2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

55

【2008年開幕時点】

 

 すっかりゴジラ・松井秀喜の背番号として浸透した 「55」。 嶋、 岡田、 神戸[こうべ]、 伊奈には“○○ゴジラ”の異称があり、 佐藤吉も入団時、 愛称“ゴリ”を登録名にと自薦した左の強打者。喜田[きだ]、小斉も含め、ちょうど本家の日本離陸( 佐藤はそのウワサが囁かれていた前段階で、だが)からその存在を埋め合わすように “2世候補”達が続々誕生したあたりに、改めて "「55」=松井” の共同認識の強さが窺い知れる。
 ただ、松井が現れる以前から「55」は強打者が着ける背番号、とのアウトラインはできていた。そのイメージを最初に植え付けたのは、「55」の開示人でもある杉浦清。 旧制中学では甲子園3連覇、大学では4季連続優勝を経験。 戦後の'46年、シーズン途中に32才でプロ入り、すぐに監督 (兼遊撃手兼クリーンアップ)を任された大物。 だが1年目最下位→2位→最下位。その3年目「技術顧問」として入団した天知俊一が、翌'49年監督に就くことになり、監督番 「30」 と交換する形で杉浦が 「55」 に袖を通した。すると'49年23本塁打〜'50年 (三塁に転じて) 26本と強打発動。ただ両年はラビット(=跳ぶ) ボール導入のため全体的に乱れ飛んだ時期 (それまでの年間最多・25本が、 46→51本へ跳躍) だったので、 '51年 (遊撃復帰し) 17本ともども印象度は中の上レベル。 ながら 「31」以降が基本補欠番だった当時に "長打連発する「55」”の異彩度は上の上レベル。 そして (再び三塁転向した) '52年、トップと2本差の25本でタイトル肉薄。が'53年10本〜そのまま選手引退。
 その後は番号柄もあって、'57年八浪[やつなみ]が代打役 (打率.113、打点 2)、 '59年中村が同役微出場。の他控え捕手・山岸が'55年49打席ながら.391 、同・木織も '61年 18打席.375というのが目につくぐらいで、“「55」で放った安打数555”の偶然も打ち立てた杉浦=打像イメージは徐々に希薄化。
 入れ替わるように、西五十六[いそろく]が “五十六”年にプロ初勝利という次なる偶然を立て、狼煙、までいかずも種火を灯すと、'60年、森中が一軍昇格〜30登板(10先発)して5勝5敗。翌年より3年連続2桁勝利、3年連続目の'63年は17勝8敗で最高勝率。 しかし翌'64年~チーム3連続優勝時は2桁勝利に届かず、日本シリーズでも活躍できなかった。また森中と同じ'60年〜中継ぎ役で峰が半定着。 '64年は45登板 (4先発)で5勝を挙げた。翌'65年には羽里が36 登板(5先発)で1勝。 そして'67年、移籍を契機として森中が復活。'63年時を上回る18勝 (14敗)を挙げ、 '63年以来2度目の200イニング超&オールスター出場。 翌年以降は8、 9勝の補完役に回った ('70'71年は計1勝〜移籍脱番の'72年、 再び2桁勝利返り咲き)。 に替わって、 '69'70年と白石連続2桁勝利&200イニング前後、から8、6、8、2勝。'73年には竹村 8勝で一瞬助勢。
 また'63年、(それまでの'49年時杉浦、 石本、 野口ニ、 川崎、 坪内の “首脳陣no.2”から) 杉浦が “監督”として「55」復帰。戦績は2位→最下位で退いたが、 これが打のイメージ導入剤となったか'67年、 投手→野手転向した伊勢が一軍初出場。 3安打.094も、のちに「伊勢大明神」 と奉られるようになる足掛かりを得ると、守備走塁役で唐崎が半定着し、竹内洋は'70年17打席1本塁打のプチ萌芽。 そして打撃コーチ・後藤が'69年、(それまでの天知、 川崎、 本堂の脱番すぐ就任パターンから) 「55」のままで監督に。 戦績は2位となる。が当初より “緩衝材的人事 {※1}” だったため1年で退任。 ただ同年脱番した与那嶺はのち優勝監督になり、翌年抜けた田口はのちフロントトップに着任と、「55」をステップ番とする流れは継続喚起。
