2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

40

【2008年開幕時点】

 

 まさに孵化寸前。卵殻を思わす背番号。「39」までは基本1軍、「40」からは2軍、というイメージを顕すように、「40」脱初年にレギュラー(“準”含む)となったのが宇野、宮寺、久保、高橋慶、笘篠、塩谷、斉藤秀。初打率3割記録が宇野、並木、福本(=は加えて106盗塁&初得点王)、大島、高橋慶(=脱2年目には33試合連続安打&初盗塁王)、さらに塩谷、石井も脱2年目に(初規定打席到達で)初3割。投手では脱初年に初規定投球回到達したのが高橋重、小林、赤堀、金田。で小林以外の3投手は初2桁勝利(赤堀はさらに最優秀救援&最優秀防御率)、小林も8勝&防御率3位。加えて大羽、鈴木、富岡が初1軍定着{※1}。脱2年目では松田が23勝3敗で最高勝率&最優秀防御率、これは2軍出身選手初成功例でもあり、いかにも「40」の立ち位置を汲んだ事象といえる。指導者も、「月に向かって打て!」の名助言で大杉勝男を前年8→'67年27本塁打と“殻を破らせた”飯島、に同年は青田も愛弟子・長池徳二を前年7→27本にと導いた。そして分かり易い孵化例として、「40」 脱初年に監督就任したのが井野川(='49年時)、岩本堯、田宮(=は在番途中に代理監督~正式就任で脱番。また飯島は脱番初年に代理監督着任)。反対に監督退任初年時コーチで「40」着の井野川(='55年時)、保井、西村、岩本義の存在も、逆説的にイメージを促進させた。
 その初参与者・井野川は選手としても初陣で'47'48年計4試合出場。'49年着・松田は出場0~翌年2軍でブレイク、秋1軍初勝利。この時の2軍監督でもある宇野が、脱'51年から1軍正三塁手。とすでにこの時点で“卵殻番”の感萌芽。“プレーヤー番”で初注目されたのは'54年。前年夏の甲子園大会優勝投手・空谷[そらたに]が入番し7勝4敗、で「18」へ。同じ高卒1年目の吉岡も2勝~「22」へ。逆に同年、バックネット命中の大暴投1球のみの出場に終わった白崎は、その後も「40」に籠って殻を破れず・・・にいたが、'58年ようやく7勝で半孵化。
 少し戻って'55年、ハワイより来日の“エンディー”宮本敏が半レギ~'56年以降主に三、五番でレギュラー格。'56'57年は連続打点王で本塁打20前後、打率も各.263、.259ながらセの8、9位&'57年三振王('58年以降は準レギ)。またオールスターでMVP2度。'61年は日本シリーズ初戦ベンチスタート、も最終戦では四番起用(三番は長島茂雄で五番は王貞治 =ただし王はまだ本塁打王獲得前)される当たりで.409、7打点を残しMVP。その勝負強さと屈託のない「百万ドルの笑顔」で「40」 イメージに大増進をもたらした。この間'57~'59年と並木準レギ五、六番(=も、.250 .250 .190)、'63年朝井が三塁準レギ台頭(=.223) して、'59年~法元[ほうもと]代打帯同=その中で'60~'65年は半レギ格となり年40安打前後。また守備要員で福田、斎藤幸('65年)が定着し、守備の要・捕手でテスタ、久保が控え入りと徐々に浸透増。投手では大羽が'59年5登板1勝~'60年28登板0勝。'60年には舛井が21登板3勝~'61年29登板4勝。
 ときて'69年初出場時代走で盗塁失敗、の福本が'70年75~'71年67盗塁で各2位32~36をぶっちぎっての連続キング。 また控えで篠原、代打のセルフ、 桑野('71年)も定着。すると'71年2軍本塁打王&打点王の大島康が同年1軍昇格7本~'72年レギュラーで14本~'73年中軸準定着し13本。'71(=別番)'72年2軍盗塁王の平林はその'72年~守備走塁定着、'74年は控えで26盗塁。'76年2軍盗塁王の高橋慶も'77年控え14盗塁。'77年2軍首位打者・寺田は同年(7年目で)1軍初出場~'79年代打帯同。と続々「40」で(自身1次目の)孵化現出。助っ人・テーラーも'74年一番で.278(セ14位)&オールスター出場し、着前年.222より進境。ラインバックも来日時27才で当初ベンチスタート、から三、五番定着して3割3度、毎年20本前後の“日本で大成した”努力型。その一方、大島は'75年まで平均.239で4.3打数につきに1三振の粗さがたたり準、半レギ停滞。投手・新浦[にうら]も'71年4勝~'72年5登板と足踏み・・・から脱'73年3勝ながら先発準帯同。次着・小林も'73年6登板~脱'74年44登板8勝。さらに大島'76年7代打本塁打(日本記録) +4本と再覚醒~脱'77年5年ぶり規定到達~のち本塁打王と本格開眼。次着・藤波は移籍指令を拒否した懲罰の形で(「3」→)「40」着、と“殻イメージ”再萌芽。藤波は出番こそ過去3年代打中心から準、半レギにと拡張したが、期待のドラフト1位選手
が最多で'80年347打席、'81年~再び代打で伸び悩む図はいかにも“逆孵化”像を描出させた。
