2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

56

【2008年開幕時点】

 

 これといって特徴のない「56」にあって{※1}、ジャイアンツがこ25年ほど次代正捕手リレーを通しているのがひときわ目につく。 脱番後、村田真がレギュラーとなり、杉山と村田善もレギュラー争いに参戦し、すっかりそのイメージが浸透した(2008年当時)。現メンバー・加藤健も当然その後続を期待され入番したが、'01年に同チーム所属となった鳴り物入りルーキー・阿部慎之助が、以来どっかと正捕手鎮座し、かつ年令が加藤の2つ上であることから、なかなか加藤に“次代正捕手”を描きにくい現況となっている。それでも'06年、8年目でプロ初安打&初打点~'07年、9年目で初本塁打&初お立ち台を経験し、チームの控え捕手陣で2年連続出場数最多とジワジワ進境中。これは9年目に1軍戦力初定着した村田真、8年目('95年)に初定着の杉山、7年目('99年=脱番初年)に初定着の村田善、から通底の粘り強さ。
 他球団を見ても、福島が「56」での3年間とも出場数1桁→脱番後の9年目にレギュラー格、寺田が「56」では出場なし→脱番後の9年目に初定着(ただし代打。捕手出場は0)、光山が3年目に43試合~一定定着・・・も徐々に出場減(6年日14試合)→脱番初年の7年目半レギ、以降完全定着。田上は「56」で計2試合→脱番初年の5年目(27才) DH半レギ~6年目捕手半レギ…・・・と粘り強さは「56」捕手の信条。杉山、村田善を除き“強打”の共通特長もある。
 この第1号は大和田。主に外野だが捕手も兼任の強打者で、「56」では3年間計68試合14安打2本塁打→脱番後、カープの四番打者へと大出世を遂げた。その初陣となる'55年、32試合(33打席) で7安打2本を残し、同年のちの盗塁王・中も17試合(19打席) 3安打2盗塁デビュー。また元ベストナイン捕手・荒川が28試合(25打席)2安打を最後に選手引退。
 もう1人の'55年プロ入り組、木戸は翌'56年 20登板(6先発)で3勝(1敗。1完封)すると、'57年「 29」に変えて17勝(&最高勝率) ブレイク。その'57年、22登板で2勝した秋本は翌'58年、“「56」のままで”13連勝含む14勝(4敗で最高勝率) ブレイク。 '59年は3勝9敗に終わったが、
'60年、かわって“怪傑[かいけつ]”ソロムコが「56」のイメージ大使に着任。米軍・座間キャンプで兵士としての任務を終えてタイガース入り、の異色派24才は7月に2試合連続初回先頭打者弾~さらに別回[イニング]で2試合続け計4試合連続本塁打(当時記録は5試合)、同月オールスターで
も1発を放ち“ホームラン打者”イメージ侵透。施。また'62年、当時タイの121三振を記録し(厳密には'54年レッカが初だが、ある程度長期に渡りプレーした中では)“三振か、本塁打か”の元祖的外国人となった。ただ本数は最多で22と、実質的には量産型でなく“伏兵”の趣。
そして'61年~'三宅、'64年~鈴木、'65年~中島節が代打要員として打像フォロー。また毎年10盗塁前後でそこそこ俊足だったソロムコの走像サポーターには守備走塁字員で小定着の'59年柳田、'63年須崎。それを迎える投方からも、青木宥が'60'61年と戦力半定着して各6、2勝、'61年には完封もマーク。'62年佐々木宏はわずか4登板なから1勝。
 だがソロムコが抜けて以降、'68年までの鈴木、'66年までの中島節、以外表立った活躍はなく、むしろ'65年に「野呂瀬」「阿佐美」「安次嶺」が(パリーグに)揃い踏んだことや、近年まで監督を務めた川崎〜林義、田丸がコーチ(田丸は2軍担当)で続々来番したことの方が表層上目につき、'60年代後半「56」選手像は急速に色褪せる。
 ようやく'70年、実績者・山本重が救援17登板で自身4年ぶり勝ち星、含む2勝で再スタート。から'71'72年阪口28登板、'72年はうち13先発のチャンスを得た・・・が結局完封の1勝のみ。野手は守備走塁要員で'72'73年猿渡~'79年加倉が小定着、'78年慶元[けいもと]がフル定着でリスタート。先に抜けたのは投手。'80年金井~'82年安木が救援定着(安木はシリーズでも4登板)~'83年安木は先発でも3勝( + 救援1勝)1完封。'83年最終戦では御子柴が初先発初勝利をマーク。
 すると'84年、小川史が守備走塁定着~'85年一気に100試合超 (221打席)で遊撃半レギ要員に。また、'84年村田真が17試合9安打で二塁打3、三塁打1、本塁打2。'86年光山は単打を中心に13安打で.283と打撃上手捕手続々デビュー (捕手1出場ながら'85年白幡も6安打 .286で本塁打2)。 も、 村田は右肩痛を患い、光山も停滞(小川、白幡は改番)と予感収縮。かわって、初勝利以降沈帯していた御子柴が'87年40登板超~'88'89年30登板前後で定着。'89年には無四球完封も記録・・・したが、'90'91年各10登板前後へ後退。で、再び形成逆転。'89年シーズンでは14試合に留まった光山が、日本シリーズで正捕手負傷によりチャンスを得ると、第3戦2点本塁打&好リードで3連勝目を演出してお立ち台に登場。そして'90年、村田が84試合243打席の半~準レギ躍進。 打っては.273、57安打中二塁打15 、三塁打1、本塁打13の猛打ぶりでベストナインにも選ばれ、(前年の光山に続き)シリーズでも1発。
