2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

65

【2008年開幕時点】

 

 選手番としての躍動が目立ち始めるのは'90年代に入ってから。加えて野手レギュラーは0、投手も規定投球回到達は3例と独自色が見出しづらい中にあって、'67年菅原~'00年戎[えびす]の“1発屋”(菅原はのち準復活・・・詳細は下記)像がインパクトの大半を占める。
 '57年に青木惇が第3捕手定着、'62年重松は途中入団~8月末より代打&守備固め定着、'63年梁[やな]川は守備走塁要員として100試合超も、打率は各々.148 .095 .096でイメージ薄。
 そんな中菅原'66年8月、初登板完封デビュー。 翌'67年11勝(4敗)3完封を挙げ規定投球回到達しオールスターにも出場~8月には1球勝利のオマケ付きでチームV3に貢献。ただ、立ち位置は“5番手投手”で、日本シリーズは敗戦処理1イニングを投げただけ。さらに'68年4勝(1敗)~'69年3登板のみと完全に衰勢。・・・から脱番後、'70年3登板~'71年4勝~'72年2桁勝利(&日本シリーズでは先発で1勝)とシンメトリー再生。するが'72年シーズン(はリリーフが主、だが立ち位置は2番手)のちょうど折り返し地点(=64試合目 9勝2敗)で投ライナーが顔面直撃。 当年はこの後4勝を加えるが(自己最多勝利も規定不到達)本復せず'73年6登板、の翌オフ29才で選手引退。 と “2発目”は半跳躍で終わった感が強い。
 そして戎は(それまで9年間で27登板0勝、から)10年目の'00年、7月に先発で初勝利を挙げると、8月には初完封、その後も快投を続け終わってみれば (21登板17年先発で)リーグ最多の8完投、規定にも達し、8勝2敗ながら、最優秀防御率のタイトルまで獲ってしまった。また、その時点では3勝0敗だったにかかわらずオールスター出場。加えてチームが戎の初勝利試合を皮切りに6連勝(=目の勝利投手も)して4位→首位に駆け上がる{※1}など9年分の錯誤を一気に晴らすかのような猛ゾキぶりを発揮した。・・・が翌'01年は19先発5勝9敗に留まり、脱番後は1桁登板数に終始(計2勝5敗 1S)と、こちらは純“1発屋。
 また“我ブレイク”の'00年には、タイガースに高卒ドラフト1位入団後5年間で1勝3敗、昨'99年は自律神経失調症を患い夏場実家療養~オフ自由契約、からバファローズでテスト再起した山村が4月に早々完封勝利、そのままローテ投手として6勝9敗&規定クリア。戎とともにオールスターにも出場~翌'01年も(出番は前年比1/3減も)同じく先発6勝+救援1勝して史上5度目、パ初の最下位('00年) →リーグ優勝('01年)に貢献。日本シリーズでも第2戦3点ビハインド時に登板~ソロ本塁打を献上、と自身不納得内容も、その裏から打線が反撃開始し同シリーズ23年ぶりとなる4点差(以上)逆転劇を結果的には演出(・・・ もその1登板のみ、チームもその1勝のみで敗退)。脱番後は0~1~ 0勝で“1発屋”印象も芽生え・・・かけたが、'05年新生球団、故に戦力弱の楽天入りしたことで奏功し、当年先発2勝~'06年同7勝&6年ぶり規定到達〜'07年は救援中心に6勝(うち先発は5度で2勝)と前ブレイク時と同規模再興。加えて病気&球団消滅を経たしぶとさで“1発屋”イメージ解消。
 さて、その「しぶとさ」は、選手躍動前にイメージ跳梁した熱血漢監督・西本〜山内、に同コーチの森下〜河村英{※2}が原拠。より限定すれば西本。着前年まで5年間で4度優勝指揮。着'72年も当然のように優勝。するも日本シリーズでは巨人に敗れイメージ占有までいかず。そして翌年は年間勝率1位ながら前・後期制導入により(ブレーブスは前期3~後期1位)プレーオフで前期覇者・ホークスと対戦〜敗北し2位扱い・・・でオフ退任(背番号「68」編へ続く)。約10年後、かつてオリオンズで西本の後輩('60年は監督と四番打者の間柄)だった山内が、“「65」監督”を継ぐも2〜5〜5位(最終年は途中休養)で現在。最後は小森(守備走塁コーチor 2軍監督)、住友(打撃コーチ)、黒江(打撃走塁コーチ)の名“忠臣”者の方が永らえた。また脱番後名スカウトマンの櫟[いちい]、三宅宅、白坂、備前、渡辺省にも同気質が偲ばれ、加えて金田〜難波、田尻、吉武、佐藤玖、国沢、市川、高橋正、大畑は打撃投手要員と影を助長。
