2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

62

【2008年開幕時点】

 

 この背番号は“花火師”のイメージ。唯一のレギュラーがレッカだが、「62」の番号性質を明かす上でこれほどの適任者はいない。キャッチャー・ファールフライ捕りの名人といわれ、'53年パ4位の23本塁打(・・・1位が31本の年)を放つ一方、三振は従来最多記録・92を大幅に更新{※1}する117、打率.200はリーグブービーの46位(最下位には1厘差)という極端さ。“三振か、本塁打か”の元祖でもあり、翌年は準~半レギで10本.187、三振81は3位。この数字から何となく見えてくるレッカ像、を薄めたものがその後の「62」のイメージとなる。
 とはいってもレッカのあと、分かり易い花火の喩えアイテム=本塁打、のシーズン本数は'03年星野の12本が最多(370打席)。次いで'86年グッドウィン8本(202打席)と、“花火師”を思わせるほどでもない。クリーンナップ期待を裏切ったグッドウィンは逆にイメージを矮小させてもいる。むしろ印象密度でいえば、控えでの'02年出口 (177打席で)6本、'87年渡真利[とまり](141打席で)5本、'63年佐藤 (130打席)4本、'65年小泉(126打席)3本、'03年原(47打席で)3本、同'03年出口 (142打席) 3本、'88年伊藤史(19打席で)2本の方が(実績者の佐藤を除いて) 期待薄=意外ゆえに濃く、1本ながら'90年佐伯のプロ初打席本塁打&'96年塩谷の“初回に2満塁弾で8点奪取”時の2本目の本塁打(ちなみにこちらもプロ1号)のインパクトも強大。だが塩谷(の1本)以外はそこまで際立ったレベルではなく、塩谷も、当年首位から23ゲーム引き離されての最下位に終わったタイガースの閉幕戦、という大消化試合(観衆6000人)でのプロ2登板目投手からのものと語り継ぐには今1つ熱狂しづらい快挙。それでもこの背番号に“花火師”イメージが未だ付いているのは、ド派手トピックの脇に意図せず「62」が配される“めぐり合わせの妙”からで、'85年、チーム合計200超の本塁打を打ちまくったタイガースの21年ぶりリーグ優勝を極めるウイニングボールキャッチをしたのが(途中から一塁の守備固めで出場していた)「62」の渡真利だったり、“いてまえ”と称された近鉄猛打線の'04年本拠地ラスト舞台で、延長11回代打サヨナラ二塁打を放って有終の華を打ち上げたのが「62」の星野だったりし、その間、小林&東[あずま]がともに清原和博の怒りに火を点ける逆暴発与死球を投じた。 先の“近鉄、「62」、大花火”の3題噺では、パ初の完全試合記録者であるコーチ・武智が、同郷(岐阜)&同投法(下手投げ)の佐々木の開眼に尽力し、'64年お互いの「16」・「62」を交換~6年後、佐々木が近鉄2人目の完全試合達成の時間差“大花火”の連弾、を原典番号としてストーリーテーリング・・・もあった{※2}(武智は'64年オフに退団)。
 ただあくまで、佐々木の大記録追随は脱番後であって、「62」では41登板(11先発、116 1/3イニング)4勝5敗。その前の'55年久保田、'57年西本が各3勝、も含め皆スキ間穴埋め要員。そして打方も(レッカ以後)'63年佐藤、'65年小泉が代打で穴埋め、から柳田が'69'70年計40打席で7安打・・・すると、'84年渡真利(3打席0安打)&中原朝(2登板5イニング)がデビューするまで1軍出場選手は0、と「62」の存在自体が長く“打ち上げられた{※3}”状態に置かれてしまった。が、翌'85年、渡真利がチーム21年間の優勝への想いが詰まったウイニングボールをつかむ役得に与り(またその瞬間が以降何100回とリプレーされたため余計に)良縁番号として存在が祭り上げられ、流れを汲んだかのように'86年“グッドウィン”という名の中軸候補も迎えた・・・ものの83試合で8本。だが'87年再度渡真利が準スタメン要員43試合で5本とイメージ倒壊を食い止める。と、'88年伊藤史が(守備走塁出場の間を縫って得た)19打席で2本塁打2二塁打(三振も8)~'89年森は0本も.317 (47打席)~'90年には鮎川が36打席 (.242) デビュー(佐伯は12打席で2安打)を果たし、再昇格した'92年5打席2安打(二塁打1)と、同年5登板3勝の小島(先発でも1勝・・・ただし防御率は6点台)とともにブレイク前夜を印象付けた。しかし小島は'93年5登板 0勝~'94年0登板。打で継続着用した伊藤も'89'90年計6安打、以降出場0、とイメージ進境ならなかったことで、しばらくは“堅実”肌へキャラ整形する。
 まずは'91年、控え捕手・長谷部に内野万能守備&走塁要員・風岡が準台頃~'93年にも風岡定着。から'97年野林(微定着)、'98年永池(準定着)、'01年新[しん]里(半定着)、'02'03年玉木(準〜半定着)と堅守内野手が続き、同系外野で'02'03年と出口が半レギ弱('02年は6本.268~'03年3本 .256も日本シリーズで7打席2安打1打点)~'07年高波準定着(&守備機会0も次代候補の普久原[ふくはら]が代走5試合デビュー)。その合間を縫って、鮎川にキャラ酷似の左巧打者・信原が'01年22打席5安打ながら二塁打、三塁打、本塁打を各1マーク{※4}。すると'03年、同系巧打者&万能内野でもある星野が準レギ12本.274 10盗塁~'04年は半レギ弱の2本.250(2盗塁)も得点圏(=走者二塁or三塁時の)打率&代打率は.330超と重宝度キープ。代打役では'03年原もトータル40試合で47打席(守備出場11) 3本.267のプチブレイクとコツコツ実績を積み、投手も'94件伊林、'95'96年小原沢、'95年小林が主に中継ぎでプチ頭角を現し、'97'98年柴田に'05年~吉川が本格定着、'99年小林と'02年東も準定着。先発は'00年ラミレズが挙げた1勝だけと献身ポジションにコツコツ活き場を築いていく。
 そして捕手も'90年長谷部(12試合)が'68年鈴木(1試合)以来の出場~'91年頭角、'92年川越代打2出場、'93年渡辺は捕手1出場(~'94年2、'96年1出場・・・も打席0)とポツポツ姿を現し始め、'95年川越{※5}が3年ぶり1軍出場すると'96年ともども控え定着、'96年長谷部も3年ぶり出場(代打1のみ)。またレッカ像を復刻するように'95'96年と強打の捕手・塩谷がプチ頭角を現し(各10試合弱)、前述通り花火を打ち上げるが'97年は5試合~'98年三塁転向(し2年ぶり2安打)。も、次なる強打捕手・高橋信が'00年代打出場(で二塁打)~'01'02年とプチ定着(計35打席で9安打)・・・の翌'03年準レギとなるが、惜しくも脱番後。たが同'03年さらなる候補・原が代打定着(捕手出場は7)・・・も以降出番少(計7安打)。で逆に'06年、守備特長型の山崎勝が準レギ格(1本.229)~'07年半レギ(0本.185)と1歩抜け、献身キャラが増進。・・・が、水面下では巧打の金澤、今成、強打の高森が控え、と打特長の芽も伸長中{※6}。
 また中継ぎ&伊林、小林、柴田、東、吉川(に登板少も東瀬[あずせ])と横手投げ多く、 で献身印象強の投手陣にも、玉置、今井、越智[おち]、朱[シュ]、山崎正の上手本格“和製ジャバ・チェンバレン”候補が揃い、花火(より“クラッカー”の趣だが)師イメージの導火線がジリ・・・ジリ・・・と燃焼中。
【2008年開幕時点】