 さらに'72年〜主に代打で半定着、 '75年〜準定着、'77年は(それまで計4本→) 一気に6本マークした杉浦亨、 '72'73年と代打微台頭の淡口、ともども脱番後レギュラー〜クリーンアップ打者。逆に過去2年レギュラーを張ったロリッチは54試合7本で途中退団。代打役はその後も'81年〜石嶺、'83年吉村が台頭。 吉村は'84年準レギで13本.342、'85年規定打席到達し16本.328(=打率セ3位) と伸展。そして石嶺ともども脱番後主軸。他陣営の投手が水谷'79'80年中継ぎ奮闘、 高山'85年2先発1勝(=完封)~'88年5先発2勝 (+救援1勝)、紀藤が'87年 18登板4先発で3敗、守備走塁野手は新谷[しんや]が'79年~準定着 ('82年半レギ)、小林浩が'74年半定着、石原~松林が微定着・・・という感じだったため代打起点の強打者像がイメージレースをリードしていく(脱番開眼では投方で竹村、池内、紀藤が主力躍進)。
 そんな中、台湾より王貞治に憧れ単身来日、から6年目の大豊[たいほう]が'89年晴れてプロ契約し、王が'64年に打ち立てたシーズン最多本塁打記録数と同じ「55」を選番。1年目からレギュラー格となり、「一本足打法」を採り入れた'91年以降は(落合博満のあとを打つ)五番に定着~ (落合巨人移籍後の) '94'95年三・四番〜'96'97年六・七番。タイガース移籍の'98年四番〜'99年代打〜'00年五番、で'94'96年と各38本が自己最多。
 続いてこちらも“王の55本”の再来を託されて来番した松井が'94年以降(落合の前を打つ)三番に定着('97年より四番は清原和博)~'00年以降は四番に座り、'96年38本~'99'00年各42本~'02年50本まで数を伸ばした。
 片や、1歩先んじ入番していた右の両雄は、大道が'91年~代打要員定着、大村は'93'95年と半定着後、'96年~一軍定着。 ただ大村は準・半レギ (本塁打は最多で'99年13本)。大道は'96年~準レギとなるも、 身長185cm 体重96kgの巨編をかがめ、極端に短く持ったバットで右方向へ流し打つスタイルで毎年打率3割前後 (本塁打5前後。最多で10本) 、と長距離イメージからモデルチェンジ。 おまけに大村は'00年より出場僅か。 入れ替わって来番の垣内は'99~'01年と準レギ計42 (最多15) 本。多村は半レギで'00年7~'02年5本、から '03年 (260打席で) 18本と急進境・・・も翌年大開眼 (40本)は改番後。 “多村の次”の期待高かった野口祥は'02年初打席本塁打スタートも、'03'04年は守備走塁出場中心で、極端にバットを短く持つ大道スタイルを踏襲(サイズは185cm 72kg) 。と、 半帯同ながらの守備走塁要員・永池、仁平 ('93年) の後釜のような存在になりかけた。が'04年、スタイル返上。 16安打中本塁打4、二塁打、三塁打も各2と長打に目覚める。しかしオフ右肩手術〜3年間一軍出場なし。で、'02年23本塁打の両打・セギノール (1試合両打席本塁打を3度、はシーズン記録)のイメージ折半分が主力となってしまう近況だ。 ダメを押したのが'06'07年とも4本で打率はパ3〜2位の好打者・リック。加えて183cm 89kgながら (大道ほど極端ではないが) バットを短く持つスタイルでもあり、“左=強打者” とのイメージ棲み分けが一層顕著となった。左は両巨頭席巻中にも'99年に根本定着 (半レギ弱で3本)、'04年には嶋がプロ10年目で初定着、と同時に首位打者&32本の猛突風が吹き、セギノールのイメージ折半分も加わり、で左ウチワ。
