2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

53

【2008年開幕時点】

 

 速球王・五十嵐~盗塁王・赤星の活躍ですっかり根付いたスピードナンバー。
 この番号、全くクセがなく、どんなタイプにもよくハマる。 “5”と“3”の並びがもたらす絶妙のバランス感には独特の個性があり、上品かつ神秘的な趣もある。単純にカッコイイし、何より着けた選手に華が生まれる(ように見せてしまう)。小柄な選手を大きく映やす作用もあり、ナゼ最近まで「ゴミ番」という浅い解釈がなされていたのか理解に苦しむところである。それに、“軽番号ステイタス”になびかなかった「51」のイチロー、「55」の松井秀喜の米球界転出後、旗頭に日本人一流選手を持つ代表的重番号として「53」が(日本球界では「47」に次いで)イメージ定着しているのも、この魅力を汲みとれば当然、という気になってくる。加えてイチロー、松井の登場前、「27」→「44」→「60」→「78」と“背番号コンパクト化称賛”風潮に異を唱え続けた門田博光が、選手時の最終着番号に「53」を選んでいるのも何だか示唆的だ。
 さて看板選手を2人得た「53」だが、そのフロントページ争いは、五十嵐がここ数年精彩を欠いていることで現況赤星がイメージリードオフ。フォロワーも五十嵐方の剛速球投手がミラー、牧野、なのに対し赤星方の韋駄天野手は福地(和広と寿樹は同一選手だが“追随”の点&和広時「53」では1軍出場0なのでここでは寿樹のみ俎上に載せる{※1})、工藤、野中とスペシャリスト揃い、原井、出場僅かながら仲澤、金子、柳田も俊足、で圧倒的優勢。投方は別口派生のサイド中継ぎ、青木~林昌の牽制も入れるが行き足を止めるまで至らず。そして、遡ること約50年前、「53」に初トピックをもたらしたのも、韋駄天野手の(元“タイガースのトップバッター”でもある)呉昌征。
 それまで、平野、島田光が主に二塁で控え、佐藤重が一塁控え、岩崎が捕手控え、長尾が'56年4登板(9イニング)で2勝。ときて'57年呉が来番。すでに380盗塁、前年まで助監督兼任の41才、と全盛は過ぎ去っていたが、43試合(51打席。打率.297、1盗塁)に出場して日本プロ野球界初の「実働20年」到達 。これを花道に当年限りで選手引退した。逆に同'57年、脱番後に四番、'60本塁打王&打点王となる藤本勝が61試合(147打席)で8本塁打、ブレイクへの足掛かりとする。プラス同年長尾12登板1勝。そして翌'58年、西田が48登板288 2/3イニングを投げ16勝19敗、16完投5完封で「53」初のレギュラー戦力定着。戦 負け教以外は全てチーム2位で、無四球完投勝利5はチームトップ、のみならずリーグトップ。さらに当年祓川[はらいかわ]&島田源が各2勝(ちなみにここまで西田以外の投手は負け数0)。から唯一「53」にとどまった祓川が'59年50登板220・2/3回18勝7敗 6完投3完封。これまた西田同様チーム2番手役、ながら1番手の杉浦忠が38勝4敗と突出しすぎていたため、2番手というより“補完役の1番手”。日本シリーズも杉浦が4連投4連勝と大車輪の活躍で、祓川は1登板したのみ。それも打者3人に対し被安打2、与四球1で投球回0/3、自責点は3、で防御率♾️(無限)。ショックが尾を曳いたように'60年8勝~'61年2勝と衰勢{※2}。
 また野手方では'57年藤本が焚いた強打像を、'59'60年と加奥が代打役で計169打席8本で継ぎ、'62年以降は安井{※3}が守備走塁(主に走塁)要員でベンチ定着してスピード像も本格始動。'65'66年と須崎も安井と同役割で帯同、'66~'68年は古田も半帯同、'67~'69年荒川は微帯同。'70年代に入ると井手(=は主に守備)、吉田(以降は比重半々)が出てきて、'80年代は藤本昌('81年のみ。また29打席だが2本、.333)、吉竹('81年以降。'83年は半レギで.330 5本)と徐々にではあるが着実に根付かせていく。
 一方投手は'63年復帰着・西田が1勝6敗 (30登板76 2/3回)と不振。'69年久々に一定定着した泉も3勝(1敗。28登板78 1/3回) 止まり。翌'70年、高卒1年目で2登板した岡持[おかじ]は野手転向、'73年~代打で頭角を現し、'74'75年は半レギ('75年は.272 7本)と打方へ傾倒。同じくプロ
で野手始動の柏原も'73年二塁&遊撃手{※4}として25試合~'74年三塁で半レギ(.239 6本 7盗)。既述の藤本昌、吉竹もスピード野手で芽を出し、と投手像はますます希薄化。そこで'80年、19年目の大石弥(15登板24回)~'81年、20年目の佐々木宏 (13登板 33 1/3回、1勝)を各々選手最
