2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

39

【2008年開幕時点】

 

 「27」 「22」に次ぐ正捕手ナンバー3番手。'63年までの土井に'69年岩木、'72年片岡、'73年水沼、'74~'83年中沢、'77~'81年若菜、'78年黒田、'88~'02年中村武、'92年秋元、そして'98年~矢野をレギュラー(もしくはレギュラー格)に得、'61年岡村、'71'72年水沼、'72年岩木、'79~'81年黒田、'82年若菜に高浦、'84年中沢、'91と'95年秋元、'97'98年三輪、'03年中村(に'61'62年土井、'77'81年中沢、'02年矢野)も半レギ(格)と捕手番イメージの灯を焚いた。他に山本哲、富山、吉田康、福澤、吉原も一時控えで助勢。ながら着5年以上で(「39」での)合計打席が高木20、中峰4、淡河[おごう]14、里見29,、梅村17、長松105、三浦正38、佐野8、山崎章43、岡本62、葉室10、川越69、と主にブルペン&ファーム(2軍)に鎮座していた選手が多く、富山、吉田、福澤もそちら期間が大半(山本、吉原は半々)、である点が“第3捕手”的なイメージに落ち着かせてもいる。
 また'79年若菜、'82年中沢、'99年矢野、'04年貝塚が初規定打席到達時に打率3割超を残し、潜在能力の高さを発現。 若菜、中村、と整理(クビ)対象からレギュラーにはい上がった粘り強さも併有。'79年中井は投手→野手転向してのプロ初打席本塁打、'01年今村は野手→投手転向年で初勝利、'03年 三浦貴も投手→野手転向後の初安打がナゴヤドームバックスクリーン弾の強烈デモンストレーション。そして'69年岩木(5年目)、'77年若菜(6年目)、'78年黒田(8年目)、'00年島田(6年目)は、前年まで計90(若菜以外の3者は40)打席未満、からの準レギブレイク。'74年中沢(10年目)も計158、シーズン最多は45打席、からの準レギ開眼で、黒田、島田に至っては(満)31才での急進境(他の3者は高卒直入団)。川越も計2打席~'95年(8年目)29才で控え台頭、経て'97年「39」着~当年初本塁打、'99年日本シリーズ代打出場。投手では前年まで43登板(2先発)2勝の田畑が'96年(5年目)27才で先発入り、12勝~翌年15勝(3完封)。この田畑に秋元、矢野は移籍によるレギュラー開花。「39」→「39」だが若菜も'79年の移籍で準主力→主力トバージョンアップ。レギュラー着座は脱番後ながら(前年まで計105打席の9年目、27才)柳田[やなぎた]も'96年移籍で控え定着、をその足掛かりとした。
 というように活[い]き出”を与えられれば、それに応える能力は保持していて、'04年島田のお88試合 (252打席)での“お立ち台10度”はその象徴。活躍が叶わなかった面々にも、'80年ファーム初の20本塁打(=当時70試合制)を記録した佐野(1軍合計打席「39」時8、通算26)、ファームで3割2度(+税番後にも2度)の佐藤裕(同15、32)、来番前の'98年ウエスタン&脱番後の'02年イースタンのファーム両リーグ首位打者 ('99年も4厘差の2位+打点王)経験者・衣川(同37、53)、など“虚戦力”の実力者が揃う。
 その“虚戦力”性質は第1着・亀田からの伝統で、'40年5登板(4先発)ながら2勝(1敗)、防御率0.90と“出れば好結果”で応え(ただ20イニング弱で13与四球と内容はイマイチ)、潜行イメージとして“亀田忠の弟”“(当時選手専任での)最大番号着用”といった“虚戦力”増幅パーツも携帯。その後も'49年夏の甲子園で当時新記録の大会3本塁打~翌年「39」着の藤沢、’56年「39」脱~社会人球界を経、'64年プロ復帰後95勝の小川(ともに「39」時出場0)と潜在止まりの“虚戦力”が続く中、脱番初年2桁勝利の大友、和田、大石はその去り際に各4、5、9勝で半萌芽。15登板0勝の島原も4年後25勝ブレイクへのイメージ播種[はしゅ]。そして初の本格開眼となったのが'56年15勝(199イニング)を挙げた田沢。翌年~10、7、2勝とジリ貧も、'61年8勝で半復活。
 さて野手では'52年新人・引地が遊撃レギュラー、となるが1年で退番。'54年鵜飼(主に一塁)、'56年八田(主に遊撃)も準レギ~改番。'54年有町、'55年八田、'58年辰市も内野控えとなったが、'55'56年と控えで各50試合強に出場した山本哲、の捕手像が'57年より土井を得て一躍勃興。山本が脱番初年から、岡村も脱2年目から、ともにレギュラーとこちらも最盛前に去られるケースが続いたが、残った土井が(従来のファイタータイプと違う)ニュータイプの頭脳派捕手として注目される存在だったことが“「39」=捕手番”色を濃くさせた。が、打棒は別番時含め通算.215と奮わず、その虚を衝く形で'67年~三沢が代打定着。ただ両輪期待の久代[くしろ]は'67年ファーム本塁打&打点王も1軍'66'67年計17打席と虚戦力止まりで、'69年岩木準レギ台頭、同年~水沼&翌年~岩木が控え定着、'68年~中沢もベンチ入り、のディフェンス型捕手再勢力整備。