2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

61

【2008年開幕時点】

 

 近代投手が足を向けて寝られない背番号。何せ先発投手のローテーション制を導入した藤本定、先発・救援の分業制を根付かせた近藤が、その起用法を本格遂行した時に着けていたのが「61」。そしてある意味、反面教師的な促進材料となった'61年「権藤、権藤、雨、権藤{※1}」時の指揮官・濃人[のうにん]、を送り出してもいる。さらにはその'61年、濃人ドラゴンズを僅差でふり切りセリーグ制覇し“不成功{※2}”に終わらせた川上(哲治)ジャイアンツ、に終盤まさにふり切る瞬間の救世主として突如現れたのが、これまた「61」の村頼。
 さて、それまでの流れをさらっておくと'52年、和田が22登板(6先発) で4勝3敗(1完封)~'53年は15登板(9先発) 1勝5敗と当時の「61」の立ち位置から考えればかなり上々のスタート。翌年「16」へ転番も、替わってドゥールが10登板ながら(7先発)3完投で3勝(2完封)、'56年青山39登板(10登板)4勝6敗と続く。野手では'53年高橋真27試合で3得点1盗塁(打席10安打・・・安打0、守備出場14)が初動で(安打は和田が5='53年1 本塁打もマーク)、'55年途中加入ブッサンが76試合で.223 6本を放ったあと、'56年太田4試合で3打席3三振。
 そして'61年、村瀬が大学中退~9月に1軍登録されると、救援でプロデビュー~初先発完封、を含む5連勝 (3完封~1敗)を飾り、新監督・川上の初優勝指揮“ラストスパート”貢献{※3}。しかし日本シリーズでは登板なく、脱番後は翌年挙げた2勝(2敗)、のみで退団。また先記通り当'61年「権藤、権藤・・・」、を同一リーグの投手コーチ→途中より監督(代行)として見ていたのが藤本。さっそく翌'62年正式就任すると“仮にシーズン最終戦で優勝が決まる”と想定しての逆算式ローテーションを組み、大筋で忠実に立言し“シーズン最終戦に勝って”の優勝を現出~'64年にもシーズン最終日 (ダブルヘッダーの1試合目)に優勝を決める。ともに日本シリーズで敗れるが('66年「指揮権」禅譲も新監督が途中休養で再就任~)'68年まで采配を振るい、「藤本監督の下[もと]では投手寿命と防御率が確実にアップする」との評を得た。とはいえこれは“極力中3日を空ける”といった程度のもので、現在の感覚からすればかなりなヘビーローテ。また藤本は来番時すでに監督歴20年超の大ベテランで、元々他監督に比べ、先発エース級投手の救援起用回数が少ない特徴があり、20以上が普通(稲尾和久に至っては40以上4度)だった当時、そのラインに達させたのは'39年スタルヒン (27)、'57年{※4}梶本隆夫(20)&米田哲也(21)の3例だけ。1桁ということも珍しくなく、つまりはある程度「分業制」を採り入れた監督だったのだ。その集大成としての'62'64年の優勝といえる。
 そしてそれを、さらに分け隔てさせたのが近藤。来番の'65年時すでに指導者10年目、あの「権藤、権藤・・・」時の投手コーチでもあり、当然このことが(権藤の投手生命が実質3年で終わったことも加え) 忸怩たる思いとして残っていただろう。昨'64年に試運転的に救援中心起用した板東英二を'65年よりほぼ専従させ、離番(背番号「5」の{※9}に少加筆)~'72年星野仙一、'75年からは鈴木孝政と新陳代謝しつつシステム推持し、交代を渋る先発投手からボールを奪うサマに「モギリの近藤」の異名が付くほど“継投野球の祖”のイメージが周知化した。さらに4年の空白を置き、'81年監督就任。当年は('79年より引き続きの)小松辰雄、'82年からは牛島和彦をその座に据え、'82年には20年前の藤本を思い起こさせる{※5}“最終戦に勝って”の優勝~そして同じようにシリーズ敗退。また試合終盤、ディフェンス型選手へとメンバーをガラリと変える自称「アメフト野球」導入で野手の分業にも着手した。
 この間選手は'64'65年と合田が各2勝・・・脱番後2年2桁勝利、'68年1登板の竹村も、のち先発定着、'62年2安打の児玉は脱番後半レギ 、'73年2安打(1本塁打 2盗塁)の強肩遊撃手・河埜[こうの]は脱番年準レギでゴールデングラブを受賞。にコーチの(濃人~)上田利、土橋、与那嶺が脱番後(近藤も同番復帰時)監督就任~土橋以外は(濃人、近藤を加え)優勝監督経験。
 と“出世躍進”像に圧倒されるが、ようやく'83年に中居14先発で2勝(7敗、以降1登板)。すると'86年デビッドが(「60」門田博光、「62」グッドウィンとで“60番台クリーンナップ”を組み話題も呼んだ上で)25本.285(・・・もグッドウィン半レギ留まり&翌年デビッド変番)。次なるイメージ胎動は'88年プチ定着~'89'91年半定着(計4勝1S)の中継ぎ腕・清原。'90年には前年夏の甲子園優勝投手・吉岡を迎え一気に「投手番」として席巻の芽も蒔かれたが、入団早々の4月に右肩手術~'92年2軍登板も、球威戻らず秋、野手転向してトーンダウン。
 逆に打方で'91年山田が半レギ台頭・・・脱番年準レギ進境、同じく捕手・秋元、に2軍中軸の浅井~河[かわ]野も脱番年より1軍定着、吉岡も脱番年に2軍本塁打王&打点王(ちなみにこの翌'95年は河野が同2冠)・・・タイムラグはあるも'98年1軍定着~'99年レギュラー獲得。と“輩出”事例が目白押し。そして'99年、主砲・ブロワーズが来番してついに開花到来・・・も10本.251(73試合)で途中退団、と短期咲き。が同年、川口が後半台頭し6本~'00年“「61」のままで”準レギ(5本)となり、'01年は“恐怖の七番打者(くしくも同チーム六番は吉岡)”として21本.316(規定打席には不足)を打ち優勝に貢献。翌'02年も13本.288で一時五番に座るなど進加率キープ。だが'03年以降は半レギで9~3~0~2~6本と伸び悩む。またこの間、'00年ハートキーは4本.272(76試合)で迫力不足。若手スラッガーの伊与田(='00年に1本)、寺本、春日、山本将、に中距離ながら2軍中軸の梶原康{※7}は皆、開花ならずでトーンダウン。
 一方で'90年代以降、柳田[やなぎた]、大畑、末廣[すえひろ]、古屋、堀[ほり]田、八馬[はちうま]、野中、星の快足ナンナー続々集結。だが「61」では'99年古屋の25試合(38打席)で4盗塁7得点、脱番後も柳田がタイムラグ付きで'97~'99年準レギ、に堀田'05年&野中'07年帯同と弱く、トーンになる前にダウン。
 という中で残ったのは、単体では目立たぬも清原(半定着)、から'93年渡部[わたべ](準定着)、'94年~北野勝(定着)とつないだ左リリーバー。そして'99年同台頭の石井弘が'00年よりセットアッパー 着座{※8}('05年はクローザー)、'06'07年久本は再びリリーバー(準〜定着)とかつての“分業制確立番”イメージを汲んだかのように“左の中継ぎ”像が滲出。右は中居のあと、先発で牧野、栗山がチャンスを得るも各1勝( + 牧野は救援でもう1勝)、'02年2軍最多勝の矢口は無勝利。'04年新人・押本は15先発6勝( + 救援1勝)するも、翌'05年0勝〜'06'07年リリーバー転向(準〜定着)。また'01年に逆指名でドラフト1位入番した当初先発エース候補の山村も、プロ入り後4年間で手術5度の故障禍に見舞われ、1軍初登板はようやく'05年&'06年に各1登板~'07年救援23登板(3月プロ初勝利、含む2勝)。で'02年アルモンテの救援半定着を起点とする“後ろの”イメージが、左の同イメージを追う形で固まりつつある。・・・が'06年、大将・石井弘が絶不調〜オフ手術、で'07年登板0の大トーンダウン。さらに'08年、押本移籍脱番&先発実績者・石井一が移籍来番とイメージレースは大きな過渡期へ突入。
 そして野手方も'07年新人の角[かく]中、坂本勇がともに2軍で中軸定着〜1軍でも初安打&初打点(&坂本は初盗塁も)マーク。それも各々、角中は四国“独立リーグ”出身者初の、という形で、坂本はチーム正念場試合の延長戦での決勝タイムリー、という形で初安打を記録する強磁力ぶり。'08年にも強打逸材の伊藤が新参入・・・と急展開が成る寸前の空気が充ち、好打の武山、山本翔も含め“強肩”パーツも搭載。特に坂本には、かつて同じ遊撃手の河埜が巨人V9(='65〜'73年)メンバーの次代候補第1号として風穴突破口となったのと同様の、現巨人の重量選手層に割って入る“一の矢”としての期待もかかる。
【2008年開幕時点】

