2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

38

【2008年開幕時点】

 

 「38」でキャリアハイを迎えたのは投手で三輪、ホフマン、に中継ぎの成重、野中、野手で末次[すえつぐ]、東条、阿部成、に捕手の山川、高田といったところ。他にレギュラー野手となった藤井康('88年)、片岡篤('92年)、土橋 ('94年)は脱番後が本格躍動期間。 '88年準レギ格の勝呂[すぐろ]も一旦衰勢後、脱番(移籍)での準レギ返り咲き。この4野手に加え、脱番後にレギュラー奪取の千原、三宅秀、松原、水谷実、庄司、井上一、矢野輝、野口、1年咲きたが笠間、鈴木康、に準~半レギ着座の南温、西岡、山田、野田、鴻野[こうの]、林[リン]。といった選手を前に、“俺、「38」番の頃から注目してたんだよ”とつぶやくことで、その人の野球ファンとしての説得力が増す、そういう番号。一方、投手も若生[わこう]、間柴、岩本、豊田が脱番後進境、堂上[どのうえ]も1軍定着を果たしたが、逆に米田、森中、小野和、西村、前川&リリーフの田中章、矢野未、与田、弓長、三澤と実績者{※1}が来番する方が多い(野手として来番した山崎も'61年に9勝)。いずれにしても峠で「38」を着けた選手は少なく、冒頭メンバーでも山川は'84年、野中は'97年のみの活躍、成重も安定していたのは'77年だけ、阿部、ホフマンも主力期間2年、高田は準主力2年と短期開花組が大半。よってかなり地味な印象が残ることになる。
 その初陣、三輪{※2}は'39年半定着して2勝~'40年 16勝(=チーム3位) 5敗で勝率1位(ただし当時タイトル外)、完封は7、うち1つは無安打無得点と順調な滑り出し。だが翌'41年主力格ながら2勝、'42年1勝と大ドン底。'43年、11勝で復活するも当年開幕前背番号廃止。それでも、'37年に選手兼任監督[プレーイングマネージャー]の桝[ます]嘉一が「50」で春秋とも規定打席到達、を除けば(つまり選手専任では)戦前・戦中期最大番号での活躍、である点も含め巧印象を発した(登録では「39」亀田敏夫が最大だが計7登板。また首脳陣も'37年の桝、以外では「32」が最大)。
 10年後、過去2年主力投手だった杉浦が来番で再胎動・・・も2勝止まり。同'53年、北畑3勝~'54年6勝(11敗)と芽吹くが改番。'57年からは若生が9、5、6勝と流れ継いたがやはり改番。'57年には松井も4勝(9敗)でフォローアップも翌年以降出番激減。
 さて'53年にはもう1人、新人・三宅秀が控え微出場(のちの名三塁手だが当時は二塁)し野手像も胎動。以降、石黒、栗木、木頃、横地と同系守備走塁選手が控えで出番を得ていく。木頃が主に代打出場となる'61年~山口、大野が同役競演すると、山崎、松原、末次、水谷、今井、大塚(に「38」では結果出ずも代打職人の島田幸)と打に特長ある選手も続く。だが守備走塁方も'64年~山田、'67年~野田と出て、'68年定着の東条が、'69年撃準レギ~'70年全試合死守&一番着座で盗塁王(28個)~'73年まで定位置堅守('74年は準、半レギ)。後を継ぐ者として'74年阿部成が控えながら19盗~'75'76年レギュラーで一番着座、27~22盗塁(後は控え。'77'79年は半レギ要員)。また阿部は来番前の'71年2軍盗塁王で、同タイトル者の'74'75年島津~'76'77'78年庄司 ('76'77は別番)~'80年迫丸(別番。島津以外は首位打者も経験)を集わせる標[しるべ]となったが、1軍での阿部を継ぐ者は現れず思惑水泡(=庄司は脱番後開花)。
 一方で'66'67年控え定着した巧打者・末次が、守備走塁方の控え頭・山田が抜けた'68年準レギ格に。'69年は新ライバル・東条と準レギ揃い踏み~'70年ともに規定打席到達、'71年出番半減し許リードも、日本シリーズにて史上2人目の満塁本塁打&計7打点でMVP、の一転印象優勢化。'72年、再レギ着で21本&シリーズで前年と同率の.368、2本6打点(~翌年も.381)。加えて同年より5年連続オールスター出場、で完全領主に。フォロワーには'70年半レギ7本の水谷、に今井、大塚の代打陣。今井は'72年代打満塁サヨナラ弾を放ち、大塚は'72'73年(来番前'69と'71年にも)各1度サヨナラ押し出し四球を選ぶしぶとさ発現。'76年には末次が6月、9回2死満塁から逆転サヨナラ本塁打~も9月、同じ2死満塁(7回)で凡フライを落球~さらに右中間最深部へ蹴っとばす被逆転3点タイムリーエラーのド派手トピックを産出。・・・ただ末次自身は、“ON[王・長島]のあとを打つ五番(件の'76年時は三番・張本勲、四番・王貞治で監督・長島茂雄)”という立ち位置もあって地味。のちの土橋が“いかにもな”地味さを逆に持ち味にしたのと違って、末次のそれは記号化しづらい“地味な”地味さで、冒頭の野球ファンのつぶやき中の“「38」番の頃”は巨人内における“末次”の亜流イメージでもある。'77年、(開幕前の)練習中に打球を左目に受け3(+シリーズ3) 試合出場のみ~そのまま“ひっそり”選手引退すると、「38」内で“末次”像が生き継がれることもなく、以降'84年山川までレギュラー級打者現れず。
