2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

51

【2008年開幕時点】

 

 イチローの出現により一気にメジャーナンバーとなった「51」だが、イチロー以前にも井上登、土井、大杉のクリーンアップ打者に(後者2名は四番) 、準エース格投手の古沢と、チームの中枢選手が一定期間「51」で通したのには先例がある(ただし“全う”となると現時点でのイチローのみ)。
 "50" の宙吊り感に "1" という方向性が加わることで覚悟が決まったかのような落ち着きをたたえた背番号。 深海もしくは天空を直線的に進んでいくイメージで、情景通り4者とも深海(二軍)から天空(一軍)へ駆け昇った共通項がある。
 その第1号、井上は'53年外野手として入団も、二軍で空いていたポジション=二塁へと自主移動 (1年目は一軍9試合)。 から2年目には一軍正二塁手奪取、球団初優勝を演出し、日本シリーズでは最終第7戦で決勝三塁打を放ち、 1-0勝利で日本一決定のウラ立役者となった("オモテ”は7試合中5登板4完投で3勝、第7戦でも完封した杉下茂)。 そして翌'55〜'58と'60年にセのベストナイン二塁手に選ばれ、打順も'56年以降クリーンアップ (主に三番)に定着。 打率最高で.293ながらリーグ10傑入り4度、本塁打15以上3度、盗塁もおおむね15以上(最多で26) をマークし、'62年移籍脱番(・・・'67年復番時は14打席で3安打)。
 と、入れ替わるように土井が'62年よりレギュラー。それも新人の昨'61年は一軍不出場、どころか解雇候補者に名を挙げられる窮地だったが、監督が (くしくも前年「51」 仲間だった)別当薫に代わるやいなやオープン戦で四番起用されるというド衝天ぶり。公式戦では主に五〜六番を打ち(四番定着は'66年から)翌'63年二塁打王、'64と'67年は安打王&90打点超、本塁打も'62年より5→13→28 と伸び、'67年まで20本台推移。'67年にはオールスター戦MVP、シーズン終盤25試合連続安打も記録し初の打率3割(.323=パ2位) ・・・オフ「3」改番。
 そして、入れ替わるように大杉が'67年よりレギュラー定着。 過去2年は代打役で計9本塁打、から打撃コーチ・飯島滋弥からの「月へ向かって打て!」で開眼し27本→'68'69年各30本台→'70年より四番で3年連続40本台&打点3桁(打率も.339=2位、.315、.295)・・・'73年「3」番へ。だが30本台へ逆戻りし1年後「51」 復帰・・・しかし20本台とさらに降下し、オフ移籍で再離番。
 他の野手陣では '56'57年土居(遊撃)、'59年水上(二塁)が控え半定着、'61年広野、'64年渡海[とかい]は代打要員(広野は外野で半レギ弱)、'67年川内雄、'70年佐藤一は同半定着、に捕手・小川が'63'64年と準~半レギ格、'67年柳田は外野半レギ~'68年規定打席到達・・・も序盤で途中改番。
 一方投手は'53年、野手より先に新人・権藤がレギュラー戦力となり15勝12敗〜で「18」へ。 同年ロングは駐留軍人のかたわら、のアルバイト登板3度を全て完投(31イニング)し2勝1引き分け〜退団。また'52'53年計4登板の滝が脱番初年いきなり16勝、でイメージの概要ができ上がり、活躍1〜2年で去るのが通例となる。 その中で'55年坂上が13登板7先発4完投で4勝を残し、同年柴原は0勝ながら19登板60イニング超。から'56年三浦が、前年まで9登板0勝→一気に29勝14敗で最多勝 (〜翌年改番し12勝21敗で最多敗)。 '57年には石川良が13勝7敗で200イニング超〜'58年6勝、で改番。するとしばらくの間投勢沈黙。'62年に石川 「51」 復帰も 16登板(20イニング台)0勝〜'63年3登板・・・で引き続き沈黙。
 その間打像の向こうを張ったのは首脳陣の「51」。西本幸が過去3年二軍監督、と翌年一軍監督就任(優勝) の境となる'59年に来番し、西本の前任監督・別当も ('60年フリー〜) '62年バファローズ監督就任、との境に着用・・・とここまではサイドイメージ。'67年、真田が西本の自身7年ぶり優勝指揮、時に投手コーチとして支え、'69年まで3連覇+'71年にも制覇を助成。 そして真田同様、アマ球界で監督実績を作ってからプロへ錦を飾った濃人[のうにん]が、 復帰 5年目 (フリー時1年含む)にヘッドコーチで「51」着、から('66年は二軍監督、'64と'67年一時代理監督〜) '68年正式監督就任して3位→3位→(西本監督時以来の球団10年ぶり) 優勝を指揮。この年より本格長距離砲席巻した大杉と並び、「51」 新旗頭にも就いた。そして'71年も首位争いを展開・・・だが、前半終了間際の首位攻防3連戦の初戦、放棄試合。 4日後、パの監督として出場したオールスター第1戦ではセの先発・江夏豊に9連続三振を見舞われ、後続投手も打てずで史上唯一のノーヒットノーラン負け (第2〜第3戦はパ勝利)。 さらに公式戦後半早々に首位との直接対決2連敗(で8ゲーム差)となったところで一軍と二軍の監督が交代、というオーナー指令が下り退陣。 放棄試合から数えて11日、その間に“連覇監督”の目もあった状況から一気に深海へと潜り、同年をもってユニホームを脱いだ。 沈んだイメージを取り戻そうと'73年、別当“監督”が「51」復帰〜8月初旬まで3位 (6月はおおむね首位)キープ。 “大杉の居ぬ間に”を目論むも、結局最後は最下位(・・・とはいっても60勝 67敗、首位と6.5 ゲーム差という超ダンゴレースだった) ~退任。で首脳陣「51」も終演。