 一方野手は'85年北、'87'90'92年渡辺、'89年山野が10試合強に出て小川の守&走像を微フォロー( + 山野は打でも10安打.345)し、前原が'90年内野控え定着~'92年100試合超 (379打席)で主に三塁の準レギ~レギュラー格。 下位打順で90安打、9本&オールスターでは2点タイムリーと名を売った。が、'93'94年はともに半レギ、両年合わせ89安打、9本と伸び悩む。
 そして1歩先に伸び悩んでいた御子柴が、'92年中継ぎで再躍動~'93年40登板超(5勝1S)~'94年は準先発要員で4勝とバイプレーヤー定着を果たした。この御子柴の粘り強さに触発されたように、'95年、それまで13年間で55試合(15安打、2本)に留まっていた渡辺が14年目の急ブレイク。二塁レギュラーに定着し、「56」ではソロムコ以来となる規定打席到達、.246 3本 14盗塁をマークした。すると翌’96年、かつてドラフト1位でプロ入り~1度退団後、草野球→台湾プロを経て当機構[NPB]復帰、から3年目の31才・野中が来番(3登板→翌年1軍定着&初勝利)。'97年には、前年6月故障で被解雇~1年後の当年6月選手復帰した原田政が来番→8月1軍昇格、初安打→'98年初本塁打&初盗塁(計34試合)。また'95年、かつて光山がお立ち台登場時、その試合の先発勝利投手として隣に立ち、「(この年にパリーグ最下位だった)ロッテの打線の方が怖い」と叩いて4連敗するきっかけを作った加藤哲が最終着番号となる「56」へ流れてくる。さらに'00年田中瑞は新人ながら、高卒後に進んだ社会人チームが1年目の開幕前に廃部、から秋、テスト合格しての来番。'01年藤本も新人だが大学1年時故障で中退、から一念発起してのプロ入り。 他に佐藤秀は高卒後草野球~23才でテスト入団、飯田宏は大卒後渡米~26才でテスト入団。また2年目着たが中谷は日本初の独立(四国)リーグ出身→育成選手、を経ての来番。加え「56」OBの、田口が打撃投手を3年務めたのち、井上浩と山田広は1年野球浪人したのち、各々プロ選手復帰。 青木智は海外武者修行~19度目の挑戦にして'03年米国(マイナー)でプロ復帰~'08年日本でプロ(独立・B Cリーグ)&「56」復帰・・・とハングリーマンの嵐。そのスピリットを表舞台で最も発現したのが'99年米マイナー、から大リーグ昇格{※2}して終盤初勝利→'02'03'05年と2桁勝利を挙げ、'07年の1勝目で日米通算50勝に到達した大家[おおか]。'07年2勝目は米通算50勝目で、 つまりは日本での勝利は1つなのだが、その1勝は高卒後早々の'94年4月、わずか3球でマークしたもの。
 '97年には同級生・福留[ふくとめ]が初打席初球本塁打と、苦労人・御子柴&渡辺浩からの各々旗手リフレッシュ気運を焚いたが、大家は当’94と'96年各15登板前後に留まり、福留は翌年'98年ユーティリティー内野の控えとして半~準定着も、その後2年は各10試合前後と定着ならず。
という中で、'98年27才の中堅・後藤利が後半8先発(2完投1完封)で4勝とブレイク予感を萌芽。させたが、翌'99年16年発(2完投1完封)6勝と全開寸前で立ち止まってしまい、'00年8先発1勝→'01'02年登板0とイメージ浸透する前に姿を消した。
 また村田真以降のジャイアンツ“次代正捕手”候補も、「56」杉山が計46 、村田善が計18試合と印象薄、脱番後もともにレギュラー獲れず、で“次代正捕手”番としての説得力が低下。
 そんな状況の中、'01年に半レギ定着の藤本、に'03年控え準定着した中島裕、が脱番後遊撃レギュラーとなり、あとを追って高卒新人の黒瀬~柴田が入番。同じく'02年控え準定着・小池に'03年半定着・下山真が脱番後レギュラー、あとを追った中村公が入番の右強打外野手勢と、出世番地位をめぐって相対し、各々控え半定着の'03'04年瑞季、'02年藤立が後方支援する新構図展開(“右強打”に限れば重複参与になるが中島、に半開花だが田上も浸出加担)。
 そして大外から投手勢が'02'03年山本拓ベリーショート中継ぎ半定着のあと、柳瀬'06年終盤リリーフ台頭~'07年44登板した“原液”を強みに番外マッチレースへ猛追尾~並走までこぎつけた。伴走候補者の戸部、阿部がその軌道に乗れば中継ぎ番として“独奏”の目もある。
【2008年開幕時点】

{※1}強いて、では青木宥、佐々木、秋本、御子柴に現着・戸部が横or下手&安木も変則投法。
{※2}この日本プロ→渡米の道を根付かせた団[ダン]野村(克晃)が「56」OBなのも侮れない事実。
【2008年開幕時点】