一方で'69年三沢が代打で26安打(当時新、現パ記録)を放ち、'70年バレンタインは.246 11本の成績ながらクリーンアップ帯同。別派で'70年~井上が守備走塁定着('75年は三塁兼外野で半レギ)。同役で中村之(=は主に代走)、西田、山本和、町田、中井、慶元[けいもと]、渋井も来援。また'72年片岡(298打席で)10本、'79年若菜3割9本、に中沢日本シリーズで'75年第3戦決勝&第6戦逆転両2ラン~'76年第1戦勝打&ダメ押し弾~'78年にも.368 6打点~'82年シーズン、18年目で初規定(3割11本。ただし通算.225)と捕手陣も打トピック産出。最中、'76年~ファイターズのミッチェルが4年で113本(&全年三振王、'77年158は当時新。平均打率.250)、続いて'80年~「サモアの怪人」ソレイタが4年で155本('80年4打数連続本塁打のタイ記録2度&同じくタイのゲーム5三振、含む121で三振王、から三振は徐々に減り、'83年71。81年打率3割)で強打像凝立。一方捕手像は'72年片岡、'73年水沼が準レギ頭角・・・も翌年改番。が'74年中沢が「39」捕手3年連続準レギ頭角、後も継続着用し、'77年~若菜、'78年~黒田、'82年~高浦と競演。さらに投手から準先発・青山が出てきて、'77年には4勝2完封(+救援2勝2S)。すると同年望月も中継ぎ準定着。そして強打方も'82年新人・斉藤が出場2試合目に初本塁打&敬遠記録。・・・しかし結局4本止まり~脱番{※1} 。'86年新人・古川も16本~脱番。'83年ストローターは出場枠に阻まれ28試合5本で退団。で控えに'84年八木代打、'87年、白幡DHプチ定着、丸山(に山崎章もプチ)代打、止まりと徐々にイメージ枯れ。他方、守備走塁要員は渋井'87年レギュラー格(犠打王)&前後の'86、'88年準、半レギ、'86年~同役定着の嶋田'90年準~'91年半レギ、'90年馬場も控えと領地拡張。また'88年、山崎慎が先発13勝で久々投像萌芽〜も脱番。同年正妻奪取の中村武は、以後独座。一方で強打像は'88'89年と藤本準レギ計20本~脱、'90年二村[ふたむら]控え2本~脱、と退色続きも、'89年6月来日のデストラーデが83試合で32本、翌'90年~3年連続本塁打王(&3桁三振。'90年は165=2位)で4年計154本 +「カリブの怪人」の異称も得てイメージ再盛。フォロワーには八番ながら'91年20、'93年18本始め年10前後(通算137本)の中村、に'92~'96年計23本、'96 年代打で3打席連発の藤立[ふじたて]、'94年15本ながら三番定着したトラックスラー。さらに'95年(ホークスの)ミッチェルが初打席“開幕戦1回表無死満塁”本塁打・・・も37試合で帰国。'97年グリーンウェルは5/3~3連戦12打数5安打5打点デビュー・・・も7試合で引退、で大ミソ付帯。'95年復帰のデストラーデも46試合で6本、1番の話題が大差試合終盤での初登板・・・。
 だがこれが投像を焚き付けたのか翌'96年~田畑2年で27勝5完封。リリーフで東瀬[あずせ]('97年)、小山田、三浦貴('01年)、今村('02年前半)、梅津、吉武('07年後半)も追随。東瀬、小山田、梅津、'08年新人・久米と横手[サイド]が続き、かつての青山を起点とした変則投法像も根付きつつある。うち小山田は'02年抑えで30S~'04年準先発4勝と1歩抜けかけたが脱退。またウィリーは'99年13登板も3勝3敗1Sと重要局面被起用が多く、バルガス全20登板中18先発、田畑も'98年~3年計35登板31先発と実戦能力を買われながら“虚戦力”{※2}が滞留する姿も目につく。
 さて'95年以降消沈の強打像は最後の綱・中村まで'98年~5本前後に鎮静。だがその中村の牙城を崩せず'97年捕手60&外野22出場と半“虚戦力”化していたドラゴンズ・矢野が、'98年移籍で「39」着し正妻奪取。から'99年3割~'03年.328 14本(同年中村もゲーム3含む11本)~'05年19本~'06年17本で“強打捕手”像継承。さらに捕手群より'00年貝塚(に衣川もプチ)代打定着~'04年貝塚DHで3割 14本(得点圏打率.387はパ1位)と好打像産出。強打系は島田が'00'01'03'04年と準~半レギ計26本、と藤立像を汲み'04年は代打率.367。 だが満を持しての'05年ウィットは25試合で4本。 他方渋井~'93'94年桜井('94年は半レギ)、'93年馬場、'96年柳田と継いだ内野サブ像も、馬場、柳田が脱番後レギュラーブレイクしてイメージ散逸。ただ軽捷{※3}捕手の矢野が「39」領主となってから梶本、三浦貴、田中雅、川島、内藤と俊足選手が目立ち始め、投手もそれまでの技巧派主体から小山田、富岡、今村、バルガス、鴨志田と“スピード”像収斂。双方まだ“虚イメージ”然も、実像化の芽は潜行中。
【2008年開幕時点】

{※1}通算でファーム打点王2度に本塁打王3度、初の100~最終161本の強“虚戦力”に。
{※2}“虚戦力”といえば佐藤玖は脱'75年~打撃投手に。逆に益山は'85年選手復帰で「39」着。
{※3}9ポジション経験者・五十嵐が、'02年“全打順本塁打”の完遂号を放ちこれを後押し。
【2008年開幕時点】