2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

99

【2008年開幕時点】

 

 平成に入ってから“選手番のトリ”として急速に流通した「99」。
 初期の鳥坂、に'79年渡部は選手登録ながら実体はほぼ打撃投手要員。この重苦しい番号を「インパクトが強く、覚え(られ)やすい」という一点でもって選手番に生かしたのは稲垣からになる。出自を見ると高校受験に失敗後、田中土質基礎研究所を経てドラフト外入団、とある。「99」の持つ秘密兵器的、の中でもトリに位置する“最終兵器的”な雰囲気にピッタリの選手である。だが結局1軍出場は叶わず、その志は中込が引き継ぐことになる。
 中込は本来最終兵器ではなく、甲子園出場歴もあるドラフト1位投手という正統有力株。だがプロ入り前の'88年、定時制高校へ通いながらタイガースの練習生生活を送ったことで“得体の知れない感”をつむぎ出すことに成功。その時着けていた「99」を、初心を持ち続ける意味を込めプロ入り後も継続着用。 稲垣の後進となった。
 そして中込が晴れて選手となった'89年は、中込含め一挙4選手が登録加入。この中で唯一の実績者・若菜が'91年まで3年間控え捕手を務め、選手番「99」の初陣となる。レギュラー級では'91年タネルが初。7月来日という“リミットギリギリ”での入団から先発で6勝を挙げた。だが翌年「22」へ。 若菜の選手引退も重なり、晴れ舞台は一時お預けかに思われた。
 しかし翌'92年、期待の中込がついに開花。勝ち星は9を数え、防御率はリーグ2位。'93年も8勝を挙げ、いよいよ本領発揮で次は2桁勝利といきたかったが、古傷の肘痛再発で長期離脱。それを乗り越え1軍復帰を果たした時には、背番号も「1」に変わっていた{※1}。そして中込が去った'95年、「99」番選手は姿を消して、そのままお蔵入りする雰囲気も漂った。が、何とか翌年井上{※2}で再始動。“イメージの質流れ”を回避すると、安達~ニールも共闘宣言。本格的に根付き出したのはこの頃からだ。以来、常に3球団以上で採用されている。
 '98~'02年には最初の隆盛期が訪れる。この間、ニールが主軸に座り、井上もレギュラーを張り、高橋智が'00年13本塁打を放ち、張[チャン]は'02年10勝を挙げた。'99年井上の開幕21試合連続安打、'02年張の28イニング連続奪三振(=日本記録)はともにチームの優勝に大きく作用し、「99」はラッキーナンバーの風情もたたえた。が、'04年井上退番~'05年張肩痛離脱。かわって吉川が'04'05年と中継ぎで頭角を現したが、先細った感は否めない。
 ところで「99」には思わず手に汗握ってしまう切迫感がある。数少ないメンバー中、タネル、ニール、フランクリン、張、ドミンゴとシーズン途中入団者が5名。張以外は泥縄補強ながら「99」を着せると“失敗は許されない”空気が醸され、フランクリンとドミンゴ以外が及第点の成績を残したことで、結果的に「99」イメージに幅が出た。
 またこの“緊張を強いる番号”は常時出場より、ここというところで切り札として出ていく方が場面に映える側面がある。その意味で、スタメンでない時の高橋智は「99」 最良の千両役者だった。ただ切り札というのは、とっておきの場面でないと切られない。有事に備えて出し惜しみ、が続くと結果、余剰戦力というケースも考えられる。となればここは、出し惜しみされない最後の切り札「リリーフエース」の登場を待ちたいところだ。その流れは、中継ぎで吉川、'07年にも横山、山口鉄と振興して徐々にではあるができつつある。
 「99」は否応なく注目を集めてしまう。それはあと一押しで「00」に返ってしまう危うさ、を見るからだろう。「99」番選手を振り返ると、中込、安達、的場、田中がドラフト1位入団。井上(に渡部)が2位。プロ入り前から着けた中込は別として、なかなか芽の出ない大器の心機一転着用が続いている。なるほど“もうあとがない”状況をこれほど的確に表現した背番号も他にないだろう。それに視線を釘づけにして逃げ場をなくろう、とはいかにもエリートらしい発想だ。
 また、見るだに重量感のある背番号なので、ある程度ガタイがないと“番号負け”してしまう。小兵、細身、俊敏、元気者にはいかにも不釣り合い・・・、なはずだが、近年その向かないタイプ{※3}の占拠率が急騰している。井上退番〜'06年の3年間、巨漢選手{※4}の名は消えた。
 加えて大リーガー・田口壮の“イメージ逆輸入”。米球界に渡った'02年より着用し、全くの持ち場なしスタートから代打、代走、守備固め、有事の際には先発出場、とあらゆる状況で切ることができる“ジョーカー”役としての位置を獲得。持ち味発揮は'04年からだが、米国での田口の実力認知の浸透具合と、足なみを揃えるように、始めは重そうだった{※5}「99」への違和感も徐々に解消。“切り札[ジョーカー]”としての使い出を得るためにあえて見た目を無視、ガタイではなく“持ち場の多さ”で存在感を勝ち取る新解釈で、軽快な「99」番像を確立した。渡米1年目33才時の出場19試合 15打数6安打、から徐々に出番を増やしての、まさに選手生活“終盤”で見せた進境。'06年にはリーグ優勝決定戦(第2戦)の9回という試合、のみならずシーズンの“最終局面”で勝ち越し本塁打を放ち、 “ニュータイプ「99」”の完全成熟を印象付けた。そういえばこの選手も、元をたどればドラフト1位入団。大器晩成を夢見る背水ナンバーが、その思いを顕した“軽快なジョーカー”の背で久々に日[ひ]の下[もと]へとさらされた。
 触発されたように'07年、日本でも田口同様実績者、の実績が「00」に返る“崖っぷち”にまで追い込まれた元セーブ王の横山、に元本塁打&打点王の中村が来着。横山は中継ぎ定着、そして中村は準中軸(五、六番〜終盤三番)着座〜日本シリーズ(では五番で)MVP。シーズン途中には元2桁勝利投手・ドミンゴが来日〜後半10先発(2勝)。3者ともここ数年姿を消していたガタイ系でもあり、各々の躍動ぶりに併せて懐古像も復刻。
 対照的に4月20日、ほぼ無実績者かつ細身俊敏タイプの狩野が'07年初打席でプロ初安打、を延長戦に代打サヨナラという形で放ち、翌日プロ初スタメンで3安打&初本塁打、翌々日途中出場で第2号と猛跳躍〜以降1軍定着。4月23日、同じく細身の山口鉄が育成枠選手から晴れて1軍出場可能選手となり 「99」着〜5月9日、育成枠出身選手初の勝利を挙げた(=制度導入は'06年)。直後2軍降格も再昇格の7月上旬以降中継ぎ定着。そして、既成戦力ながら中村も前所属のバファローズを大モメ退団〜「99」着、までを育成枠選手で過ごしたため同出身者の安打、本塁打、打点を各々初記録したことになり、エリートとは逆解
釈{※6}の「育成枠」から這い上がったシンデレラナンバーとして「99」は球史に刻まれた{※7}。くしくも両者は米球界でのプレー経験を持つ“逆輸入”選手。加えて中村含む実績者3名は各々日本で(横山はのべ)3球団目と“よく動く”ためガタイ系=鎮座、にフットワークも像添付{※8}。
 '08年、それは首脳陣にも作用。実は日本でも軽快フットワークの「99」は山下、松本、上野、内藤、山口光、山﨑(='05年のみ)、山部(='07年のみ)、坂元が、裏方の“ジョーカー”ともいうべき「トレーニングコーチ」としてすでに暗躍済み(山﨑はブルペン、山部は2軍投手コーチも兼任)。が、裏舞台の住人であるため認知度は希薄。'00年山下&内藤、'07年にも内藤が“選手番イメージ”に領域を侵された。そんな中、'04年松原がヘッドコーチ(監督に次ぐ首脳陣NO.2)で「99」着。184cm 87kgの体躯に重責感も併せ見事にマッチした。が、1年で退番~'08年、渡辺“監督”来着{※9}。これまた185cm 95kgの堂々体躯ながら、自ら打撃投手を務める軽快さ。台湾{※10}で選手兼任[プレーイング]コーチを経験した“逆輸入”指導者でもある。その視野の広さで前年26年ぶりにBクラス(4位以下)転落のライオンズ再建“切り札”となれるか。
【2008年開幕時点】

