【2008年開幕時点】
初めて1軍戦力としてイメージ帯同したのは'54年{※1}北原。27登板中21 先発 (91イニング)で4勝(3敗、&日本シリーズ2回[イニング]4奪三振)を挙げ、翌'55年22登板(1先発)38回 1勝の福島ともども次代主力候補として先行投資的起用された。そして’56年、福島が期待に応え13勝&防御率1.62(以降0勝)。野手からも'55'56年{※2}と川本浩司が一塁('55年はたまに捕手)半レギ。'56~'58年と中村敏は主に三塁で準、半レギ('58年9本)。'59'60年伊藤光、'60年川上、'64年~長南[ちょうなん]は主に代打、'65年坂巻は守備固め要員。また横山光、佐々木、竹下、伊藤が脱番後レギュラー、南、友川、小林英も半レギ格と「出世番」印象も焚いた(ちなみに北原は計3勝)。
すっかり潮の退[ひ]いた投は'63年、高橋が200回超を投げ 14勝(無四球完投5はリーグトップ)&シリーズでも2完投勝利を挙げ胴上げ投手、最優秀投手にも選ばれイメージ回復。'64年も12勝(無四球完投5で連続リーグトップ)、以降は4~3勝と衰勢も、('64年2軍で最多勝の) 迫田が'65年規定投球回に達し6勝と総体で高潮[こうちょう]キープ。加えて6月にはプロ2年目の古沢が17才にして初勝利を完封で飾る快挙(同年この1勝のみも31登板67回・・・先発は2)。が、オフに新鋭2人が改番~翌オフ高橋も改番、で一挙に減退。新イメージ波頭[はとう]も'68~'71年計106登板(218回・・・先発14)で2勝11敗の後藤清のみで、'70年に後藤が1勝を挙げたあと、次なる勝利は'77年三枝(1勝)まで挙がらず・・・と「投手番」ムード底割れ。
そして投像沈滞中、千原が'67年一塁兼外野の準レギ格(7本)→'68年“三番一塁”で定着して14本&リーグトップの7犠飛とシブく活躍、4月には10試合連続で打点マークし、「43」選手初のオールスター出場も果たした・・・'69年は半レギ(4本)、以降代打役。加えて'67年に菊川も内野控え(半レギ弱.275)台頭→移籍脱番も、'71年深沢修が移籍により活き出を獲て半レギ(.279 13盗塁)進境→'72'73年は守備走塁要員。また、'71年にドラフト1位入団(分離開催{※3}時)~5年目の西村、同2位ルーキー・大北、'73年には同2位(分離時)~7年目の忍、に'67年準レギ捕手だった木村、と高潜在能力者{※4}を集めるが、'71年西村が三塁控え(も.168 1本→'72年2軍本塁打)、'78年大北34打席(.231 1本←'76年2軍首位打者)、に留まった。
そんな中、'72年~代打で基盤を築いた土肥が'75'76年と捕手兼DHで半レギ強('75年8本)。その後再び代打オンリーへ戻るも、'79'80に'83年と半、'81年は捕手準レギ格の出番を得た('80'81年各7本)。そして'82年には岩木が捕手準レギ格で続き、'81年高浦、'85年山本幸が控え役、から'90年山中が半レギ格・・・も翌年控えでオフ移籍。すると'92年以降捕手陣は出場0('91年まで、柴原、岩切は10試合強)・・・と惜しいところまでいきながら「捕手番」確立ならず。
一方で'77年新[しん]屋、'80年鈴木康が守備走塁半定着、'80~'82年と蓬萊[ほうらい]同定着 ('82年は半レギ)、そして'81年代走→'82年二塁レギュラーで47盗塁(.274 12本)、&「43」選手2度目のオールスター出場を果たした大石、の急台頭像が、'84年~村岡、'87年坂口、'91年藤野(=は半定着)の守備走塁フォローを得たが、やはり'92年以凪状態。
また'78年55打席で3本を放った宇野、の強打像を、同じく半定着レベルの'81'83年平田恒、'87年片平(32打席で10打点)、'88年榊原が注[つ]いで、'89年伊藤寿は半レギ弱で4本、'90年ヤングは半レギ11本、'91年宮内も控えで5本と続き、'92年よりブラウンが19~27~4本、'94年には平塚が半レギ弱で7本。に'94'95年松久保、'98年西俊、'00年大野が各1本とプチ孵化。巧打の御船も'97年1本でプチ助勢。・・・と一応の成果は上がったが、傑出するまでは至らず。
他方'80年代以降、主流となっていくのが投手像。 まず下地として、三枝が'78'79年計40登板で8勝(先発・救援4勝ずつ)、大屋も'78年20登板1勝、からオルセンが主に先発で'83'84年計6勝。そして'85年から阿井が中継ぎとして'87年まで定着('85'86年は100回超で、'86年は8勝 + 先発1勝)・・・も肩痛で出番減。'87年、高卒2年目の横田(ちなみに阿井も台頭年高卒3年目)が8先発5勝1完封。全(18登板)88回で防御率1.64・・・も肩痛で以後3年登板0。
