2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

63

【2008年開幕時点】

 

 かつては「名コーチ」のイメージ。初表舞台登場は選手方のマケーブ(遊撃レギュラー格で.207 3本 20盗塁)だが、翌'55年藤田がヘッドコーチで「63」着。すると以降、コーチラッシュ・・・特に、藤村、近藤、植村、備前、杉下、中谷、大島、山下登、加藤英、新山、江田、北川、ときて大石(が藤村よりイメージ主軸を継ぎ)、石岡、水谷寿、稲尾と続く“投手担当”コーチの番号として滲出していく。そして'62年に青田がヘッドコーチ=参謀役でタイガースを2リーグ分立後初の優勝に導くと、以後“参謀”流れが'70年関根、'72'73年森永、'74岩本、'82'83に'91年徳武と続く。が、さらなるイメージ出世先「監督」へ進むと、まず、'63年に身長156cmの球界最小兵&還暦ベテランの浜崎でイメージを振って(成績は6球団中4位)、反動を付けて'66年182cmの長身&40代監督・杉下が受け継くが、86試合(34勝50敗2分)で途中退任・・・2年後、今度は59試合(21勝37敗1分) で途中退任とミソを付け、その間'67年には過去2年{※1}2位~来番、の西沢(こちらも長身&40代)が引き続き2位と健闘も、翌年1月病気を理由に辞任(・・・'72年6月半ばより代行の森永は83試合33勝46敗4分で引き継ぎ時5→6位)とイメージ伸びず{※2}。加えて岩本が'75年2軍監督へ座を移すと、この後岡田、法元[ほうもと]、に徳武も'84~'86年と同ポスト在任し、「63」の位置付けも変わっていった。そして'89年“最後の徒花”的に、30年前1軍コーチの初年度にも当番号を着けた63才(=満では64才も10月生まれ)の近藤が再着番して臨んだが、5→4→4位で退任=自身もユニホーム引退。最後の'91年にはヘッド・徳式も(前年“70番台”から時流に逆行してまで)かけつけたが、当年チーム最下位で退(移籍)。翌'92年から選手の在籍枠が1チームあたり60→70人に拡張された事情もあって、“首脳陣”の歴史はここで幕を閉じることになった。
 さてこの間、'65年に唐崎が守備走塁要員として控え定着、'68年柴田信も同役でプチ台頭しマケーブのプレーイメージを継承。'74年小金丸2軍で本塁打王(・・・1軍では1安打)~'75年高木好6安打(二塁打4)→'76年半レギ兼代打で7本 .279と打イメージも追走。
 一方、かつて20勝投手の中村は登板0、同・三浦も19登板0勝。のち20勝投手となる石戸、にこちらものちローテーション投手の益田は各3登板。とすれ違い続きの投陣は、'83年良[よし]川が救援25登板で1勝、がようやく初勝利。から'89年高卒2年目・ 加藤博が先発6勝(1完封) + 1S、防御率セ8位で他イメージを抜き、選手「63」の旗頭に踊り出る。また'81~'90年と連続Bクラス(=4位以下)中だった所属チームの希望の星(の一人)ともなった。
 反面、打の有望株・藤野は'84年に2軍首位打者となるも、チーム充実期のため初出場は'87年(7試合で2打席→'88年は28試合32打席で4安打 1本塁打)。'86年に2軍で7連勝した投方の足立も、チーム投手王国時のため初出場は(脱番後の)'89年。藤野の次着・垣内も'91年2軍本塁打王(=当時新記録の25本)&打点王ながら1軍では15打席(1本)~脱'92年も8打席。ただ'91年、松井が終盤代打役で台頭しトータル18試合22打席(守備3出場)で5安打2本をマーク、チーム最多本塁打が江藤智の「11本」だった貧打線の起爆剤的存在として優勝にも貢献し、日本シリーズでも3代打(0安打ながら1出塁1打点)~翌年は13代打1安打止まり。また'91年、高卒2年目・新庄が17打席(2安打)デビュー〜翌'92年一気にレギュラー格(当初三塁or遊撃→中堅)で11本.278を放ち、過去5年で最下位4度にブービー1度の大低迷期より抜け出したチームが、トップに立っていたさなかの9月中旬試合では0-0の8回2死満塁から浅いセンターフライをダイビングキャッチ〜9回サヨナラ本塁打、の「新庄劇場」第1号も飛び出し、「63」イメージを完全に塗り替えた。パでも同年、 高卒2年目・村松が'78年から(引き続き'97年まで)連続Bクラス低迷中のチームに一条の光をもたらす(39試合80打席で)13安打、2三塁打デビューと“イキのいい若手”輩出番で定着していく。
