2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

45

【2008年開幕時点】

 

 '54年、当年デビューの山下が8月無安打無得点試合を含む12勝(14敗、250イニング)。同年7月に初昇格した大石もそこから190回[イニング]を投げ5勝16敗。山下は'55年17勝(15敗、290回台)でチーム勝ち頭よ といきなり順境発進。も、すぐに'58~'60年小松計35登板(6先発) 1勝、'60'61年久保計54登板(10先発)0勝='62年1を加えデビューから10連敗{※1}、'62'63年篠田計53登板(4先発)1勝・・・と敗戦処理中心(皆、投球回[イニング]数はおよそ登板数×2)の投手へ。がここから久保が'62年、新監督・別当薫から主軸大抜擢を受け、それに見事応え28勝(21敗、300回超)~翌'63年も19勝(12敗、250回台)で防御率パ1位 + 両年オールスターにも出場。また同時期セでも、柿本が'61年17登板3勝→)'62年20勝(17敗、300回超)~'63年21勝(13敗、260回)で防御率1位 + 両年オールスター出場。 と同調開眼{※2}して、'54年松橋~'55年玉木&万田~'56年林田~'57年芝野&太田文が控え、'57年坂本は遊撃で半レギ~'58年芝野遊撃準レギ、そして代打で'57年より定着('58~'62年はトータル準、半レギ)の花井、に'62年定着の太田枝と一時期“打”へ傾いていた「45」イメージを、再び投側へと振り切れさせた{※6}。
 加えて'63年は嵯峨も6勝(6敗)、本間も5勝(8敗)を挙げ、2軍では辻野が最多(11) 勝と備えもぬかりなく、’64年、久保10勝(18敗)、柿本15勝(19敗)に替わって嵯峨が20勝超(21勝9敗)をマークする好カバーぶり(3者とも200回超)。ところが'65年は柿本9、久保3、嵯峨2勝(各7、16、8敗)と揃って後退し、'66年嵯峨が17勝(9敗、200回超)と持ち直すも両巨頭は久保が1、柿本は0勝でともに移籍脱番。'67年、新旗頭就任の嵯峨も5勝(8敗)~移籍脱番(ちなみに本間は'64’65年各1勝、辻野は'65年2勝のみ)で一挙に高名が衰えた。
 とって替わった顔ぶれも、緒方(相沢)が’68年より計103登板(先発1)で1勝=イニングは登板の約1.5倍=と久保のブレイク前のみを継承し、水谷は「45」で9登板0勝→脱番後に108勝、と“ブレイク後”の成果[マージン]を「45」に納められず。わずかに'70年、弟・幸三から「45」を継い
だ川藤[かわとう]竜が2年ぶり勝ち星、の話題[トピック]を挙げたのが“グッドニュース”として目立つぐらい。逆にこの辺りになると、'67~'71年と定着の得津が花井から“切り札代打”イメージを継ぎ、'70'71年股部が三塁兼外野で準レギ(計10本塁打、29盗塁)~'72'73年クォルスは主に二塁で準レギ(計15本)。 また捕手・柴田が'74年控え出場、宇野も'75~'77年と控え。に'76'78'79年守備走塁で岡が定着、と打方がにぎわい返し始める。
 が、投方もギリギリ余熱の残っていた'73年~小川邦{※7}が中継ぎ定着、計26勝5S('74年は12勝)。'74年~奥江も協賛し、計28勝10S。'76年は先発で奮闘し9(に救援2を加え11)勝、200回超。に替わって同年鈴木康が中継ぎ台頭~'78年角も同定着。から準先発要員・小山が'84~'87年各5勝前後('85年は規定投球回到達)。そして'85年、ゲイルが久々のエース格として13勝 + 日本シリーズ2勝、シリーズでは胴上げ投手と再盛・・・も'86年5勝(10敗)、で退行。
 その直前、打方も助っ人・テリーが'81~'83年中軸で計85本、280打点('83年38本)。'82'83年は優勝決定試合でともに満塁本塁打('82年はプレーオフ=当時パは前・後期制)~さらにシリーズでも'82年第6戦で中押しソロ本塁打、'83年第7戦で逆転3点タイムリー二塁打を放ち、ともに当試合での日本一決定を後押し。 かたわらでは、'81~'83と'85年大久保弘、'83(~'84年は一塁守備要員~)'86'87年米村が代打役を務め、'85年パターソンは16本止まりも、'87年ランスが39本で本塁打王(・・・ながら打率.218、安打は88、三振トップの114)~'88年19本。さらに'90年、昨'89年本塁打王のパリッシュが入番、28本(打率は.249)。また昨'89年パリッシュとキングを争ったフィルダーが、米球界にて「45」を着け'90年、大リーグ史上11人(=15度)目で13年ぶりの50本以上、となる51本&132打点で2冠~翌年も44本&133打点で2冠~次年も打点王(ちなみに来日まではシーズン最多が'87年14本という選手だった)。これで“強打者番”イメージが浸透し、加藤誉、及川、大久保博、堀、佐藤和、安田、佐野、山田潤、松久保・・・と未来の中軸(&小川達、駒崎、中谷の即戦力代打)候補衆を呼び込んだ。
一方、守備走塁要員で'83年~栗岡、'84年~山田勉(カープでは出番少)、 '88'89年村岡と定着(&テリーも猛肩と積極走塁でイメージ参画)。から、横田が'85'86年とレギュラーで打率各3割(新人と2年目での連続到達は長島茂雄以来) + 両年ベストナイン、の結実像現出。また横田は2年で41犠打を決め、'85年~遊撃で半→準レギを確保した岡崎もレギュラー格定着の'87年、31犠打マークと“つなぎ像”も形成(犠打は少数ながら山田も'87年半レギ格)。ただ中軸候補達は、堀が'89'90年と二塁控えで計7本(→脱番初年に四番で20本)、佐藤が'90年一塁控え→'91'92年代打で計3本。他に代打で'87年大久保(他年も含め計6本→脱番初年15本)、'92年安田が定着('88~'90年大久保、'90'91年駒崎、'91年安田も微定着)→安田は'94年捕手控え(3年で5本)。で頼みの助っ人もトレンティーノ1本、キャリオン2年で22本。(3年間控え、から)'94'95年と準レギを獲り、'90年代日本人で唯一ポジション着座した定詰[じょうづめ]は、打率おおむね1割台、本塁打は2~3本。で、打イメージは急速にしぼんでいった。
 そのスキを突き、'91年森田~'97年岡本の両ルーキーが抑え役奮闘。森田は初登板勝利(開幕戦)&初打席本塁打(4試合目)で好運に乗り、最終的に10勝17S + 13打席で2本→'92年は中継ぎ着任、2年計180回(先発7度分含む)→'93年プチ抑え(2勝3S)・・・以後は不調。岡本は翌'98年と併せ4勝40S(92 2/3回)・・・肩痛で2年低迷。この両像をイメージ突破口に、'92年回帰着の角、'97年高橋英、'97途中~'04年山本樹(シリーズ'97'01年計6登板無失点)、'02年佐々木貴、に復活・岡本が'01~'03年(シリーズ'03年5登板無失点)と中継ぎ役(半定着レベルで'94年高橋、'96年嶋田[しまた]、'00年鈴木平にウルソー、'01'03年佐々木、'05年山本、'06年坂元、に抑え役の'01年シュールストロムも助勢)、でその孔[あな]を拡げた。
 劣勢に転じてしまった打は、'95年後半のわずか18試合出場ながら「内野安打男」として一時彗星のごとく定位置確保、の高村[こうむら]をイメージヒントに守走も備えた一、二番タイプへと鞍替え。控えで'02年に福本(市原、古屋も微)定着、'04'05年に黒田('03'06年にも微)定着で一定スペースを築き、あとはレギュラー期待の松本高('05年~控え)、水田('05年~微定着)、森岡('06年微定着)、今浪(1軍未出場)を台頭待ちする陣形を作り上げた。
 これを受け投も山本、岡本の衰勢と替わる形で、'05年ルーキー・光原が先発7勝をマーク。'90年以降、森田が'92年6先発2勝、高橋'93年13先発 1勝、山本'96'97年計28先発5 勝(2完封)、背尾'96年7先発1勝(=完封)、ノット'00年5先発1勝、佐々木'01年7先発0勝・・・と一進一退続きだった「45」先発像に心棒を通した。が、光原は肩痛で以後低迷。 オクスプリングも15先発で4勝 (平均で1登板約5イニング)と助太刀なく。また中継ぎ方も実績者・川井にルーキー・松本幸を強化していて、その川井が'06年先発2度で1勝を挙げたのに加え、役割未決の吉原がどう転ぶかによっても、目鼻が変わってくるだろう。
 さらに打も、五島[ごしま]が('00年控え→'01年代打→)'02年一塁兼DHの半レギで7本(→'03年代打微定着)、平下も'02年外野半レギ(→'03年代打微定着=23席ながら3本.316)、に辻が'02年捕手控え(→'04年微定着=27打席ながら.417)→'06年代打('04年立川、'07年小田嶋も微)定着と強打イメージ復刻転回中で、'07年には新中軸候補・李杜軒[リ・トゥーシェン]も追加入した。また捕手も(復番・定詰は'99年6試合のみも)強打の辻が第3捕手準定着~'07年、新レギュラー候補・清水を獲得。 と、「45」次代旗頭がどこからでも飛び出せる状況が整っている。
【2008年開幕時点】

