2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

54

【2008年開幕時点】

 

 何といってもエポックは「54」初のドラフト1位新人着・槙原のデビュー時。
 過去'56年に後藤が、5年目で所属4球団目(2度は解雇→テスト入団、残り1度は球団合併、での移籍)にして初戦力参画となる33登板6勝12敗(~もオフ、再び自由の身に)。

 '68年、そのギクシャクとしたロボット的ピッチングフォームから「鉄人54号」(あるいは「ロボタン」)と異名の付いた倉田が21登板6勝5敗。

 他に'60年中村常7登板1勝、'68'69年福浦計24登板、'74年小川22登板の投手陣。'55年~1軍定着、'56'57年とレギュラー格で2年間計10三塁打&30盗塁、'57年にはサヨナラランニングホームランを記録した玉造、'58年控え半定着の伊藤、に'55年捕手半レギュラー格・西倉、同控えの'59年水野に'65と'68年山田忠、同準レギの'67年木村(~'68年は控え)、代打役で'62年~中島に出番少も'61年財津と'63年小松、'75年スタメンプチ定着の島本、そして'64年一枝、'77年三好、'78年~中尾、'83年佐藤健、出番少も'78年山本隆の控え内野手、に外野手も出番少だが'80年上野、'83年嶋田が控え・・・の野手陣。
 と、俊足バイプレーヤー野手中心だったのが、'82年、高木が10年目でプロ初勝利。の良報に続いて'83年4月、槙原が初登板(延長10回)完封~最終的に12勝(9敗1S。3完封)を挙げ新人王。日本シリーズでも2先発して、以後ローテーション投手に定着。そして同年同じく1軍台頭した僚友の駒田徳広(背番号「50」)、吉村禎章(背番号「55」)とで「50番台トリオ」として名が売れたため、各々しばらく当番号へ滞留。これが“「54」イメージの深長”にも作用し、槙原以降は大門、池上、黒木知、に半開花組の苫米地[とまべち]、宮本、あるいは大リーグ実績者のゴセージを含め、右の本格派投手のイメージフォローが相次ぐことになる。
 さてしかし、せっかく「54」 滞留した槙原が'84年8勝9敗、'85年4勝7敗・・・と徐々に成績下降。特に'85年はいきなり最初の登板で、結果的に当年優勝するタイガースの猛打線に火を付けることになった、“三、四、五番による甲子園バックスクリーン3連発”の被弾~7月には守備の際に股関節骨折(しかもこのあと雨でコールドノーゲームとなり言葉通り“骨折り損”にされる不運)。再起を期した'86年は9勝6敗、後半に限れば7勝2敗(3完封)と持ち直した・・・が、優勝争いさなかでのラスト2試合目に先発時、自軍の四番の逆転2ラン、直後(6回裏)に再逆転2ランを浴び2-3で敗北、最終的に勝率.003差で優勝を逃したことで“敗因”として大きく取り上げられ、ここ一番で弱い“ノミの心臓の持ち主”評が広域浸透。加えて改番した'87年に初2桁勝利&日本シリーズで完封勝利(~翌年オールスター初出場)と一流化けしたため、「54」に“モラトリアムナンバー”イメージが植え込まれた。
 また'86年~~大門が先発一定定着 ('89と91年は規定投球回到達)するも、最多で'89'90年の各8勝(うち救援各2勝)と補完役を抜けられず。池上[いけうえ]も'89'90年主に救援で準帯同(先発は計9で4勝~一旦衰勢したのち、'94'95年“右の中継ぎの2番手”という救援補完役で再帯同。
 その傍ら、2人目のドラフト1位~直入番者の石田は通第2登板で引退。も、「54」リレー時“お前のために温めておいた”と添えて贈ったことが次走者・黒木を感激させ、1年目から先発入り、2年目に規定到達、翌'97年~5年連続2桁勝利、'97年完投王、'98年最多勝&最高勝率(ただし13勝9敗の.591) 、'98'99年各防御率2位&オールスター出場、そして'99年~3年連続開幕投手、のエースとなっても着用し続け“「54」=モラトリアム”から脱却。
 そして野手も、高校時('79年)に春の甲子園史上初の大会3本塁打を記録した阿部慶が、'84年“槙原から"プロ初打席本塁打の狼煙を上げ(るも、結局通算2安打)、'87年~小松崎、'90年~松井、'94年岸川の“一発屋”達が代打要員定着。そして同系パワーヒッターの平塚が'96年、前年まで6年間計106試合53安打7本~移籍着、30才にしてレギュラーをつかみ、中軸に座って11本。翌'97年は17本、打率.293でオールスターにも出場(~'98年半レギ4本~'99年0本で途中移籍)。またそれまで2軍or ブルペンが指定席だった捕手群からも、野口が'98年、前年まで8年間計109試合47安打1本~移籍着、で27才にしてレギュラー台頭。(下位打順で)10本を放ち、'99'00年も各10本弱&'00年捕手50年ぶり(パ初)の三塁打王(=11)、打率.298。オールスターへは'98と'00年の2度出場(~'01'02年準レギ、で本塁打5前後)。と、揃って1軍半クラスから“モラトリアム脱却{※1}”。ただ両者規定到達は2度、と各々イメージ完全浸透しきれずで去り、“強打”、“捕手”の体現者がこの両者で打ち止めともなる。
