2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

50

【2008年開幕時点】

 

 試練はいきなりやってきた。'36年オフ、 「名古屋」の編成の長・河野安通志[あつし]が退団〜新球団・イーグルスのオーナーに就任。するとレギュラー級4選手があとを追い、監督・池田豊は審判転向。で、ガタガタになった新チームの指揮を執ることになったのが初代「50」の桝。
 選手としても三番・センターで奮迅するも、(8球団中)春7位〜秋は最下位と苦戦。とはいえ'36年の球界最大背番号が「30」だった所へ "驚天動地の「50」”を着て臨んだあたり、決意のほどは伝わってくる。 日本球界において、背番号[ゼッケン]に "アソビ”を煎れた元祖 {※1}でもある。
 10年後、浜崎の背で復活。この時も、'46年の最大値が「32」番だから結構 "欲張った”数字(浜崎は身長156cm、 体重50kgで当機構最小兵 )。またかつての桝は29才だったが今回の浜崎は46才。当然、指導者での (ノンプロ→)プロ参画{※2}で開幕時、役職は「助監督」 だった。が、 チーム不振によりシーズン途中 「総監督」 となり試合を指揮。さらに終盤、自らマウンドへ上がり先発勝利 (他3登板)40代登板&勝利の第1号 ( & 安打、打点、盗塁の最年長) 記録。 翌年も17登板3勝3敗、 打っても19打数6安打 (二塁打2) .316 マーク (・・・脱番後、'50年にも1勝&三塁打)。 指揮官としては'47年引き継ぎ時4→最終4〜'48年4位。
 続いて'49年、かつてのスター選手・水原が4年に渡るシベリア抑留から解放され、7月、7年ぶりに帰国〜入番。すでに40才、加えて長年の過酷生活の影響で往時の動きからはほど遠かったが、 本格復帰を目指し練習に励み、シーズン終了後の非公式戦で初出場。 と同時進行で、巨人内に数々のトラブルが持ち上がり (背番号「31」編参照)、その結果、翌'50年の監督に水原就任という急展開を迎える。
 そしてこの時、追い出される格好となったのが'49年時監督の三原。'50年は 「総監督」の肩書きも無権限、'51年に監督復帰の目もあったが水原残留。 により三原は "私は屈辱という感情が大嫌いだ” のタンカを切って九州へ渡る。
 そして図らずも「50」へとやって来るのだが、当番号を着けた'53年までは2~3~4位と雌伏期間。 かねてより理想とした「流線型打線(背番号「60」編 ※3参照)」 の実現へ向け'52年中西太、大下弘〜'53年豊田泰光を獲得と着々布石を打ち、「50」を脱した'54年初パ制覇を飾る(背番号「60」編へ続く)。 また同'54年はセ制覇監督も前年まで「50」にいた天知。と雌伏事例が続く。
 そんな「50」に初めて “至福”を届けたのは'60年西本。それも監督就任即優勝の快挙。・・・だったが圧倒的優位といわれた日本シリーズで4連敗ストレート負け。しかもその最中、采配をめぐって永田雅一オーナーと衝突した挙げ句の永田からの「バカヤロー!!」で退団。雌伏へと立ち返ることになる。
 そして1年の評論家生活を挟み、'62年「50」復帰〜'63年監督就任。率先型の”道場主”として全身全霊で選手を鼓舞、するが6〜2〜4〜5位と日の目見ず、'66年オフには選手に対し、監督信任・ 不信任を投票させ覚悟を問うた。結果、白票含め不信任11票(支持率75%弱)となり辞任を決意。だが小林米三オーナーに諭され翻意すると、'67年、優勝を果たして7年ぶりに宙を舞い、ネット裏の小林オーナーと金網越しに “指と指の握手”をかわす印象的シーンも生まれた。以来、'69年まで3年連続、1年おいて'71年も優勝とパを席巻する。ただ日本シリーズではことごとく敗退し、4度目挑戦も叶わなかった'71年オフ、“「50」では5連敗を暗示するようで不吉”と「65」 に旅立っていった。 その後、くしくも西本と同じ釜のメシを食った経験がある田宮、青田、 別当、 関口が 「50」 監督を継いだが、皆優勝不達成 {※3}。
 と、首脳陣は“やり残し”を抱えて次番へ移るイメージだったが、 選手(専任) の「50」は'53年、駐留米軍兵の臨時[パートタイム]契約選手・ カイリーが8月6登板6勝、打っても19打数10安打.526(〜除隊命令を受け帰国)。翌'54年、今度は17才の新人・山中が (26登板8先発)5勝0敗。とのっけから11連勝。“勝ち逃げ”の感はあるが、180cm&80g台のカイリー〜160cm & 60kg台の山中と振り幅[アソビ]も持たせたなかなかのイメージデビューぶり。
 そして初のレギュラー級が'57年、高卒2年目で遊撃準定着した叩き上げの阿南(〜翌年以降2年は控え)。 逆に'63年、エリート(慶応大)出の3年目・渡海[とかい]が「5」より来番〜控え定着。'66年、高校中退の雑草型18才・相川進が代打でプロ初打席本塁打〜'67'68年と代打半定着。'73年水谷は高卒5年目の途中移籍入番〜19登板 (2先発) 3勝してプロでの足がかりをつかんだ。また '78年〜代走&守備役定着の青木が'81年は一番準レギで34盗塁。'79年堀井も同役控え。
