2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

44

【2008年開幕時点】

 

 ハンク・アーロン(=大リーグ通算の715号を放つのが'74年)、レジー・ジャクソン(=ワールドシリーズ3打席連続本塁打で“ミスターオクトーバー”の呼称が付くのが'77年)の影響色濃い大砲番。両者とも大注目されるようになるのは'70年代以降で、ジャクソンは「44」を着けるのが'77年。
 日本では’69年ジムタイルにより先行版が打ち上げられた。ただ大リーグで'61年46本塁打の大物ながら脚を痛め1度選手引退してからの来日で、65試合で102打席(守備出場20)という“打つだけ”助っ人。後世に残したエピソードも、5月8日第1打席で本塁打→一塁手前で左脚肉離れ→やむなく本塁打に代走の珍場面時、のみ。以降日本での実績者・ロバーツ(過去6年179本)~アルトマン(過去7年193本)が来番するも、ロバーツ2本、アルトマン12本と往時の力は発揮できず。だが直後の'76年、新外人・ブリーデンが40本~翌年も37本、打点と併せ2年連続チーム2冠王でイメージ発進。ただし打率はリーグの下から4番目(.261)~最下位(.236)で、次着・スタントンも横浜スタジアム初の場外弾を放つインパクトを残すも23本で.225。加えて三振136は当時新と“当たれば飛ぶ”の域を出ず。逆に翌'80年からは巧打者・クルーズが6年間3割4度、本塁打は最多で'84年29(平均20)本と趣向を替え、'81年オルトも準レギながら3割18本で巧打像フォロー。しかし、過去10年間(規定打席到達8度)で3割5度、本塁打は最多で31本(平均20本強)だった巧打者・門田が、(前年アキレス腱負傷で19試合、から)「44」着の'80年一挙に41本~'81年は44本で本塁打王、打率も.292~.313と意外なところでイメージ結実('82年は19本)。逆に、'81'82年各31本&連続三振王で打率下から2~3位の助っ人・ケージが像('82年は残像)フォローする形となる。
 だが'83年ブーマー、バースの来日、以降「44」は助っ人大砲番に再構築される。1年目、ブーマーは17本(.305)と苦しんだが、バースは35本(.288)~2年目も27本.326と好成績。そしてブーマーは2年目大爆発、.355 37本 130打点で3冠王&チームを優勝牽引すると、翌'85年、今度はバースが.350 54本 122打点で3冠王&優勝~日本シリーズでも.368 3本と打ってチーム初の日本一を現出。'86年も.389(シーズン新) 47本 109打点で連続3冠王。ブーマーも両年無冠ながら.350 42本 103打点~.327 34本 122打点を残し、'87年も1冠だが.331 40本 119打点、'88年には史上最長(当時)162m場外弾も放ち、'89年は2冠&40本。バースも'87年.320 37本(79打点)~'88年途中、長男看病のための帰国に端を発する契約トラブルでは退団・・・この去り方があまりに突然だったため、印象がより神格化。
 そして、前後するが'76年着・山本功が'83年まで代打中心の一塁兼外野補完役('82年13本)。から'84'85年と一塁レギュラー(各10本)、一時四番も務め・・・たのち、再び補完役。同期着の捕手補完役・金山は.200前後も'78年82打席6本塁打に表される“びっくり箱”型打力捕手。巨人で山本功の後を継いだ山本雅は代打要員、と日本人がフォローする形で落ち着いた。
 そして助っ人系譜には'86年~ブリューワ加入。故障全休の'88年を除く4年間で99本.307('87年は35本.303に98打点)という安定した数字を残し、'89年にはフィルダーが38本.302、&横浜スタジアムで2打席連続場外弾、東京ドームの最上部看板直撃弾など驚弾連発。続いて'92年ハウエルは38本(後半だけで30本).331でMVP&優勝牽引する「44」を再々現。'93年も中盤2ヶ月間でサヨナラ弾5(シーズン新)、を含む28本で優勝~日本一に寄与。その'93年にはブラッグスも72試合で19本 .345と猛威を振るい、(29試合連続安打続行中に骨折離脱→復帰の)'94年35本 .315・・・4年で計91本 .300 。のあと旗頭不在が続いたが、'03年ウッズが「44」となじみの深い横浜スタジアム場外弾で震撼を起こし、'07年まで5年間平均で“40本 100打点 ”超(打率.292)。 また当初2割台前半だった得点圏(=二塁or三塁に走者がいる場合の)打率が'06年3割台へ上昇し、満塁時は14打数7安打で4本、その4本目は優勝王手試合での12回表(1点勝ち越したあとの)勝利当確弾と久々に優勝牽引図も現出した。
 他に間々で'89年ロードン(22本)、'03年ショート(12本)が3割。低打率ながら'91年ラガ32本、'03年マクレーン26本。残り香レベルで'98年ロペス17本.294、'03年ベッツ15本.287、に'02年6月電撃入団したキューバの至宝・リナレスが1本。また'01年6月入団のギルバートは八番打者(6本)ながら、それまで固定できなかった遊撃でハマリ近鉄最後の優勝に貢献。