{※1}前年120→当年140に試合数増も、レッカの試合出場は120と同条件。また当年豊田泰光(107)、関口清治(106)も大台突破・・・ちなみに4位は79(セの1位は78)だった。
{※2}“番外”では'66年着の川本が来番直前のスコアラー時に、王貞治対策として野手を極端にライト側へ寄せる「王シフト」を考案~進言・・・ゆえに“何か仕掛けてくる感”を植樹。また野球では1軍不出場だった藤池が、退団後に転じたプロゴルファーで'90年代打出場でホールインワン、'98年ツアー初日に60ストロークの新(-11 はタイ)記録。
{※3}ただコーチで一定注目は集め、特にマーシャルは当機構[NPB]選手~大リーグ監督~来番。
{※4}かつての柳田も'69年二、三、本塁打を各1(~'70年にも二、三塁打を各1)マーク・・・そして脱番後「36」へ、の道をのち鮎川が(「40」経由で)踏襲した。
{※5}高卒時('85年)タイガースの入団テストに合格も社会人入り・・・が1ヶ月で退社。後、草野球~'88年ホークスにテスト入団。から当'95年、8年目29才にして初安打~初定着。他にも小原沢が「62」着の'95年3年ぶり1軍出場~'96年4年ぶり勝利。'95年に5年目で初出場の柴田は'97、7年目29才にして初定着。丹波は高2春野球断念・・・も弟の急死により5年後プレー再開~その2年半後の'98年秋ドラフト指名され「62」着。また'01年信原高卒7年目、'03年原高卒8年目に1軍初出場。'02年玉木は高卒9年目、'03年原は同8年目で初定着。さらに'02年出口は31才で半レギ、'03年星野も33才で準レギへ急伸(ともにそれまで1⇄2軍エレベーター選手)。'04年には杉山が大卒後1年浪人してのプロ入り〜来番。加えて「62」脱とともにプロ選手生活を終えた、はずの長谷部が'97年、小島が'98年、永田が'01年、渡辺が'03年にそれぞれ経路は違うが別番号で選手として当機構[NPB]復帰・・・逆に'05年、スクルメタが2度目来日時に「62」着。
{※6}また'87年~「62」長谷部と「63」芹沢[せりざわ]裕二、'93年~「62」塩合と「63」片山大樹、がともに同チームに高卒同期入団し次代正捕手の座を争い、同期ではないものの高橋信と中山光久、金澤と青松敬鎔[けいよう]、今成と渡部[わたなべ]龍一が若手ライバル関係を築き、若手ではないが原と野村克則が控え捕手兼代打のイスを取り合った。
{※7}'07年に突如現れたニューヨーク・ヤンキースの新星パワーピッチャー。デビュー1年目はセットアッパー(=切り札中継ぎ)を担い、登場するだけで現場の温度を上げてみせた。
【2008年開幕時点】