終年に迎え、イメージを再生させると、同時に若手の谷を売り込む(2年で計25登板 81 1/3回、3勝)。これが実を結んで'82年谷は25先発10勝(+救援1勝)&200回超と1人立ちして“投手像”再屹立。 あとを託された川村一は'84'85年計25登板で4勝(全て救援)するにとどまるも、マーク薄だった星野が'85年17登板2勝~'86年20 先発7勝(+救援1勝)で波を継ぎ、'87年6月には川畑泰が初先発完投~以降準先発定着して5勝~'88年3勝(+救援1勝)~'89年は先発機会減も救援と併せ7勝。'88年は内藤も22登板2勝をマーク、と星野以降高卒2年目での台頭続き(番外ながら'86年斉藤直も2軍戦8勝1敗で最高勝率)でイメージは大幅に若返った。
 すると打方も'88年中嶋が控えで74試合に捕手出場、'89年昇格・安田秀は6打席ながら4安打3二塁打~'90年25打席5安打 2二塁打、'90年林康は初打席本塁打と高卒若手ラッシュ。が91年、今度は22年目・43才の大ベテランスラッガー、門田がDH定着して18本~'92年半レギ弱兼代打で7本~選手引退。また'92年は間を取っての28才・大田も控え半定着。から'94年コトーが“助っ人”には今1つも五番・中堅で18本&日本シリーズ2本。に28才・大塚が代打4打席ながら2本、5打点~'95年39打席2本。'95年再昇格・林は半レギ弱で4本。他に内野守備要員で'93年藤岡(27才)~'94年幸田(24才)と微定着、そして地下台頭だが福地が高卒2年目の'95年~脱番後の'98年まで連続2軍盗塁王と“スピード”マグマを溜めていく。
 投手は'90と'92年秋村、'93年内山、'97'98年佐藤康の中堅若手が中継ぎ準定着して、'97年高卒3年目・横山~'99年(後半)同2年目・五十嵐が切り札中継ぎ(セットアップ)台頭&150km/h超球で野手に先駆け“スピード”現出。さらにミラーも'99年先発2勝~'00年抑え6セーブでともに定着ならずも“スピード”共演。そして継続「53」着の五十嵐が、抑えに回った'04年、158km/hの当時日本球界スピードガン最速(タイ) マーク&37セーブで救援タイトル獲得と一応の“結実”へ到達。
 その途上、'01年に赤星が社会人~25才入番すると、当年より5年連続盗塁王。 五十嵐が'02年~3年連続60登板クリアすれば、'03年~赤星3年連続60盗塁以上と強力イメージライバルとして“スピード”競演。 赤星協賛者として'06年~福地がかつて積み立てた予感を噴出するように準レギ躍動、'07年中盤~工藤(=ちなみに赤星の出身社会人チームの後輩)もスタメン定着し、野中は ('04と'06年2軍盗塁王~)'07年控え帯同。他に内野万能控えの'01'02年野々垣、'01年福井、'03年原井もフットワーク助勢。
 対して五十嵐は'05年以降調子下り坂となり(スピードガン記録もクルーンに161と塗りかえられ)、'06年オフ手術~'07年リハビリ、でイメージに穴を空けてしまう。'06年~速球協賛者としてベテラン・牧野が先発兼中継ぎにトータル半定着で踏みとどまってはいるが、‘01'02年青木~'04'06'07年林昌と奮闘のサイド中継ぎ&まだ潜行中だがサブマリン・相原{※5}も採り入れた変則投法群の急浸透ぶりにも遅れを取っている状態。
 さて、赤星は“打”でも'03年〜5年間で3割4度を記録し、'00年~代打で高成功率を残した石井、に先記の野々垣が蒔いた巧打像の本格開花へ、福地、工藤(両者.280前後)とともに寄与。また、度々健在なりをアピール~長期潜伏、をくり返す強打像は、'01年福井が控えで4本とプチ台頭~退番、'06年相川が半レギ進境11本〜哀勢の相変わらず“ふうてん”気質。
 で、現況“俊足+巧打”が一番収まりのいい「53」雛形となっているが、'06'07年、牧野が球速をやや落とし、かつて在番したMAX130km/h台投手・星野に突発師事したかのように緩急駆使スタイルへマイナーチェンジ。 結局発動半ばで退番したが、離脱明けの五十嵐が“速球+緩急を引き継ぐ可能性はあり、複合雛形で野手方との新競演なるか、注目される。
【2008年開幕時点】

{※1}また和広時は右打→寿樹改名の'00年より両打に。「53」では'04年に上村、'05'06年と野中、'07年~金子(=実質始動は'05年)が特長をより生かすべく両打へ登録変更。
{※2}'61年シリーズでは2登板。も先発、救援各1で計2イニングと不本意返上ならず。
{※3}高校まで一塁手、からプロで二塁手転向と往年の本堂保次パターン~脱着後、遊撃手でレギュラー獲得の白石勝巳パターン踏襲。
{※4}結局失策多く、脱番後は一塁手でレギュラーも、近年(基本2軍流通ながら) 大型パワフルニ塁or遊撃手が、渕脇、福井、森本、大須賀、小谷野と増進傾向。
{※5}入団時はオーバースロー兼務の上&下2刀流・・・'91年在番・近田も左&右2刀流を掲げつつ実情は“左1本”の、実戦突入から“下1本”に絞った相原の先駆け的異能者。
【2008年開幕時点】