2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

66

【2008年開幕時点】

 

 隠れた出世番号。石井琢朗、中村紀洋、「66」通しで斉藤和巳、にプレー期間ゼロの一瞬在番ながら(着'98年の開幕前に退団)、米大リーグでのソリアーノと、タイトルホルダー続々輩出{※1}。

 実績No.1(通算2000安打超)の石井はイブシ銀の趣も、中村に濱中、「66」通し&1年咲きだが西浦、代打役の高橋光、に'06年大リーグ史上4人目の40本塁打&40盗塁を達成したソリアーノと開眼者はスラッガーが多く、絶対的本格派エースの斉齢を含めスケール大。
 さて、その「出世番」史の1ページ目を飾るのは'55年、ともに途中入団した川崎&ピンカード。川崎は代打で3本を放ち、ピンカードは8月末以降で7本。

 川崎は大学中退の21才、ピンカードも24才と若く、加えてピンカードは身長190cm 体重88kgと頭抜けた体格、川崎(は173cm 70kg)ともども穴の多い強打者で、「66」に粗削りな印象を植え込んだ。 ・・・そして脱'56年、ピンカードは打率.187がたたって準レギながらチームトップの16本、逆に川崎は本数減(0本)も引き続き代打役で(.150→).282と進境〜'57年は半レギまで拡張{※2}(.232 1本、以降は衰勢)。と伸び率は今1つなものの「出世番」像が萌芽した。ところが'57年、前年 21勝(19敗)の伊藤が2勝(11敗)と“逆出世”してしまい(脱番後も3勝14敗~0勝2敗と)相殺。その後、'61年に193cm 87kgの巨漢・バウアーが準先発で6勝3敗と選手像を起こすものの、'64~'66年と堀田が主に代打で計(26試合45打席)8安打、から'69'70年と大隅が各1代打(0安打)と徐々にボリュームダウン。かわって投方から'71年佐藤玖が25登板(3先発)〜'72年11登板(計37回[イニング]、0勝)、'73年三好17登板(0先発 40・1/3回)1勝の微風が吹いたがイメージ結節からは完全に埒外。で他の“60番台”同様2軍メンバーかコーチの番号が主要象となる。
 そして、これまた他の“60番台”同様、難波、新井、森山、河瀬、宮脇、浜名、に通算88('73年には19)勝マークの佐伯、佐伯と同じくドラフト1位プロ入りした石井邦、まで引き込む「打撃投手」の番号として(基本、ボンヤリとながら)固まっていった。
 その渦中、’70年代終盤に脱番後の大隅が守備固めで1軍定着して「出世番」像が(こちらもボンヤリとだが)再発光。から'80年、高卒1年目の長嶋が11打席4安打1本塁打~'81年は35打席9安打〜'82年代打 + 時々スタメンで計178打席.263 2本・・・より脱'83年全試合出場〜'80年代最後までレギュラー、通算1091安打&107本塁打と“「0」番ブレイク”を遂げ、本格的に「出世番」史のスタート。'83年、プロ15年目の水沼が23試合に出場(50打席10安打 .263)~選手引退したあと、'86年高卒1年目の横田が米国野球留学〜脱'87年、6月に初先発勝利、を皮切りに先発5勝マークと長嶋に続きイメージ飛躍。・・・・・・しかしその後故障停滞。さらに「66」で'88年守備走塁要員定着した栄村、'89高卒1年目でいきなり先発1勝(含め17登板、30・1/3回に登場)を挙げた石井忠も以後停滞。'89'90年捕手半レギ→満を持して軽番出世、の福澤まで改番後急下降してしまい「出世番」のイメージは一旦縮小。・・・が'92年、野手(&琢朗)に転じた石井がまたも即台頭し半〜準レギ(69試合250打席で.269 3本 4盗塁)の座をつかむと、脱'93年盗塁王と「出世番」の灯復活{※3}&“「0」番ブレイク”再現(→ただし1年で「5」に転番)。
 と並行して、7年間で13登板0勝だった山田勉が'93'94年中継ぎ役で各“10勝(先発での1勝=完封 含む)2S”&'93年は日本シリーズ2登板~'95年も40登板超で5勝5S。に'92年高卒1年目で(27打席)2本マークの中村が('93年{※4}1安打〜)'94年、半レギ8本~レギュラー獲って'95年20本〜'96年26本。から('97年17試合で4本とデモンストレーション孵化した)西浦が'98年 20本 + 18盗塁。加えて'95年初打席本塁生{※5}(含め24打席.263)の出口が'96年(外野)守備走塁で定着(84打席.222  1本)&日本シリーズ2試合、'95年椎木も(66打席)2本とプチ頭角を現し、濱中も'97年高卒1年目で12打席2安打~'98年24打席で9安打.409・・・と「66」 現役像も躍進。特に中村〜西浦( +“次”をアピールした濱中)のスラッガー勢は、その雄大なスケールを押し出しイメージ中核を陣取った。が、唯一「66」で通した西浦が'99年以降絶不調(計11本)、即戦力候補の高橋光、髙野も期待を裏切り続け(高橋は「66」で計133打席7本、髙野は18打席1本)、天野は伸び悩み(46打席 1本)。また出口、椎木も台頭後は出番僅か。
 その一方、横山が脱'97年(それまで0登板→)中継ぎで10勝ブレイク。'96年10登板台~'97年は4登板&ヘルニア手術で退団した山田も脱2年目に半復活。