 さらに右衰勢流れに追い打ちをかけるように期待の大型内野手・萩原が突然 「投手転向」。「55」では'01年顔見せ1登板のみも、 脱番後よりリリーフ定着の池内~紀藤パターンを踏襲した。

 全体での投成績は平成以降、 中継ぎで'91年広瀬、先発で'92年ケアリー~'96年田中由、抑えで'97年ロバートが各々プチ~半定着。 から '01年、近頃不調ながらの実績者・紀藤 (中継ぎ→先発エース)、中込 (先発主力)が中継ぎで半、プチ、定着したあと、吉井 (抑え→先発主力)が松井と入れ替わるように大リーグより帰還〜「55」着。いきなり開幕投手に抜擢され一気に跳梁予感到来となった。・・・が終わってみれば2勝 1S~'04年は1先発に留まり、翌'05年 (先発でプチ開眼2度の半実績者) ユウキ5先発 0勝。でついに '07年 “打色一貫” ナンバー化。
 そして打方には八浪~ 杉浦亨、石嶺、吉村、大道、立花、大村、大豊、根本、垣内の代打イメージ付箋が “こぼれ噺”的に挿し挟まれており、出番少ながら安藤もほぼ代打のみで'94年14打数6安打7打点~'95年13打数3安打6打点 (&'93年には19打席で6四球)、'03年多村も代打時13打数6安打2本塁打。 他に岸川、 四條[よじょう]、安田が当初切り札期待を受け、 逆に脱番後に中村、伊勢、 淡口が切り札

 すっかりゴジラ・松井秀喜の背番号として浸透した 「55」。 嶋、 岡田、 神戸[こうべ]、 伊奈には“○○ゴジラ”の異称があり、 佐藤吉も入団時、 愛称“ゴリ”を登録名にと自薦した左の強打者。喜田[きだ]、小斉も含め、ちょうど本家の日本離陸( 佐藤はそのウワサが囁かれていた前段階で、だが)からその存在を埋め合わすように “2世候補”達が続々誕生したあたりに、改めて "「55」=松井” の共同認識の強さが窺い知れる。
 ただ、松井が現れる以前から「55」は強打者が着ける背番号、とのアウトラインはできていた。そのイメージを最初に植え付けたのは、「55」の開示人でもある杉浦清。 旧制中学では甲子園3連覇、大学では4季連続優勝を経験。 戦後の'46年、シーズン途中に32才でプロ入り、すぐに監督 (兼遊撃手兼クリーンアップ)を任された大物。 だが1年目最下位→2位→最下位。その3年目「技術顧問」として入団した天知俊一が、翌'49年監督に就くことになり、監督番 「30」 と交換する形で杉浦が 「55」 に袖を通した。すると'49年23本塁打〜'50年 (三塁に転じて) 26本と強打発動。ただ両年はラビット(=跳ぶ) ボール導入のため全体的に乱れ飛んだ時期 (それまでの年間最多・25本が、 46→51本へ跳躍) だったので、 '51年 (遊撃復帰し) 17本ともども印象度は中の上レベル。 ながら 「31」以降が基本補欠番だった当時に "長打連発する「55」”の異彩度は上の上レベル。 そして (再び三塁転向した) '52年、トップと2本差の25本でタイトル肉薄。が'53年10本〜そのまま選手引退。
 その後は番号柄もあって、'57年八浪[やつなみ]が代打役 (打率.113、打点 2)、 '59年中村が同役微出場。の他控え捕手・山岸が'55年49打席ながら.391 、同・木織も '61年 18打席.375というのが目につくぐらいで、“「55」で放った安打数555”の偶然も打ち立てた杉浦=打像イメージは徐々に希薄化。