{※1}この“99倍変動”はもちろん史上最大・・・のちの“55倍降格”も選手番ではそれに次ぐ変動率。
{※2}現在(=2008年時点)の井上を知っていれば“安泰”に映るだろうが、来番当時はプロ7年目にして通算17安打の選手だった。着用後もトントン拍子といかず、 1軍定着は'98年から。
{※3}張、筒井は身長180cm未満で、的場、田中、狩野、山口鉄は体重80kg未満。
{※4}ただし、コーチ・松原、山﨑、にブルペン捕手・大塚はガタイ良。
{※5}ちなみに田口のサイズは178cm 75kg。
{※6}吉川も'99年度ドラフト全体の“大トリ”9位被指名入団の出自を生かした同解釈着用。
{※7}そして'08年開幕直前、育成枠2年目の隠善[いんぜん]が1軍出場権獲得~「99」着と追随例出芽。
{※8}実はこれは初陣・若菜の履歴踏襲・・・「99」着は日本4球団目で、以前、米球界でのプレーも経験、しかも「コーチ兼任」での海外球団所属は後述する渡辺の先駆も兼ねる。さらには、熊澤、米倉、野村、森、草場、大塚、高橋信、山崎のブルペンコーチまたはブルペン捕手、から'07年狩野で表舞台にも芽を出した“捕手像”の植樹も担った。
{※9}ただ坂元「92」変更&山部も2軍投手コーチ専任でトレーニングコーチは姿を消した。
{※10}他にも台湾には着前、着後を問わず中込、小早川、立石、高橋智、張、有働が在籍。
【2008年開幕時点】