邉[かわべ]、鈴木哲、山﨑、デニー、佐久本のサイド勢の多さ(&松崎もアンダー)とともに“漂泊感”がもたらされ(ただし成田、古池、山﨑に松崎は元から変則。また成田、デニーは本格派だが)“くたびれた”印象をも醸す結果となっている。
 そうなると(平成以降)横田しか“昔名前”のいない打方にイメージ“リフレッシュ”されるのは当然の流れ。ただその動きが活性するまで少々時間を要し、'88年に控えで一定定着した横谷は翌'89年、60打席で3本塁打と村上崇に続く気配を見せた・・・が以後伸び悩み。'95年2軍本塁打王の徳本は、その前'94年に2軍で当時新{※1}の51盗塁をマークした。“栗山”後継候補の前田、ともども1軍出場果たせず。で、'90年代は控え捕手・坊西がほぼ唯一の発現者。
 それも出場数は('90年代では)'95年54試合が最多(以外は10~20台)とアピールテリトリー狭小。'98年2軍で首位打者~'99年打点王の巧打を武器にそれに続かんとしていた衣川も、1軍では両年3試合ずつ・・・だったが、'98年は6打数3安打の.500、1打点と与えられたチャンスで精一杯の好アピール。また'99年には坊西が、9試合ながら7打数4安打、そのうちの1本がシーズン終盤でのサヨナラタイムリーとなり、日本シリーズにも代打出場。翌'00年は正捕手・城島健司の負傷離脱中の“正捕手”を務め、城島復帰後の9月には、代打勝ち越しタイムリー~の翌日代打同点本塁打を放つ活躍ぶりで自己最多の74試合に出場〜日本シリーズ2年連続代打出場。以降も代打の切り札で持ち場確保。さらには'01年、この年半レギ捕手兼代打に定着していた北川が、優勝王手試合の9回3点ビハインドの場面で登場すると「代打逆転サヨナラ満塁“優勝決定”本塁打」を打ち上げ、日本シリーズでも14数7安打と大当たり。翌'02年は反動が来たように代打&DH控え要員で1本止まりも、'03年一塁兼DH準レギュラーで13本を放つと、'04年一塁・五番レギュラーで全試合出場し20本&打率3割マーク。 北川が退色した“捕手”では'02'03年野田~'04'05年小田が各年30試合前後。北川が結実させた“強打”でも'04年、迎[むかえ]が控えで5本、北川とキャラ酷似のG.G.佐藤も3本と後進も着々台頭・・・。と順調だったのだが、'04年オフに近鉄とオリックスが球団合併(実体はオリックスの吸収)すると、これを機に北川が「46」を近鉄での思い出として“バックナンバー ”化(~「23」へ改番)。またこの合併で両球団の同タイプ選手も“統合”され、そのあおりも食った迎は翌年以降出場減。 G.G.佐藤は'05年代打~'06年序盤大爆発、も結局4本。“捕手”からも野田~小田が進境過程で立て続けに抜け、“北川”派生像は縮小の一途となる。
 さてその興隆像の緒端である坊西サヨナラ打が生まれた'99年、もう一派の俊足一、二番方からも新人・東出が二塁で半レギ台頃。これがきっかけとなり同系プレーヤーを続々入番させると、'01年~森本1軍定着、'04年は土谷も1軍準定着。そして'05年森本準レギ~'06年レギュラー奪取。同'06年鉄平(=土谷から改称)もレギュラー開花し「一番」共演。森本は得点王&日本シリーズ6得点(に7安打、打率.362)もトップ、鉄平も3割&三塁打王と一気にイメージ更新。から'07年森本脱番、鉄平不調で一番から外れ・・・るも、中盤より本多が一番定着&34盗塁。加えて飯原が三塁レギュラーで23盗塁~オフ脱番も、新たに岩﨑、鬼崎がレギュラー争い参戦と完全に旗印的イメージとして浸透した。
 そして、強打方のG.G.佐藤も'07年中軸準定着で25本、迎は2軍で3冠王~脱番も、かつて'03年22本の古木が入番。投手もそれまでの昔名前から一転、'06年鶴~'07年植村~'08年田中健と高卒直入団者の新人参番が相次いでおり、“成田”像再席巻プランも実行中。
【2008年開幕時点】

{※1}従来記録者も「46」小沢で'83年47(当時80試合制~'94年は100試合。また現記録は60)。
【2008年開幕時点】