 と.「50」が一軍になじむかなじまないかの当落線上まできた'83年の開幕2戦目、190cm&90kg台の大型打者・駒田がプロ初打席満塁本塁打〜最終的に半レギで .286、12本と“当”リーチをかけ、'84年、藤本修が 「50」 選手初の規定 (投球回) クリアし7勝。 相川英も'86'87年計7勝の半開眼。 駒田は'84年〜2、3、3本と停滞するも'87年、287 15本で “当確” を現した。
 しかし'86年より、200cm&100kgの抑え投手・アニマル (2年で60登板7勝24S)がアウトの度に吠えまくるド派手パフォーマンスで衆目を集めると、'87年、ホーナー(185cm&97kg) がデビュー(5月5日) 〜4試合で6本塁打、最終的に93試合で31本.327と“フルタイム版のカイリー”度の衝撃を放ち、 駒田の得体が知れた感ともなってしまった。
 ましてや'83'84年控え半定着〜'85年半レギ (.276 6本 21 盗塁) の岩本好の存在記憶などほとんど消し飛んでしまい、先発投手陣は'89年村田が 「50」 2例目の規定クリアで7勝、から森廣、麦倉がプチ孵化して “エースの登竜門” ナンバーのイメージも芽生えたが、森が伸び悩み、麦倉は故障で矮小化。 また'91年、堀江が (.266 2本 6盗塁で) 岩本より好守の半レギ内野像を継いだが、受け渡す選手現れず終演。
 投手はこの後、アニマルを起点とする古溝〜ペドラザの抑えに、中継ぎ半定着レベルで川村一、 二宮、南が続きリリーフイメージ主調。 からチェコ、ギブンス、後藤光、ドミンゴ(グスマン)、セドリック、グリンの3〜4番手先発者の群像リレーへと移行 (古溝は救援計11勝42S 、ベドラザ11勝117S。 先発は'03年、後藤=当年10勝、ドミンゴが規定到達)。
 一方野手は'95年に後藤孝が8年がかりで一軍の座をつかみ{※4} (51試合 81打席なが.343 4本) 、'97'98年は半レギ。実績者・音も '96年“五番センター”準レギで.265, 11本〜'97年控え〜'99 年代打役。 また “快足一番” タイプの河田も'94'95年と代打、同系・ペレスも'97 年代打〜'98年半レギと打で目立ち、椎木、カツノリも打に特長ある控え捕手。とジワジワ巧打像が伸長。
 そんな中、日本で初めて大リーグ公式戦が行われた '00年3月29〜30日の開幕2戦目、延長11回2死満塁から代打B・アグバヤニがバックスクリーン弾を叩き込み、 “ワンタイム"ながらホーナーを思わせる衝撃を放つ。 と、これが分岐となったように'02年吉川〜'03年栗原が二軍本塁打王 (&'03'04年吉川、 '02'03年栗原は打点王) を獲り、栗原はこれを手形に '04'05年一軍で準レギ各11〜15本と強打者発向 (吉川は計2安打のみと一軍ボーダー越えられず・・・二軍では計91本)。 さらにかつて衝撃の一打を放ったベニー(アグバヤニ) が'04年日本球界入りし “3割 30本 100打点” クリア。 そしてこれが「50」打者初の規定打席到達。 翌年以降 15本前後と減産も主力躍動。また代打実績者・町田〜高橋光が本領非発揮ながら末席助勢。 加えて “強打一番” キャラの大西も(実際には下位打順が主だったが) 半〜準レギ台頭。
 そして軌道を確保した栗原が'06年「5」へ“昇格”、逆に「5」で伸び悩んだ吉本が同年“降格”来番('01年の二軍本塁打王&打点王)、「50」で伸び悩んだ吉川は'08年育成[マイナー]選手移行。またセドリックは当初専属通訳なし&寮住まいの研修生でスタートと、背番号が身分偏差値を表したかの事例が続き、一方でカイリーに始まり吉沢、ホーナー、チェコ、ペレス、後藤光・・・にパウエル{※5}と (カイリー、 ペレス以外は
入番直前に) 帰属先が “どちらに転ぶか分からない” という状態に置かれた選手が多いのもボーダー番イメージを助成する。それをくぐりぬけて宙に舞った西本のごとく、再び球界の陣頭に立つ「50」は現れるか。
【2008年開幕時点】

{※1}'35年巨人米遠征時に「漢数字」 を採用した過去があるが、 「数値」への "アソビ”導入は初。
{※2}ただし現在のプロ野球の源流である'34年日米野球出場歴はあり。他に桝 (は全日本でなく初戦に対したノンプロチームの一員での出場)、伊達、水原、三原、審判で天知 (に池田豊)も出場。伊達は第11戦8回表まで5-3〜結局5-6の惜敗完投披露・・・'31年の日米野球第2戦(早大単独チームでの対戦)時も伊達は7回表まで5-1~結局5-8負け試合を演出(7回裏2点献上時に降板=後続打たれ責任失点は4)。
{※3}参謀職だがブレイザーは作戦[ベンチ]を司り、用兵[グラウンド]担当の野村克也監督との両輪で'73年優勝。
{※4}また4年目の高梨も初本塁打〜翌'96年微出場ながら四番も経験・・・が以降二軍定住。
{※5}'07年オフ、バファローズが入団&背番号「50」を発表も契約失効〜別球団&別番号へ。
【2008年開幕時点】