 すると濱中が'01年〜レギュラー、ソリアーノも大リーグで'01年~レギュラーを獲った他、出口が'02年~再定着し最終的に16年、椎木も脱'98年準定着、以降再び出場少も17年、福澤も脱2年目以降のシーズン最多打席は38ながら15年、プロで選手としてユニホームを着続けた。
 その“底が突きない”感は、'94年一旦選手引退→打撃投手転身の大石が、6月に(別番で)選手復帰〜'95年当番号へも復帰、で「66」に先がけて還元されており、'04年にも当初打撃投手だった栗山が5月に選手復帰し自己最多の28登板(〜退番後は社会人球界で2年)。またこの間新人で'98年、前年に社業専念通告を受け退職〜入団テスト受験の高橋郁が、'99年同じく選手引退勧告を受けテスト受験の高野が、'00年には肘痛で大学中退~家業を手伝いながらクラブチームで練磨しテスト受験の本間が、'01年は所属の社会人チームが廃部した福井が、'02年も大卒時に内定先の社会人チーム廃部〜帰郷し中学の体育教師となりクラブチームでプレー〜テスト受験の橋本が、各球団の当該年におけるドラフト最下位受指名着。
 '00年、この中から本間が中継ぎ台頭し29登板で3勝マーク~'01年は13登板2勝。高野も'00年15打席で3安打1本(ともに以降は出場僅か)。加えて同'00年は入団以来たび重なる肩痛に苦しんできた{※6}斉藤が(過去3登板0勝~)一気に16先発で5勝を挙げ、全て敗戦処理ながら日本シリーズ3登板と半開眼する・・・が翌年またも肩痛に襲われ0勝。
 から'02年8月{※7}1軍復帰し当年(10先発)4勝〜そして全快で迎えた'03年、開幕投手に抜擢され勝利、4月終旬~8月終旬にかけ16連勝、含む20勝3敗。'04年はその反動で10勝7敗(リーグ最多失点で防御率6.26)も、'05年(スタート15連勝、含む)16勝1敗~'06年18勝5敗。'06年は勝利数、奪三振数(205)、防御率(1.75)、勝率に加え、完封数(5)でもトップに立ち、史上7度目の投手5冠王{※8}達成。・・・も'07年は肩痛で6勝3敗留まり〜オフ、2度目の手術。
 さて、この間「66」で未孵化の高橋光が脱'04年より代打定着して“「0」番ブレイク”再々現。一時低迷した横山も'05年以降、濱中も'06年、中村も'07年と復活&'06年石井が2000安打到達{※9}。また、斉藤はかつての山田勉と同じ8年目のブレイク。西浦もほぼ無実績からの6年目ブレイクで、「66」に“遅咲き”印象が焼き付けられる中、'05年(過去20登板 0勝の) 宮越が9年目で初勝利、含め21登板4勝(うち先発2勝)とさらに当印象促進(・・・後は15登板2勝)。
 そして選手時、その代表的存在だった落合(レギュラー奪取はプロ3年目も当年28才)が'04年監督として来番すると、1〜2〜1〜2位。ただ日本シリーズでは2連続敗取。同じく斉藤も'03年シリーズで2先発0勝~後も'04年より始まったパの1~3位球団によるシリーズ出場決定戦で5先発全敗と「66」に短期決戦で弱いイメージも着生。がセでも同制度導入の'07年、落合率いるドラゴンズが日本シリーズ出場権獲得〜シリーズも制覇しイメージ撃破。
 一方克服ならずも192cmの斉藤を追って、末永 (188cm・・・また斉藤の高校後輩でもある)、ダース(191cm)の両長身右腕が敬慕着と巻き返す土壌は(斉藤自身の“復肩”ノウハウ保有も含め)すでに均し済み。

 他方野手は基本2軍も三塁・寺田~遊撃・木村、西村弥、大和の内野守備名人像(1軍では木村、西村が各47試合)が、徐々にイメージ滲出中。

 ・・・が'07年、田中大が2軍でチームトップの10本&44打点、守備でもリーグトップの13補殺(≒送球アウト数)と新芽を吹かせ、中距離タイプも由[よし]田が'07年1軍初本塁打。また実戦登場0ながら超マイペース&武闘派若手の山田弘が控えており、今後のイメージ破壊〜進化ぶりが期待される。
【2008年開幕時点】

{※1}また“隠れた出世”では選手時出場0の土屋、福田、入澤が脱番後指導者に長く在職。
{※2}同'56~'57年と戸川も代打でプチ定着(計9安打2本)しイメージ伴走。
{※3}の直前、'90年着・広瀬新が脱'91年3年ぶり1軍登板(29) で6年ぶり1勝と復活前奏。
{※4}同年はかわって山田勉が(19打席)2本~'95年にも(10打席)1本マーク。
{※5}ちなみに出口は高校時甲子園でも初打席本塁打 (この時はチーム初戦の初回先頭。着番号は「6」)。
{※6}昨'99年には高2時より肩痛を抱える高塚が2軍で5勝と狼煙を焚いた(・・・がしかし明年0勝)。
{※7}同年中谷も('99年の)左目負傷を乗り越え1軍初出場 (17試合 23打席 1安打 ながら1打点)。
{※8}長期1シーズンでは'54年杉下茂、'59年杉浦忠、'81年江川卓に続き4度目。この他シーズン100試合未満時に'37年春 沢村栄治、'38年秋 スタルヒン、'43年藤本英雄が記録した。
{※9}また'03年台湾で横田が最多(16)勝と回生(他に安藤、監督で中山、大橋も同国在籍)。
【2008年開幕時点】