 この間(菅原以降の)選手では、'70'71年と柳田が先発半~準定着で各3勝、野手では'77~'79年若林憲が守備走塁要員で準定着。に'86年岡田3登板〜'87年中谷6打席。から野手は'90年本村が守備走塁半定着・・・'95'96年高波が同準定着。さらに'97年大塚同半定着&打でも8月終旬2試合で計6打数6安打2本塁打・・・もトータルは.189~'98年5試合のみ。かわって新里[しんざと]同準定着も'99年は7試合〜'00年出場0。伸び悩みを象徴するように高波が(「4」→)「65」帰着し'02年はやや持ち直し半定着も'03年出場0(~途中移籍脱番後定着)。かわって代田[だいた]が同半定着も、シーズン最終戦で左膝に重傷を負い退団。また強・巧打者では'93年小畑[おばた]が(9打席で)3安打も二塁打2、'97年には渡辺政がプロ12年目で初出場(計15打席 3安打)、'98年ケサダはドミニカ・カープアカデミーより来日し2軍オールスター戦MVP、中盤以降1軍で34試合 63打席.311  3本と“将来有望”を印象付けたが、オフ入札制により米球界移籍。かわってブラジルの高校から来日、のユウイチが'02年より打席数20~30ながら.250→.286→.393と進境果たし、日本国籍取得で外国人枠の適用外となった'05年一気に1軍定着して(75試合151打席で). 241  2本。 同年は途中入団のトレーシーも半レギ (63試合201打席で).209 6本と“助っ人”としては食い足りずオフ退団も「65」の打像侵出に寄与。も'06年、ユウイチが椎間板ヘルニア手術で3試合出場のみとイメージ大減反。
 片や投手は'90年に八島[やじま]が初登板(救援)勝利(・・・もトータル8登板9回[イニング]で10失点)、から'93年山崎一が6先発で2勝( + 8救援で1S[セーブ])、&14救援の二宮が9年目のプロ初勝利(含む2勝)、'96年14登板(1先発)の松岡は8年目の初勝利(含む2勝)、そして'00年には戎が10年目の初勝利を挙げ、山村が'01年チーム12年ぶり優勝の輪に加われば、'03年途中入団のリガンは29救援3勝(防御率1.51)でチーム18年ぶり優勝に貢献&日本シリーズでも4登板(・・・も日本一寄与はならず)〜'04年は序盤クローザーに着任も、故障で結局23登板1勝4S止まり。から'07年、松本輝が前半救援で初1軍定着〜後半失速するが33登板、防御率は6点台も12年目の初勝利(含む2勝1S)を挙げ、'08年新たに準実績者の押本も加わり救援イメージは一定定着しそうな気配。また先発では(かつて菅原も'66年、戎も別番の'94年に獲得の)2軍最多勝を'07年獲得した近藤一に孵化予感が漂ってきた(過去21登板・・・'04年に先発1勝)。
 ただ'07年、松本はオールスターの中継ぎ部門でファン投票選出されながらケガで出場辞退、近藤も2軍で5月、9回2死まで完全投球(=許出塁0)も27人目の打者に2ストライクから頭部与死球→危険球退場、加えて故障克服のユウイチが終題1軍昇格~中軸スタメン定着し33試合105打席で.340  3本と“翌年ブレイク濃厚”・・・までいったところでオフ改番、と本格活性寸前で留まるパターン続き。また当機構[NPB]を2~3年で去る選手も近年増加傾向。の反面、'96年に佐久間が一旦自由契約~2年のブランクを経て当機構復帰着。続いて'98年着・日里[ひざと]は所属会社倒産~クラブチームを経、テスト入団。翌年ダイは社会人2年~米アカデミー2年を経て、米12球団、日本4球団を受験の末「65」着。'00年には既述の山村が来番し、'02年には社会人で2度休部を経験~米独立リーグ2年の藤本が「65」着~さらに脱番後クラブチーム~台湾プロ(=同国では松井、小早川、に指導者で森下、中山俊、山内も在籍)。他に若林隆も退団後社会人、山田憲は日本の独立リーグでプレー続行し(=同リーグには指導者で中居も在籍)、代田は1年浪人~再契約トライアウトに合格し当機構復帰、石橋は'05年オフ〜'06年オフと2年連総合格・・・そして'06年オフ合格の内田が'07年「65」着、とハングリー魂も発揚。当機構内移動では本村が入番時4年目で3球団目(交換相手の松井もこれを皮切りに計4球団在籍)、小早川は3年目で2球団目〜'93年、5年目で3球団目となる新天地へ(・・・で初出場)。&'93年2軍最多勝の渡辺政は10年目の'95年野手転向し2軍でリーグ2位.301~'97年同2位 14本(・・・で初出場)と即適応。触発され{※3}たように同系・大砲{※4}の(関吉~)佐久間、岸川、ケサダ、徳本、清水、カズ、曽我部、ホッシャ・・・が続々集い、現役の鵜久森[うぐもり]、梅田、斉藤、藤井にはかつてとは別解釈の“一発屋”覚醒への期待がかかる。
【2008年開幕時点】

{※1}最終的に4位〜翌年も上位を争っての4位、以降6年は最下位4度と低迷、また'00年限りでイチローが渡米、でいわば戎はブルーウェーブが生んだ最後の徒花的存在。
{※2}必殺・シュートの伝承者・・・「65」では加藤伸一へ極意伝授。 また近年佐藤剛、戎、山村、松本輝とシュート武器の「65」投手印象高(逆に山内は元“シュート打ちの名人”)。
{※3}若林隆も高校時投手〜野手でプロ入り〜3年目投手転向、から3年後「65」着し横手[サイド]改造〜脱番後再び野手〜社会人では投手の流転ぶり。現役では西﨑が捕手〜外野手('07年最終戦で1軍初安打~そのまま猛打賞=3安打)、から'08年遊撃手にも挑戦中。
{※4}また裏面の大砲である“鉄砲肩”も、高波~曽我部~南と継がれイメージ覚醒途上。
【2008年開幕時点】