2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

41

【2008年開幕時点】

 

 上の表からも分かる通り、渡辺久の登場以前は圧倒的に野手優性ナンバー。それまでの通年奮迅例は'52年山根、'57年後尾、'58'59年三平[みひら]、'68年柿本(前者2名は2桁勝利)ぐらいで、他に'51'53年山根、'67'69年柿本、'70年半田、'79年柴田が半~準定着で約10先発(&'55年辻中は先発ながら33登板90イニング超で4勝)したのが主なところ{※1}。そんな状況から、渡辺&前'83年入番の同じくドラフト(本命を抽選で逃した上での)準1位選手・斎藤、のコンビが事変を興し、'74年渡辺弘基~'77'78年江田~'82'83年小林誠~'88'89年木下~'90年青井・・・に半定着レベルも田中富と続く中継ぎリリーバー流れとも併せ、難局を切り拓いていく。
 その両雄デビューは揃って'84年。ともに約50イニングを投げ、先発1勝目もマーク。から'85年、ともに40登板強で150イニング台で先発・抑えにフル回転。斎藤は12勝(4完封) 8敗7Sで防御率セ3位、渡辺は8勝8敗11Sで防御率パ2位とブレイクした。渡辺は翌'86年もフル回転16勝(200イニング超)&連続防御率2位+日本シリーズでも5登板して先発&救援各1勝。一方斎藤は'86年より7~0~6勝(うち先発では1勝のみ)と伸び悩み、'87年には渡辺も5勝(8S)と急降下・・・するが'88年15勝で復活 + シリーズ2先発1勝~'89年も連続15勝(2度目200イニング超)。つられるように斎藤も'89年、再ブレイク。それも現界16年ぶり3連続完封を含む日本記録の11連続完投勝利、含め20勝(7完封)&防御率1点台。30登板=全て先発で245イニング、つまりは1登板平均8イニング以上という抜群の安定度。8月中旬の試合では9回1死まで無安打無得点の快投を披露した・・・が、これより安打~四球~安打~本塁打でサヨナラ負け、の一瞬奈落転落{※2}~その2ヶ月後、今度は渡辺が優勝争い最佳境試合で同点の8回、この日2本塁打のブライアントの打ち取り役(それまで14打数8三振0本塁打)としをて登場も、まさかの被“勝ち越し決勝本塁打”で(打者1人のみで)降板。森祇晶監督下の'86~'94年中でライオンズが唯一優勝できなかった当年集約的場面として記憶されることになる。斎藤は、シリーズ(初戦投げ負けるも)第5戦で完投勝利&2安打してイメージ挽回完了。もオフ改番・・・そして翌'90年連続20勝&防御率1位、ですぐに「11」になじんでしまった。しかもパで、3度目最多勝(&200イニング超に輝いた渡辺、と同じく18勝で最多勝&最優秀防御率(ちなみに渡辺は2位)&最高勝率(同3位)&最多奪三振(同2位=ながら差は100以上)&MVPとタイトルを総ナメにした野茂英雄が登場し、「41」の打ち立てたメンツが一気に「11」に移った感が醸成。そのショックを引きずったように渡辺は'91年以降2桁勝利(にオールスター出場も)1度のみと勢い大幅減。それでもシリーズでは'90'91年と完封各1度を挙げ、('86年第6戦~)'93年第3戦まで6連勝の記録も作った。また'86~'94年の森監督下で106勝、はチーム最多勝でもあり、と“「41」=投手番”イメージの地歩は着々固まっていく。
 そして斎藤と入れ替わりの金沢が'90年中継ぎ・抑え役、'92年~中継ぎ役で定着('92'93年とシリーズ計7登板)。続いて'91年、入来が8先発で4勝2完封と頭角を現し、'92'93年先発各4勝・・・で'94'95年は中継ぎ役。'94年8先発4勝(に救援2勝)頭角の高橋功は、'95年7勝 + シリーズ1 先発(序盤KO)のあと0~2~4勝、でやはり'99'00年中継ぎ移動。'94年16先発(3勝)の加藤将もその後微出場。という中で、川尻が'95~'97年計先発21勝(うち'96年10勝) + 救援5勝(同3勝)をマーク・・・するが改番。'02年11勝(200イニング超)した朝倉も('03年1勝~)改番。'03年13勝 + シリーズ2先発(2敗)の伊良部は('04年0勝~)選手引退。で、残ったのは'98'01'04年倉野、'99'00年木村龍('00年シリーズ3登板)、'02'03年小林宏、'03年デニー(一時抑え)、'06年木田優夫(一時抑え)に青山、'07年高井の中継ぎ奮迅組(半定着の'93年加藤将に渡辺伸、'01年木村、'03'04年加藤竜、'04年デニー、'05年川岸も助勢)。が、ここから小林が'03年途中より先発転向、計52勝 + '05年シリーズ1勝、倉野も'04年9先発7勝、に青山が'07年12先発3勝、加えて'07年、先発で木佐貫12、上[うえ]園8、浅尾3勝を挙げ、現在先発色回復中。