 その余波を受け、鈴木貴('87~'89年と連続20本以上 + '89年日本シリーズ1本)、岸川('89年26本&サヨナラ弾3=当時日本・現パ記録)、片岡('88年準レギ5本)、高橋智('92年29本.297→'93年11本・・・以降半レギ)、島田(“控えの四番”的位置付けで'92~'94年半レギ=最多で年8本)、関本健('02年半レギ5本→'03年控え4本 + シリーズで1本→'04年レギュラー格5本.316)、小池 ('05年20本→'06'07年計9本)、喜田 ('07年途中~半レギ弱)、及び孵化できずの神[こう]山、畠[はた]山(=脱番後に孵化)、石井、真栄喜[まえき]、山下、長見、森、高山も含めた和製大砲、に両山本像を継いだ代打の'87年片岡、'91年までの島田に二[ふた]村、御[み]船、青柳[あおやぎ]、'02年吉鶴、副[そえ]島、大道、'06年~高山、に金山像を汲む強打半レギ ('90年12本.301) 捕手の光山と集まった。ただ、門田がそうだったように鈴木、岸川、関本は変番、片岡も移籍で短期脱してレギュラー級で長期滞番したのは高橋と光山だけ。両者も結局移籍脱・・・で「登竜門」番の印象優勢。
 となると浮き彫りになるのは、'84年準レギ奪取→'85年二番に座って48盗塁(以降半レギ、'88年~守備走塁役)の加藤、'89年半レギ一番→'90'93年レギュラー{※1}で盗塁王('94年~控え)の緒方耕、控えながら20盗塁マーク年がある清水と福地、から'07年二番で16盗塁 + 8三塁打の早川と続く韋駄天系譜。この体現者に加え、山本功~上田~小池、にブーマー、ロードンは守備巧者(山本='84年、上田='97年、は3割マークで打撃巧者ぶりも発現)、また'86年高仁は守備走塁役で計半レギ(前年高仁、に'93年山野、'06年山田真も控え半定着)と小マメさアピール。そして'04年関本~'05'06年小地が“パワフル二番打者”{※2}という大砲との折衷像{※2}を立ち上げ(小池は両年犠打王)、堀[ほり]田一~藤原が同候補でイメージ従事する新系譜も発向。
 遡れば、「44」を初めて旗印に仕立てたのも俊足外野手('61年は二塁、'63'64年は一塁兼務)のラドラ。打っては.250弱(4~5本)で盗塁最多で14の“控えの一番”的準レギュラー。その前後で池田('56年)、石川、石谷('63年)、黒崎、唐崎、井上が守備走塁控え(県[あがた]='65年、才所='70'71年、待井='74年、松井優='77年、柿崎='78年、も半定着)で盛り立て、井上が'72年一塁以外の内野で計半レギ(17盗塁)、同じく万能内野・中村が'72年主に二塁で半レギ格→'73~'75年準レギへ。その間'74年にはプロ3年目の定岡が15試合(42打席)デビュー~脱番年より3年連続オールスター、の正遊撃手に成長していく。一方、この頃の“打で勝負”像は'70'71年大田、'71年小泉の代打定着、ぐらいで'74年中村の9本がこの時点での「44」シーズン記録。だったが、既述通り'75年アルトマンが2桁本、を皮切りに印象反転していく。
 ところで旗印成形前、初レギュラー級選手が出たのは'55年。 高卒1年目捕手の谷本が開幕スタメン~準レギ格で「44」 イメージ初見参となった・・・が翌年控え。から谷本が再び、に小川、辻、若菜が脱番後レギュラー級捕手(小川、辻は脱番年に準レギ奪取)。'71年には藤田が7打数3安打2本5打点、と金山~光山流れの先行[パイロット]版を打ち上げ、その金山に'77'78年松本芳、青柳、'05'06年鈴木郁が控え、近鉄時の光山に'97~'99年吉鶴が半レギ格(他年控え)。
 より先に、「44」の轍を付けたのは'54年1軍定着で3勝を挙げた安原、の投手方。翌'55年山本文が(7登板)2勝でつなぎ、'57年吹[ふき]田は100イニング超で2勝10敗と準主力参画··(・・・以降1勝)。から'59年幸田がフル参画7勝(4完封)・・・以降計3勝も、後着・及川が'65年9勝・・・復番後は3年各2勝、'64年大熊も(8登板)2勝。また'64~'67年と緒方勝が計95登板(先発1)0勝、'67'68年松本忍は計50登板(先発8) 4勝・・・'77~'80年宮本も主に救援で2勝3S。'78年池田はオールマイティー 32登板3勝2S。'79~'81年金田は谷間先発計11勝。から’84年レーシッチ~'88年黒原・・・・・・'99年入来は救援で半定着強。な中、'99年新人・水田が先発1勝を挙げると、'01年バワーズは3勝13敗ながらローテ帯同~'02年、8月ジョンソン 1勝~9月水田2連続完投含む3勝、水田は'03年も終盤台頭1勝~'04年は逆に4月に救援3勝・・・後沈静。が、'03'04年バルデス~'04年杉本~'06年松井光~'07年水田と救援定着{※4}。プラス松井は2先発で1勝、水田は6先発4勝。また'07年新人・山本一にも両資質ありとジワリ滲色中。
【2008年開幕時点】

{※1}'93年.234と苦戦→翌年控え役・・・も'94年初本塁打がシリーズの趨勢決める殊勲満塁弾。
{※2}元をたどれば岡本('50年13試合2安打)は、脱番後('53年)初の“強打二番”でブレイク。
{※3}'07年より、巨漢ながら短く持ったバットで右[ライト]へ流す大道、も“大型小ワザ師”像協賛。
{※4}さらに'06年より、米国にて斎藤隆が「44」着し抑え奮闘&'07年オールスター出場の追い風流入中。
【2008年開幕時点】