 に替わって目覚めたのが投手「51」。多少前後はするが'69年、それまで7登板1勝の西本明が25登板10先発2完投で5勝の準定着。から'71年、古沢が12勝を挙げ防御率3位となり、過去7年間で3勝、の辛酸昇華。8年目 (といってもまだ23才だったが)にしてめぐり逢った良番だけにその後も継続着用し、翌'72年は1勝6敗に終わるも'73~'77年と10勝前後&200イニング超3度で大杉より「51」 旗頭を承継。 だが'78年4勝16敗と大負けすると、 オフ移籍退番。 でまたまた投勢沈静。 '81年、古沢が「51」復帰するも32登板(全て救援で25完了) 1勝4敗6S〜'82年(「51」 で0登板のまま) 途中移籍により再退番・・・で投勢再沈静。
 さらに、'69年に投狼煙を上げた西本が'70年遊撃~'72年三塁で控え定着、で大杉の後続野手狼煙も上げ、 すぐあとから正岡 (村上) が遊撃で'71'72年控え半定着→'73年以降定着→'75~'78年は半~準レギ格にと進境。 また'76年に鈴木治が一塁準レギ (で3割)、 '81年五十嵐が二塁半レギと古沢像を徐々に切り崩していき、福良が'85年40試合弱控え→'86'87年と二塁レギュラー ('86年は3割12本~'87年.260台8本、で両年とも死球王&10盗塁強マーク)。 その他 '78年捕手・福嶋、に外野守備走塁要員で'75年矢野、'81年~釘谷{※1}、'84年~佐藤純、 '85年~石橋に、強打の石井雅が'86'87年と控え定着。'72年真鍋 (捕手)、 '73年菱川〜'74年矢野 (代打)は半定着、'76'78年山本(代打)、'83'84年石橋〜'88'89年永田利 (内野守備走塁) に'75年鈴木、'80年福嶋と五十嵐、'85'88'89年石井は微定着。で古沢像を完全に呑み込んだ。
 そして福良のあと{※2}外野で前田が'90年控え→'91年レギュラー (.270台4本で14盗塁30犠打)、 さらに '92'93年控え台頭の鈴木ーが「イチロー」と改めた '94年、監督交代(=新監督は「51」 先輩の仰木彬) を機にレギュラー抜擢を得る土井パターンを踏襲。 シーズン新の210安打を放ちパリーグ新の.385、MVPも獲得。と一気に天上へ翔び、当年より7年連続{※3}首位打者(最も低い年で.342、また'94年は69試合目&'00年79試合目に4割台マーク)、の圧倒的確実性に、 '95年前半終了時 “打撃3冠王”の強打を買われ打順当初一番→'96年後半以降三番、'00年は四番を任され.387でパ記録更新(本塁打は12)。から'01年米を国移籍後(も「51」で)一番に戻り、'01・'04年首位打者&'01年は盗塁王にMVP、'04年に262安打でシーズン新の2ヶ国制覇、加え7年連続200安打&100得点&30盗塁以上。オールスター出場&ゴールドグラブ (守備対象ベストナイン=日本ではゴールデングラブ) 受賞は日米で各7年連続・・・ 米にて継続中。〔2008年現在〕
 と、もはや旗頭というより旗そのものになって揺らめいているが如くの存在となった。 その公式性の強さゆえにか'95年〜レギュラー、 '97年首位打者の鈴木尚、に'98'99年とレギュラー奪取した小関[おぜき]が相次いで降番('97 年代打定着のベテラン・仁村は選手引退)。残った大島は'03'04年準〜半レギ格→以後代打、 小田は'04'05年準レギ格→'06年代打、荒金は'04年半レギ格→以後控え、米野[よねの]は'06年レギュラー格→'07年控え、末永は '05'06年控え→'07年出場0と伸び悩みのオンパレード (ベテラン・古城[ふるき]は内野守備走塁定着。復番・鈴木尚は半レギ強、だが不振)。
 投手も'90年岡田展10先発3勝1完封、'93年門奈5先発1勝(中継ぎ半定着)、に'95年井手元4イニング2/3で2勝と勝ちヅキ運んでイメージ興し・・・ も、レギュラー戦力は中継ぎで'96年松元に'03年山北、後半限定で'97年抑えの趙[チョ]、ぐらい。 他は'96'97年井手元に'00年廣田[ひろた]が中継ぎ半定着、 '01'02年鄭[チョン]に'07年歌藤[かとう]が同微定着、'96年ボルトンと'98年井上貴先発微定着、止まり。
 と両陣ともに苦戦続くが'07年、育成方針により(3年目オープン戦四番起用もされながら)5年間一軍経験0だった桜井がついに初出場〜一気に準レギ格 (9本)と跳ね、新たなクリーンアップ候補に急浮上。 思惑叶って日本での現役フロントイメージャーとなれるか。
【2008年開幕時点】

{※1}'83年131打席で5本塁打 ('88年石橋は1試合3本)と "意外級パンチ”もあり。
{※2}また福良の他、西山、田辺、江藤、前田と'90年前後の脱番→主力の輩出実績出色。
{※3}“会心の一撃” を追わないスタイルながら、'96年にはパ初の優勝決定サヨナラ安打も。
【2008年開幕時点】