この両像より、まず先に曳光[えいこう]を得たのは阿井方。'90'91'94年内山、'95~'99年鈴木平、'96'97年遠藤、'96年白武、'98~'00年ウォーレン&横山道、'99年山田勉、'02'03年水尾、'02年ベルトラン、'02'06年徳元、'03'06年真田、'05年ホルツ、'05年~菊地原が救援で(’95年高山、'96年林純、'97年横山、'98年遠藤、'99'00年宮出、'01年小笠原、'03年徳元、'07年真田も半)定着し、横田も復帰の'91年、主に救援で60回強(先発も4度、うち1勝)を投げた。またこのうち'96年鈴木、'99'00年ウォーレンは抑え役で奮闘~ともにオールスター出場1度。鈴木は日本シリーズでも、'95年は中継ぎ3登板、'96年4登板1勝3Sで胴上げ投手、と結実形を現出{※5}。
そして先発方は、'92年より再び沈滞した横田が'95年6勝(100回超)で復活~'96年4勝~'98年6勝(129回)、'98年はシリーズでも先発(序盤KO)。ただ復活以降全シーズン負け越し('97年は0勝6敗)とイメージ孵化がなかなか叶わず。のところへ、'98年ミンチーが236回を投げ15 勝(&無四球完投王)・・・'99年は2勝(9敗)に留まるも、'00~'03年と連続2桁勝利(計53勝、'01'02年200回超、'02年無四球完投王)で'98に'03年オールスター出場とイメージ孵化完了{※6}。他に、各々10先発で'00年ブロウズ5勝、'04年ウォーカー2勝を挙げ、少出番の中で'94'96年遠藤、'98'00年宮出が各年1勝。'02年には高卒1年目の真田が後半10先発5勝→'03年6先発1勝。また谷間準先発要員とでもいうべき位置付けで小笠原が'02年5勝→'04'06年にも各2勝、の遅い歩みながら徐々に存在浸透し、'07年20先発(約120回)6勝の準ブレイク。ただ、5月に4勝して月間MVPに選ばれるなど前半6勝も後半は0勝5敗、さらに日本シリーズ先発→1点リードの5回2死降板と、ブレイク速度はなだらか。また同年イメージ伴走者のガトームソンも22先発で5勝(143回)と助太刀ぶりもスロー。
そして同じようにスローペースで孵化しつつあるのが大砲像。 表層上は'03年31本→'04年16本のエチェバリア、'04年40本(&101打点 .328、オールスター出場) → '05年18本のラロッカ、'05'06年と控えで計21本のパスクチ、に大砲ではないが'05年34試合で3本のアルモンテ、'07年73試合で7本のアレックスと続く助っ人群が豪勢も、イメージ形成過程においての主軸は宮出。 '98~'00年の投時より、計17打数7安打(.412)、二塁打2に打点3と随所に発揮させた打撃上手才覚を、両膝手術を機に本格抜刀(登録では'03年からだが実際には'02年転向)。'03年、26才再昇格を果たすと半レギ弱で5本~'04年は控え2本~'05年準レギで8本.320~'06年レギュラー獲得し9本(.275)~'07年準レギで9本(.279)、と緩やかに成長してきた。
また、'90年代はほぼ眠りに就いていたスピード像は'00年、上[かみ]坂が控え台頭→'01年には主に二塁で準レギ(.253 6本 4三塁打 7盗塁)と、かつての大石を思わせる進境経過も、'02年出場半減、以降急沈静(計11安打)・・・の蓬萊パターン踏襲。イメージ助賛者も'01年原田と'03年松田が控え、に'04'05年宮﨑が微々出場したのみ。だったが'07年、打球より守での返球に“長距離砲”を感じさせる俊足巧打者・アレックスが途中入団以降レギュラーで打率.300と旗織り役を担うと、今後の旗振り役が期待されるルーキー・原が12試合に出場で復調の気配。来番前に10年かけてゆっくり伸びてきた{※7}'08年着の山田真と同様、原もスローペース孵化を予想させるタイプ{※8}だが、番号柄「出る杭は(軽番に)抜かれる」ことを思えば、現旗頭の宮出、小笠原、に菊地原(=も来番前から年月かけて持ち場確立・・・'06年、14年目でオールスター初出場)へ続くピッタリの次代候補かもしれない。
【2008年開幕時点】
{※1}これ以前に藤本英雄(巨人)が'50年、雨でヨレたため途中から「43」ユニホームで出場し9回同点本塁打・・・も10回打たれ負け投手、の番外イメージデビューを飾っている。
{※2}両年、福島も計55打数16安打(.291)、二塁打1 三塁打2 本塁打1の打点5マーク。
{※3}'66年と'05~'07年に採られた形式。'67年は1度目に社会人&秋の国体に出場しない高校生、2度目に大学生&国体出場の高校生を対象に開催。'05~'07年は1度目に高校生、2度目に高校生以外を対象に開催('08年は一括開催予定)。どちらも高校生の進路に配慮してのもの。また深沢も'66年の第2次2位~ルーキー入番。
{※4}投手で岡もドラフト1位~2年目入番。
{※5}また斉藤学~内山、からサイド投手像を高山とともに継ぎ付帯定番化~徳元も追随。
{※6}また187cm横田~203cmミンチー 、に190台の山沖、宮出、横山道、ニューマン、ベバリンで長身投手像も定着(西岡、鈴木平、山田勉、ウォーカー、アブレイユも187以上)。
{※7}逆に「43」でゆっくり伸びて脱番後に1軍準定着、一時定位置にも就いたのが山﨑。
{※8}に比べドラフト1位入番の真田、北、寺田(後者2名は分離開催時)が並ぶ投はスケール高・・・ただ星野、アブレイユは各々アマ、米マイナーでじっくり育った叩き上げ。
【2008年開幕時点】