 対する野手は'90年代以降、俊足巧打の宮里が'90年外野で準レギ格、のあと同系&パワーも装備の稲葉が'95年6月初打席本塁打~以降レギュラー定着、'96年打率3割~'97年21本塁打(シリーズ20打数10安打)と順調成長・・・するがこの後3年間準、半レギ停滞(計18本)。を経て'01年三番着座、3割 25本 90打点で優勝寄与(~3年間.270前後10本台)~'06年、五番に就いて3割26本(.357 2本でシリーズMVP)。'07年は三番で首位打者(.334) 17本で連覇を牽引(シリーズは1安打.059) + 両年ゴールデングラブも受賞。の他、'95~'97年半、準レギの鳥越{※3}、から'02~'04年レギュラー格の阿部の堅守遊撃手に、'98年半レギ(13本)→'99'00年レギュラー(各13、18本)の吉岡、'02年準レギ(5本)の塩谷、'05年準レギ(9本)→'06年控え(6本)のスペンサー、のスラッガー流れ。そして俊足巧打外野の控えで木村拓が'96年半定着~'97'98年(たまに二塁も兼務で)定着、後代・森笠も同系控え→'03年以降準、半レギ。から'08年、同系逸材新人の小瀬[おぜ]が入番、で野手像生き残りへ向け、強力な支柱を得た。
 ただ冒頭で記した通り、渡辺&斎藤以前「41」は野手番号で、その最実績者が谷[や]沢。すでに過去4年、前番「14」で連続.290台マークのバリバリ主軸打者→「41」着の'76年、.355で首位打者獲得~翌年も3割。 が、'78年中盤よりアキレス腱のケガで1年半の長期離脱。から復活の'80年、.369で首位打者カムバック。すると'82年、四番で優勝牽引(シリーズ.364 1本)。また本塁打がそれまでの15前後→復活後25前後へ増産、'81年には4打数連続本塁打を記録し、'84年37才で自己最多の34&99打点と一般的野球選手が下り坂に入る頃から逆に進化していく様はのちの稲葉('07年時35才)にも通づる特性。加えて'74~'77年守岡、'81'82年清水、'82年~杉村の代打陣、'78'79年渡辺純、'81'82年立石の控え守備職人、に'78年三塁レギュラー格の角(シリーズ1本)、'78~'80年二塁兼一塁でレギュラーのアーノルド(計43本&'79'80年シリーズ出場・・・も計3安打.115) 、'75年遊撃半レギの鶴崎、'79年遊撃半レギ→以降内野控えの杉村、さらに'80'81年大石~'85年山中が半レギ&他年時山中に'77年杉山が控えの捕手陣{※4}、とフォロワー勢も多士済々。
 さらに遡れば'54年捕手控えの小辻、'54年~内野控え('56年は半レギ13盗塁)の野々村、 '56年15本(セ3位) &99三振 (セ最多) マークの緋[ひ]本。をイメージ枕に、野手旗印の始祖・鎌田が'59年~二塁レギュラー(途中'64'65年と復帰の'70年以降は控え)、'61~'63年二番定着。守ではジャンピングスロー、打では(高めクソボールを振り下ろして打つ)大根切りがトレードマーク・・・打の方は最高で、.265(本塁打も4)とトータルでは目立たなかったが、守備に関しては文句なしの名手。'63年米国キャンプで仕込んで3年寝かせたバックトス{※5}も(隠し芸的に)度々披露。ただどちらかといえば選手引退後に評価が上がったタイプで、別番時も含め16年間でオールスター出場は0。そしてこの間'60年に鎌田と同系の二塁名手&パワーも装備の高木守が5月初打席本塁打~以降控え定着→'61'62年準レギ(→脱'63年レギュラー着座)。他に木村勝が'63年二塁半レギ→以降内野控え、永井も'63年~主に二塁で控え。そしてドラゴンズで高木の前レギュラー二塁手だった井上が、移籍「41」着の'63年~外野で準レギ(計28本&'62年18盗塁)、で領地拡散。 ’64年白[はく]は捕手(→'65年外野も少々→'66年外野1本)で準レギ獲得(計24本&'66年18盗塁)。加え'63年白野、'64~'68年高岡、'65年町田、'66年池沢、'67年是久[これひさ]、'66'67年中島 ('66年シリーズ1本)に飯田、'67'68年山田正の代打陣に守備走塁・当銀がイメージ介添えし'70年、ポインターが主軸で22本(チーム2位 。.260 67打点 16盗塁は1位) →'71'72年は半レギ(計18本)と哀勢も、やがて長期主軸・谷沢へとつながっていく。
 そしてポインターの直前、久々のレギュラー投手奮闘&以降ジワジワ中継ぎ系脈立ち上りの狼煙となった柿本は、小林誠~斎療~金沢~川尻~部[へ]坂~デニー~川岸〜小山田保と連なる横手[サイド]像の源流でもある(元をたどれば山根も下手[アンダー])。柿本、小林、斎藤、デニーは横手改造で躍進(金沢も頭打ち・・・横手で再躍進)の共通項もあり、川尻も25才で改造→翌年プロ入団、と「41」投手の1キャラに定着。ただ近年、渡辺&斎藤でイメージ投下した快速球像が鳥谷部、朝倉、前田、デニー、伊良部、松村、岸本、木田、高井、木佐賀、浅尾、岩嵜[いわさき]と盛況(しかも岩嵜は横手→上手でプロ入団)。野手同様、こちらも生き残り正念場だ。
【2008年開幕時点】

{※1}'64年七[なな]森は4登板(2勝)も、オフ金田正一のフリーエージェント移籍の見返り指名受け要注目された。
{※2}また木村龍も高校時、甲子園で9回1死まで完全試合~安打~犠打~本塁打で敗退。
{※3}'96年77試合で12失策→'97年124試合で1失策に・・・当時のコーチ役は「41」OBの立石。
{※4}その後'89年宮里と'91年小牧 (37打席だが.355 1本)外野兼、'96年吉本は一塁兼で微出場。
{※5}平泳ぎの要領で外かきで右(利き手)方向へ投げる送球術・・・高木も脱番後得意とした。
【2008年開幕時点】