{※1}'07年松崎伸吾に抜かれるまでパ記録・・・のち小川邦はデビュー10連勝でイメージ融和。
{※2}また久保はややサイド気味で、落ちるシュートが武器、柿本はサイド{※3}からのシュートが武器。ただ、脱'67年に54登板(1先発)0勝と再び敗戦処理要員を務めたお人好しタイプの久保と、通算1402  1/3回で暴投0の好制球ながら'62年与死球王、'65年には乱闘となりながらその試合完投勝利{※5}と超強気で鳴らした柿本、の性格面は対照的。
{※3}以降変則系脈は種部~小川邦~山本和~角('92年時)~背尾~鈴木平~寺村~松本幸。
{※4}のち'76年奥江が継承。 また'96年嶋田は3連続危険投球で乱闘現出も柿本同様不退場。
{※5}また'63年には撹乱を狙って1球毎に打席を変えたが右→左→右→左→右→左で三振。
{※6}さらに打を減衰させたのが嵯峨'64~'65年90打席無安打の新記録(外野飛球も2のみ)。
{※7}退番後渡米~独立リーグ、マイナーリーグで計3年~帰日しカープで3年~ののちメキシコでも投げ、その後韓国&日本でコーチ。巨人後輩の門[もん]奈は退番~オランダ、クロアチアで計6年~日本のアマを経て、ホークスの打撃投手兼通訳で当機構[NPB]復帰。他に小山が韓国、寺村が台湾へ入り、立川は台湾でコーチ~帰日後格闘家に転身。
【2008年開幕時点】