 入れ替わるように、西五十六[いそろく]が “五十六”年にプロ初勝利という次なる偶然を立て、狼煙、までいかずも種火を灯すと、'60年、森中が一軍昇格〜30登板(10先発)して5勝5敗。翌年より3年連続2桁勝利、3年連続目の'63年は17勝8敗で最高勝率。 しかし翌'64年~チーム3連続優勝時は2桁勝利に届かず、日本シリーズでも活躍できなかった。また森中と同じ'60年〜中継ぎ役で峰が半定着。 '64年は45登板 (4先発)で5勝を挙げた。翌'65年には羽里が36 登板(5先発)で1勝。 そして'67年、移籍を契機として森中が復活。'63年時を上回る18勝 (14敗)を挙げ、 '63年以来2度目の200イニング超&オールスター出場。 翌年以降は8、 9勝の補完役に回った ('70'71年は計1勝〜移籍脱番の'72年、 再び2桁勝利返り咲き)。 に替わって、 '69'70年と白石連続2桁勝利&200イニング前後、から8、6、8、2勝。'73年には竹村 8勝で一瞬助勢。
 また'63年、(それまでの'49年時杉浦、 石本、 野口ニ、 川崎、 坪内の “首脳陣no.2”から) 杉浦が “監督”として「55」復帰。戦績は2位→最下位で退いたが、 これが打のイメージ導入剤となったか'67年、 投手→野手転向した伊勢が一軍初出場。 3安打.094も、のちに「伊勢大明神」 と奉られるようになる足掛かりを得ると、守備走塁役で唐崎が半定着し、竹内洋は'70年17打席1本塁打のプチ萌芽。 そして打撃コーチ・後藤が'69年、(それまでの天知、 川崎、 本堂の脱番すぐ就任パターンから) 「55」のままで監督に。 戦績は2位となる。が当初より “緩衝材的人事 {※1}” だったため1年で退任。 ただ同年脱番した与那嶺はのち優勝監督になり、翌年抜けた田口はのちフロントトップに着任と、「55」をステップ番とする流れは継続喚起。
 さらに'72年〜主に代打で半定着、 '75年〜準定着、'77年は(それまで計4本→) 一気に6本マークした杉浦亨、 '72'73年と代打微台頭の淡口、ともども脱番後レギュラー〜クリーンアップ打者。逆に過去2年レギュラーを張ったロリッチは54試合7本で途中退団。代打役はその後も'81年〜石嶺、'83年吉村が台頭。 吉村は'84年準レギで13本.342、'85年規定打席到達し16本.328(=打率セ3位) と伸展。そして石嶺ともども脱番後主軸。他陣営の投手が水谷'79'80年中継ぎ奮闘、 高山'85年2先発1勝(=完封)~'88年5先発2勝 (+救援1勝)、紀藤が'87年 18登板4先発で3敗、守備走塁野手は新谷[しんや]が'79年~準定着 ('82年半レギ)、小林浩が'74年半定着、石原~松林が微定着・・・という感じだったため代打起点の強打者像がイメージレースをリードしていく(脱番開眼では投方で竹村、池内、紀藤が主力躍進)。
 そんな中、台湾より王貞治に憧れ単身来日、から6年目の大豊[たいほう]が'89年晴れてプロ契約し、王が'64年に打ち立てたシーズン最多本塁打記録数と同じ「55」を選番。1年目からレギュラー格となり、「一本足打法」を採り入れた'91年以降は(落合博満のあとを打つ)五番に定着~ (落合巨人移籍後の) '94'95年三・四番〜'96'97年六・七番。タイガース移籍の'98年四番〜'99年代打〜'00年五番、で'94'96年と各38本が自己最多。
 続いてこちらも“王の55本”の再来を託されて来番した松井が'94年以降(落合の前を打つ)三番に定着('97年より四番は清原和博)~'00年以降は四番に座り、'96年38本~'99'00年各42本~'02年50本まで数を伸ばした。
 片や、1歩先んじ入番していた右の両雄は、大道が'91年~代打要員定着、大村は'93'95年と半定着後、'96年~一軍定着。 ただ大村は準・半レギ (本塁打は最多で'99年13本)。大道は'96年~準レギとなるも、 身長185cm 体重96kgの巨編をかがめ、極端に短く持ったバットで右方向へ流し打つスタイルで毎年打率3割前後 (本塁打5前後。最多で10本) 、と長距離イメージからモデルチェンジ。 おまけに大村は'00年より出場僅か。 入れ替わって来番の垣内は'99~'01年と準レギ計42 (最多15) 本。