 ただ福本台頭後、'74'75年 テーラー、'76'77年水谷、'78~'80年藤波、'82年アレンと一 、二番型(水谷のみ八番。でテーラー以外は準)レギュラーの流れができ、同系控えで平林、高橋慶('77年)、に代走職人・藤頼、中野も台頭。ながらレギュラー組はテーラーが'75年併殺打王、水谷は'76年(=犠打王)をピークに徐々に打席減、藤波も'81年~代打、'81年一番開幕スタメンのデードは7月退団、アレンも2年で125試合と“期待外れ”度が高く、そのため控え組の“試合終盤での切り札”像、とりわけ福本と同じ西本幸雄門下生の平林('74年)~藤瀬(=着前年の'78年~3年連続20盗塁&20得点以上)の状況突破疾走が“時短”故に逆に印象優勢化。解発されたように'80年救援42登板の“終盤の切り札”三浦が、'81年「0球セーブ{※2}」を記録。
 それを“受けて”今度は捕手・達川が'82年半レギ~'83年正捕手着座。以後選手引退する'92年まで、球団別防御率が'85年3位以外全て1 or 2位という強力投手陣の名女房として馳せ、'87'88年と同系・山下も台頭・・・が脱番。また'89年プロ2登板目で初先発初勝利~3日後完封~も以後1勝の鈴木、'91年抑え着座も10SPで骨折離脱した赤堀、とも脱初年救援フル奮迅。逆に「40」全うした福原は'84年準レギ格台頭~日本シリーズ第1戦先制本塁打、第5戦同点タイムリー、第6戦満塁勝ち越し本塁打と打率.192ながら“ビックリ箱”的活躍。翌年出場半減の137打席.214、も8本塁打と特色再現~'86年以降は守備走塁要員と巻き返せず、達川とのイメージ両輪は組めなかったが、同系で半レギに'88'89年音、'94年清水(=23盗塁)、に'90年福原、控えに'90'91年脇坂&佐藤和、'91年南牟礼(=は129打席で6本)、'91'92年佐藤洋、'93年大川と出、“群像”で一定領地は確保。 そして'96年、 益田、高木浩、脇坂が控え入り。から益田'97年一番定着&三塁打王(~が翌年控え戻り)、高木'97~'99年準レギ格(脇坂は出番僅か)。
 一方捕手も達川退去後は、山中と帰着時山下がサブ帯同、實[さね]松(ちなみに山下とは親戚)が'01'02年半レギ格、'03年~控え{※3}。前田'03'04年控えと“群像”勝負だったが、'05年、倉が準レギ開眼~その後も準、半レギに定着。その上で'06年小田サブ帯同〜入れ替わる形で'07年サブ実績者の村田善が来番。さらに前田が'07年序盤スタメン被抜擢と挽回しつつある。
 また“打で映える”タイプはウインがレギュラー、ハウエル半レギ(14本)も、切り札代打候補の帰着時益田も併せて期待外れ。鮎川、塩谷は控え定着止まり。 渡辺も'03年半レギで7本、以降は控えの“守備職人”然。'04年には森が34打席で2試合連続決勝弾、含む3本。'06年リーファーは158打席で13 (うち8月9)本~'07年150打席で8本、とブレイク寸前続き。
 さて投勢は'92年、“初登板15失点”というこれ以上なく破り易い、その実とてつもなく重たい“殻”を背負った品田が、そこから抜け出すべくトルネード投去に改造した'95年2勝~'96年(9先発で)4勝とプチ孵化{※4}。同'96年は金田も先発4(+救援2)勝、河野も中継ぎでタイトル獲得。先発組はこのあと'98年金田 (8先発)4勝、'04年マレン規定到達7勝+佐藤宏(4先発)2勝とアピール弱。対して救援組は河野'99年まで20登板以上、
'99年徳元&'00年高橋一30登板以上、'01年関口50登板強+山崎慎50登板弱・・・でイメージ浸透させていく。その中で徳元、高橋、続いて'04'05年桟[さじき]原(='04年は40超)&佐藤宏、'06'07年藤岡(='06年60超)と定着しサイド腕像も点火。またオーバーだが“顔を背ける”変則投法の岡島も'06年55登板{※5}~入れ替わる形で'07年、かつて顔を背けて投げていた吉崎{※6}を迎えたが、現在はオーソドックス投法で残像媒介での(=といえば両者同じ高校出の先輩・後輩)リレー、とこちらは今1つイメージを汲めず・・・。
 も、「40」には現在進行形で達川像をなぞる倉、福原像を継ぐ渡辺&そのあとを追う大原、に大島康を偲ばせる粗削り長打者・金子、ラインバック譲りのハッスルプレーヤー・桑原[くわはら]、脇坂型万能巧打者・西川、大塚晶則{※7}の線を思わせる宮本大、の各陣末裔[まつえい]具現者達が奮戦中。
【2008年開幕時点】

{※1}時差付きでは空谷、水谷、音、柳田[やなぎた]、高木浩、入来が本格(南牟礼、益田も再)孵化。
{※2}史上2人目。もちろん“0”とは投球数で、1死得るため「牽制球」は投じている。
{※3}「40」時平均.152&2.4打数につき1三振、で83安打中13が本塁打の“ビックリ箱”打者。
{※4}退団後(2年目)イタリア・セリアA1で10勝。 宮城も退団初年時韓国で8勝と孵化。
{※5}脱'07年、米大リーグのオールスターに被選出ともう一殻[ひとカラ]を破り新孵化パターン産出
{※6}岡島は球離れ時に下、だが吉崎は足を上げた時に後ろ、を向く。
{※7}'06年、米大リーグで「40」着。 開幕前のWBCでも「40」を着け胴上げ投手~シーズン32Sの剛腕抑え。・・・'07年後半離脱~手術(~被解雇)で現在“反孵化[リハビリ]”中。
【2008年開幕時点】