 そして生き残ったのは、'97年馬場、'98年~神野、'99'00年斉藤秀、'06'07年稲田、に出番少だが'97'99'00年佐々木明(に'96年斉藤)の内野陣、プラス外野で'05年定着・井出、の控えバイプレーヤー。だが、平塚進境の'97年、守備職人・馬場が1試合3本をマークし、同じ好守好打系の神野が'02年代打出場チームNO.1。 出番少だか'05年井出も代打12打数5安打で1本、4打点。'97年馬場、'07稲田は半レギ弱で.270台、と“打の進境”も追録された伝承となる。
 とはいえ「54」の本伝となるのはエース・黒木の熱投・・・なのだが、それが最も強インパクトを放ったのが'98年、日本ワーストとなるチーム18連敗(=引分1を挟む)記録中時。約3週間に渡って負け続けた期間途中、黒木は急遽抑えに回って阻上を図るも3連続失敗。から先発に戻った 7月7日は9回2死までリードを保ち、2ストライク(1ボール)まで持っていきながら同点本塁打被弾(~延長12回に別投手がサヨナラ弾を浴び新記録の17連敗目)と、またしても“ここ1番”で弱い「54」、のイメージが広域流布されてしまう。そして'01年、開幕9連勝~のあと2勝4敗、の4敗目を喫した7月27日を最後に肩痛離脱。すると、'02年登板なし。'03年2軍で665日ぶり実戦復帰。 '04年995日ぶり1軍登板、1061日ぶり勝利(
6月2日)、含め7登板オール先発1勝3敗。'05年 1545日ぶり本拠地・千葉マリンでの勝利(8月28日)、含め3登板オール先発2勝1敗。と一進一退、から'06年5登板オール救援でプロ初セーブ、と針路変更~も'07年1登板、でついに再席巻は叶わぬままで選手引退。この間、'00年高卒1年目・苫米地[とまべち]が4月初勝利~23登板で(救援)2勝、'02年後半に再頭角を現し5勝(うち救援3勝)、10月には初完投勝利もマーク。同期入番で同学年、「54」3人目のドラフト1位入番者(苫米地は6位)、にして黒木の高校後輩でもある宮本も'02年(35登板)5先発2+1S。と次代旗頭候補が胎動したが、ともに'03年手術~以降出番激減。
 とってかわって台頭したのが、'01'02年竹下(中継ぎ)~ウィリアムス('03年抑え、'05年以降中継ぎ、'04年は半々)~'07年中盤以降グラマン(抑え)の左リリーフ流れ。中でもウィリアムスは年平均57登板('05年75は外国人最多)で防御率1点台('07年は0点台)、'03年は抑え25S~'05年は中継ぎ37Hと2ポジションで優勝寄与し、「54」新旗頭の座に就いた。
 すっかり勢い減の先発陣は'05年、元最多勝投手のホッジスを得・・・るが、2勝12敗でさらに後退。グラマンも'06'07年先発で計6勝12敗~抑え漂着後に持ち味発揮と、そのまま「54」の趨勢を顕すかのような遍歴をたどった。
 さらに右も、(池上実績を土台に、'94年小倉、'98)'03'04年芝﨑、'00年山岡、'02年酒井、'03年武田が救援10登板強(&先記・苫米地、宮本が半~準定着)で顔を出し、水面下で'99'00年芝﨑、'06年酒井が2軍最優秀救援と、色めく前段階とはいえ気運萌芽途上。ながら有力発現候補の1人、酒井が1軍で(先発時含め)計49回[イニング]11被本塁打、'05年に至っては13回で6本の大乱調・・・。に象徴されるように、近年日本人投手(左右問わず)は2軍で'04年宮本&田中総~'05年宇野~'06年苫米地&酒井~'07年黒木&橋本が30前後、'06年宇野が40超の登板をこなしながら(=2軍の試合数は100弱)それを1軍でのパフォーマンス向上につなげられず。
 と、相変わらず“正太郎コンプレックス{※2}”から抜け出せない「54」だが、'07年オフ、かつてホークスでもプレー('90年6月入団~28登板 2勝3敗8S 4.40) したゴセージが、有資格者となって9年目、前年は21票足りず不選出、という“気揉み期間”を経て米国野球殿堂入り{※3}。現在、ホークスで「54」を着ける川頭[かわず]、に橋本、赤坂の投手+吉田圭、大平、藤村の
野手とも25才以下の入番者が急増中で、この快挙をニューエポック誕生への契機としたい。
【2008年開幕時点】

{※1}反面、'94年吉田修が1回10失点~'95年白鳥先発1/3回KOで2軍沈下、斉藤肇2軍計209登板で1軍0、と埋没例も潜伏&吉田、小倉、城石、河野[かわの](~武田)が脱番後1軍飛躍。
{※2}漫画『鉄人28号』中の金田正太郎のような少年にしか恋心を抱けない女性の症候名。余談だが'05~'07年に在番した鎌田は平成以降最ミニルックの身長162cm 体重62kg。
{※3}米国野球記者協会10年以上の在籍記者から75%以上の得票があればメンバー入り。ゴセージは前年545人から388票(71.2%)~今年は543人から466票(85.8%)を得て、救援投手5人目の入選。 大リーグ通算310S(来日時307=2位~現17位)+救援115勝。
【2008年開幕時点】