 そして久しく沈黙の投手陣は'70'72年各20強登板の間柴が、'74年46登板5勝(9月中旬~10月1日まで4連勝)。翌'75年途中加入の米田8勝(同年ブレーブスでの2勝を加え19年連続2桁勝利)、に森中1勝1S。また成重'72年1勝~出番少、も'74年日本シリーズで1勝すると、'75年救援30弱登板。'77年勝ちパターン継投員となり50登板~'78年30弱、以後は再沈黙。
 野手は2軍打撃タイトル獲得、の翌年「38」着パターンに今井、阿部成(=打率4割~来番の'74年にも首位打者)、庄司(=打撃3部門 + 盗塁も制し4冠王)、川島が続き、先記盗塁王流れと任せ“2軍の主力”番イメージが定着。から阿部が「一番」出世した他は、庄司が'78年守備要員で半帯同。かわって登場のラムは“2軍で育成”する目的で獲得されたアマチュアの(イタリア代表・)主砲で、1軍では'81年57試合に出て4本。他に'81~'83年片岡新、'82~'85年慶元[けいもと]が控え定着、'83年島田芳が代走要員と小当たり続き。から'84年、(こちらもかつての2軍本塁打王) 山川が準レギ格で10本。'85年は半レギ・島田が20盗塁(1本)の他、控えで河野[かわの]8、山川4、仁村3(に岡部が14打席で2)本とにぎわった。'86年揃って沈滞も、'87年仁村守備固め、藤井康は代打で持ち場得て、'88年藤井20本、勝呂準レギ格、岡部半レギ11本、ベテラン・大宮も控え定着。が翌年、藤井脱番、勝呂出番減、岡部も2本へと減衰。
 かわって投方・ホフマンが'89'90年先発定着計15(+救援2)勝~'91年3勝。するが打方も'92年片岡篤が規定到達で10本、高田半レギ格~'93'94年準レギ。土橋も'91~'93年と外野の控えで出番を増して、'94年二塁兼外野のレギュラー格(12本)。そして高田が半レギ弱ながらゴールデンクラブを受賞の'96年、セでもサブ捕手・矢野輝が来参(124打席で7本 .346)~'97年半レギ格。さらに鈴木郁、に出番僅かながら藤田('92年)、野口もサブ着座。だが野口、矢野が立て続けに脱番後正捕手開花でイメージ散逸の感も萌芽。また'96'97年川端、'97'98年安部の中距離砲各半レギ弱まで浸透も、'00年長距離控えの朝山5、早川3、山下1本〜'03'04年リナレス半レギ弱で計10本~'03年朝山、'04年垣内各3に'05年福井1本と一進一退続き。
 他方投勢は'94年実績者の小野和、矢野未が各先発、中継ぎで半復活。から新鋭の'95年岩本~'96年豊田が各先発5勝、'96年前間も中継ぎ準台頭。'97年豊田10勝&野中が中継ぎ帯同(こちらはプロ入りから14年=在籍は10年=目で初勝利)。'98年今度は西村が過去2年0勝~復活10勝、翌年より3年連続開幕投手(=もトータルでは11、1、2登板で4、0、0勝)。'99年ウイン、'01年弓長はリリーフ奮闘して、'02年稲嶺も開幕4試合目先発(=KO)後リリーフ18登板。'02年は中盤に相木[あいき]がプロ1、2勝目を連続完封で飾り、谷は2軍最多勝、の両横手[サイド]腕にも兆し萌芽~も不結実。'04年、相木中継ぎで再台頭。'05年神内[かみうち]も中継ぎ定着~'06年先発転入5(+救援1) 勝。同'06年前半中継ぎの武田も後半先発で3(+救援2) 勝~'07年も中継ぎ→先発で計9勝を挙げ(神内は先発での1勝止まり)、日本シリーズでも2年連続先発(1勝1敗)して新領主に。かつての末次の面影を汲む地味系ながら、“誠実”キャラとして立ってしまうほどに受け手[ファン]の見る目も多様化。それを証すかのように'06'07年と5人が集い“新左腕番号”像擁立。だが右腕もここ3年で5人、捕手も'07年2新人が加入し他陣営も巻き返す。さらに2軍で'05'07年盗塁王&'05年首位打者~「38」着の阿部成パターンをなぞる赤松、その阿部に安部を上書きしたような俊足中距離砲の平下、こちらは「38」で'04'06年2軍本塁打上&'04年首位打者の、末次というより水谷実&松原(=ともに2軍タイトル獲得後、1軍中軸打者)の後継候補・山下、の大成にも乞う期待! と一躍アツイ番号となってきた。
【2008年開幕時点】

{※1}野手では栗木、大宮、藤田、安部、垣内、井出、大友といった面々。ただ計100勝超が2人、タイトルも軽く(総計)2桁回の投側と比べ、安打は井出の817(=来番当時)が最多でタイトルも0。強いて挙げればキューバの至宝・リナレスが最強実績者。
{※2}氏名を番号化した第1例。以降、竹之下五十三[いそみ]「53」、関本四十四[しとし]「44」、鳥取九十九[つくも]「99」に、山本八郎「8」、七野智秀「77」、ゴロ合わせで伊奈努「17」、猪久保吾一「51」、サブロー 「36」、藤川球児「92」、他に背ネーム“MAY (5月)”に「17」番で誕生日を表したメイや、中国読みで“546[ウスヨ]と同発音の呉偲佑[ウスヨ]「46」、その先駆の王[ワン]貞治「1」など。
【2008年開幕時点】