{※1}新人・権藤博の“一点張り”起用への皮肉込み冗句(当年429・1/3回・・・2番手で223・2/3回)。
{※2}同年パでも稲尾和久が404回を投げ、日本記録の78登板(当時)&42勝で優勝できず。
{※3}翌年より巨人は4~1~3位。もし当年優勝を逃していれば4年で優勝1度の川上は更迭された可能性が高く、のちに村瀬がV9“陰の立役者”といわれた所以である。
{※4}この年の2枚エースの成功が'62年小山正明&村山実、'64年バッキー&村山実、のローテを優先的に決め、間を3番手以下で埋めていく「両輪システム」の機能を呼んだ。
{※5}両者は他にも“元巨人”。に“猛獣遣い”の趣があった藤本と「野武士集団」を率いた近藤。(厳密には'55年岸一郎だが序盤退任したため)初のフルシーズン還暦監督{※6}となった藤本と'80年末55才で当時史上最高齢新人監督の近藤。当時の退場記録(7度 =「61」では2度・・・この時点での2位はスタンカの4度)保持者の藤本と(61」では退場0も)手を後ろに組んで審判に口角泡を飛ばす姿が印象雛形化した近藤、と共通項が多い。
{※6}それから40年後の'05年、逆に史上最年少ドラフト指名を受けた辻本が16才で入番。
{※7}'05年、栗山とともに松下電器入り・・・同年社会人の一塁手ベストナインに選ばれた。
{※8}また'02年“155km/h”のスピードガン左腕最速記録を樹立、川口より1歩抜きん出た。
【2008年開幕時点】