 そして今度は投手から、やはりチーム低迷期に台頭〜徐々に出番を得ていった戸叶[とかの]が'97年10勝(うち救援3勝)→'98年7勝(オール先発)、で'98年はチーム38年ぶり優勝と同調躍進し、日本シリーズでも1登板(2イニング)。続いてこちらも低迷中のチームより小野晋が'99年7先発3勝→'00年、日曜日毎に先発を重ね「サンデー晋吾」の愛称も貰って13勝(2敗で最高勝率)、はパ2位&防御率も2位、オールスターでは先発(・・・もチームは浮上ならず)。この間では'99年途中入団のポールが59試合で12本.257(ちなみにチーム最多本塁打は「15本」×2人・・・うち1人は「63」OBの垣内)→翌'00年は(外国人選手枠にも阻まれたが)47試合で4本.242 、ながら2軍で3冠王~'01年も3冠王・・・が1軍出場は0。'00年には平下が初出場~一挙半レギ (.255 1本 8盗塁) 、一時は一番に定着とブレイク。から投に移って'02年、高卒2年目・坂元が準先発3勝~'04年グーリンも準先発で8勝(・・・'05年0登板)、'03年佐藤は準中継ぎ3勝(~日本シリーズでも1登板)と続々戦力台頭。
 ただ、ここまで輩出された“スター候補”達が脱番後は揃って不調。 新庄、小野は脱番年は好調キープ(主力ではないが佐藤も現状維持)も、その翌年以降徐々に衰勢。雌伏時を経て主力の座を射止めた石戸、益田、垣内、村松も好調期2~3年。唯一トントン昇り拍子だった高木(脱2年間.320台&20本以上)も脱3年目~下降線。と、輝き進捗ならず・・・も、そこから持ち場移しての加藤 、戸叶が(中継ぎで)再頭角を現し、スランプ経て村松、小野も主力で再躍進。主力で出続けていたものの脱3年目より.220~.230台(本塁打は15前後)に終始した新庄も、'00年.278 28本(~3年間渡米{※3})~'04年.298 24本と進境示し、登場像とはうらはらに継続を力に変える“強か”タイプであることを事後証明した。そして'06年公式戦での選手引退試合にて起源である「63」のユニホーム姿を再現して謝意[シャイ]を顕すと、当'06年初1軍定着した新庄同様強肩、俊足、強打&赤リストバンド着用の牧田が'07年は半レギ弱(.265 1本)にと発足以後6~6~4位の新興球団の希望の星(の1人)に名乗りを挙げる。同'07年は堂上[どのうえ]も控え台頭(82打席で.286 2本)~日本シリーズでも2打席(0安打)経験。
 また投方で足立~一時押尾~三野[みの]~千葉、谷~会田[あいだ]('06年)~仁部と継いできた(大半は水面下でだが・・・1軍最多登板は千葉のトータル9=別番時除く=)横手投げイメージが、'07年高卒1年目の増渕がいきなり開幕ローテに入る形で急浮上。結局序盤で撃沈されたが、終盤再浮上して初勝利(=先発)をマーク。そして(前年まで横手→入番の'06年下手改造の平本~)'07年下手改造した会田も前半中継ぎで3勝{※4}と新派半結実(ただし増渕はオフ改番)。さらに'04年グーリン~'05年ミアディッチ(=救援15登板・・・防御率は7点台)でプチ結実し、谷口~千葉~藤原、大田原が隠密裏[おんみつり]につないだ190cm台投手リレーも、“抜きん出た”存在感を武器に一転突出を企て中。より強印象を残すため、'07年には40年前の“振り返し”も兼ねて当時最小兵投手の仁部(166cm・・・ちなみに現・最小兵の石川雅規は169cm)を迎えたが、仁部は1軍台頭果たせず、正攻法での実現成否を現役衆の双肩に掛けることになった。
 加えて水面下で、牧田(腰痛)同様に故障(肘痛)を持ち越してプロ入りした吉良[きら]が(3年目の)'06年~2軍で実戦帯同し、'05年秋肩手術の渡部[わたなべ]も('06年DH→)'07年捕手復帰。投では(片山文は肘痛で2軍計1登板に終わるも)腰痛&肩痛持ちの大田原が'07年台頭。高3夏に交通事故で左膝複雑骨折した藤原は3年目準帯同。また'06年序盤には青松が左脛骨折しながらしばらくプレーし、その後離脱するも終盤に1軍初昇格 (2打席1出塁)と“痛みに強い”キャラが出来つつある。さらに'08年着の山本斉も腰痛経験者、また増渕~'08年着の丸は闘争心を面[おもて]に出すタイプと分かり易い形での“へこたれない”イメージも擁立途上。そして、「63」の始祖・マケーブが落とした“俊足ショート”像の復刻を、(プチ再生させた柴田信~藤野~新庄より改めて)引き継いだ大城&梶谷[かじたに](=大城はチーム事情 + 右手首手術により他ポジションでの登場大だが)の疾走台頭で勢力図急変の可能性も。
【2008年開幕時点】

{※1}西沢「15」番だったこの2年、参謀の坪内道則は「51」→当年「36」(&2軍監督)へ移動。連番や「30」「40」、「30」「15」 (or「60」)の前例はあったがここまでの盟約ぶりは出色。
{※2}また藤田、岩本、稲尾は別球団で監督退任後来番。青田('72年)、森永('74年)、上田('74年)、土井('80年)、近藤('81年)、関口('82年)、関根('82年)、植村('84年)は脱番後に監督(稲尾も'84年再)就任と、(同番で失脚の杉下含め)よりコーチ時が照射された。
{※3}逆に小島、金森は他国プロ~入番(&古河は米育ち、片山文はブラジル出)。 松井、谷口、小島、片山文は脱番後海外・・・選手外では上本、小林も渡米~日本球界再参画。
{※4}これで初の親子勝利投手を記録。他に大場、野村、堂上も2世プロ&大田原は田中幸雄内野手の従弟、また鈴木の父・章介は元巨人コーチ、渡部の父も五輪出場投手。
【2008年開幕時点】