多村は半レギで'00年7~'02年5本、から '03年 (260打席で) 18本と急進境・・・も翌年大開眼 (40本)は改番後。 “多村の次”の期待高かった野口祥は'02年初打席本塁打スタートも、'03'04年は守備走塁出場中心で、極端にバットを短く持つ大道スタイルを踏襲(サイズは185cm 72kg) 。と、 半帯同ながらの守備走塁要員・永池、仁平 ('93年) の後釜のような存在になりかけた。が'04年、スタイル返上。 16安打中本塁打4、二塁打、三塁打も各2と長打に目覚める。しかしオフ右肩手術〜3年間一軍出場なし。で、'02年23本塁打の両打・セギノール (1試合両打席本塁打を3度、はシーズン記録)のイメージ折半分が主力となってしまう近況だ。 ダメを押したのが'06'07年とも4本で打率はパ3〜2位の好打者・リック。加えて183cm 89kgながら (大道ほど極端ではないが) バットを短く持つスタイルでもあり、“左=強打者” とのイメージ棲み分けが一層顕著となった。左は両巨頭席巻中にも'99年に根本定着 (半レギ弱で3本)、'04年には嶋がプロ10年目で初定着、と同時に首位打者&32本の猛突風が吹き、セギノールのイメージ折半分も加わり、で左ウチワ。
 さらに右衰勢流れに追い打ちをかけるように期待の大型内野手・萩原が突然 「投手転向」。「55」では'01年顔見せ1登板のみも、 脱番後よりリリーフ定着の池内~紀藤パターンを踏襲した。

 全体での投成績は平成以降、 中継ぎで'91年広瀬、先発で'92年ケアリー~'96年田中由、抑えで'97年ロバートが各々プチ~半定着。 から '01年、近頃不調ながらの実績者・紀藤 (中継ぎ→先発エース)、中込 (先発主力)が中継ぎで半、プチ、定着したあと、吉井 (抑え→先発主力)が松井と入れ替わるように大リーグより帰還〜「55」着。いきなり開幕投手に抜擢され一気に跳梁予感到来となった。・・・が終わってみれば2勝 1S~'04年は1先発に留まり、 翌'05年 (先発でプチ開眼2度の半実績者) ユウキ5先発 0勝。 でついに '07年 “打色一貫” ナンバー化。
 そして打方には八浪~ 杉浦亨、 石嶺、吉村、大道、 立花、大村、 大豊、 根本、 垣内の代打イメージ付箋が “こぼれ噺”的に挿し挟まれており、出番少ながら安藤もほぼ代打のみで'94年14打数6安打7打点~'95年13打数3安打6打点 (&'93年には19打席で6四球)、'03年多村も代打時13打数6安打2本塁打。 他に岸川、 四條[よじょう]、 安田が当初切り札期待を受け、 逆に脱番後に中村、伊勢、淡口が切り札着座とエピソード満載。 代打役者以外も'76年佐藤昭10打数2本塁打、'81年清家11 打数6安打、'89年松林は10打数2安打もそれが本塁打&三塁打、'06年喜田は5打数3安打2二塁打と限られたチャンスで結果を残す能力も折り紙付き。また山岸、木織~石嶺の他、出番少ながらの竹内洋、清水、高嶋、吉本 (に極僅かだが古谷[ふるたに]、近澤も) が "強打捕手” キャラ発現。でさらに厚層な打特長像形成。
 ただ中枢を形作っている嶋が、ブレイク以後年々(打率を5分〜さらに2分 、4分と落とし、本塁打も27→24→14本と) 成績下降し、松井も米国にて中距離打者の趣にスケール減。また大豊〜松井が顕示した“決まって2冠” 伝統を'05'06年と二軍にて継いでいた次代旗頭候補の喜田が移籍転番。'08年着・フォード、ボカチカは中距離評定。
 ここは冒頭の"ゴジラの卵" に右の福田、野口祥、呉本も加えた未開眼強打者達の突き上げ台頭が待たれる。
【2008年開幕時点】

{※1}のち'78年に2度目監督就任を果たすが、またしても前後を大物に挟まれた1年内閣。“みんな仲良くボチボチと”なる珍スローガンを謳った結果は、球団初の最下位転落という塩っ辛いものだった。
【2008年開幕時点】