【2008年開幕時点】
たいていの30番台(「34」「39」を除いた)と同じく1軍半番号。相沢、米山、中島執、大失根、根来[ねごろ]、与田、大石、平野、定岡、篠塚、山川、元木、吉武、早川が脱番後にレギュラー戦力(“準”含む)となり、レギュラー獲得後脱番の清[せい]、桜井、田中幸、緒方、金城[きんじょう]龍もスケールUP (桜井はスケールというより“精度UP”だが)、井上、江島は(年単位では出番減も)息の長い控えに定着、4年間不調だった牧野も再生、岡島、福盛はリリーフ開眼し、十時[ととき]、大塔[だいとう]、南、石堂も半ブレイクと「出世番」気質は顕著。今挙げたメンバー中、相沢、定岡、福盛、早川、以外は新人来番。その“ドラフト3位”的たたずまいは「32」にも似るが、「37」にはもう少し確信めいた匂いがある。新人来番者でドラフト3位以内入団選手(=制度導入は'65年)、の林千、江島、野上、吉田誠、長井、中島弘、尾西、篠塚、梅沢、山川、市村、日野、渡辺伸、田中幸、緒方、高井、御船、石本、佐野重、元木、西岡、岡島、南、大友、山田、石堂、炭谷、林啓、嶋、野原、福田、と見ていくと、何となく“大成するかどうか”を見定めてから(背中に)乗っかっている感じがしてくる。しかも大成の兆しが見えたら気前よくレギュラー番号へと送り出すため、余計に“確保[プロテクト]”感が立ち上る。
そのイメージを最も体現し、“周知”させたのが篠塚。 先のドラフト3位以内新人を見ても、篠塚以前でプロ成功者は江島だけ。その江島も2年目にレギュラー、から脱番後は徐々に出番が減っていったのに対し、篠塚以後は田中、緒方、佐野、元木、岡島、大友と中~長期レギュラー続々。佐野、大友、以外は脱番後の本格開眼で、それも「37」では21試合(33打席)の出場のみ、から大成した篠塚のパターン踏襲。高2夏に甲子園大会優勝、自身も2本塁打マーク~ながら秋、肋膜炎を患い、翌年ドラフト前に再発。も、巨人監督・長島茂雄が周囲の反対を制し“自らの進退をかけ”1位指名~プロ入り後の療養を経て、脱番後“(長島の)予見通りに”天分発揮、の経緯が「37」に先物買いイメージを植え付けた。
さてしかし篠塚が(準)レギュラーの座を射止めた'80年、オフに長島は電撃解任(=発表は辞任)されてしまう。この時、長島に伴って退団したコーチの1人に与那嶺要がいた。
この与那嶺こそが「37」の慧眼[けいがん]を目覚めさせた人物である。'51年途中にハワイより来日し、巨人10シーズンで平均.316の球団最高打率 (4000打数以上対象)を残すも、'61年に新監督・川上哲治の戦力構想から外れドラゴンドへ。高校でのアメリカンフットボール選手時、日系人初のハワイリーグMVPに選ばれた時と同じ「37」を着けた。ただ、開幕戦こそ古巣・巨人相手に決勝アーチを架けたが、それに続くインパクトは残せず2年計29安打、本塁打はその1本、で選手引退。から'65'66年「コーチ」として再着用。そして'72年、今度は「監督」となって再帰着。3年目の'74年、前年まで9連覇の巨人を振り切りリーグ優勝。V10を逃した巨人の将・川上哲治はこの年限りで退任、と実に14年がかりて引導を渡し返した。この間絶えず、ではないものの雌伏と雄飛の両時期に供したことで「37」に鑑識眼を備わせた。
さて“選手・与那嶺”は、日の目の序章として“指導者・与那嶺”像の一部となった感もあり霧消然。また当時最盛中の村田によっても'61年時36才の与那嶺は呑まれた。この村田はプロ2年目、'58年に参番。(前年1登板~) リーグ最多の62登板、15勝22敗で金田正一に次ぐチーム2番手投手として台頭。 '60年には18勝し、20勝の金田に内薄、防御率ではわずかながら上回る活躍。'63年まで4年連続2桁勝利を挙げた。それまで、投手で'55年永井9勝、'57年牧野15勝(ともに200イニング超)に'56年準主力で牧野3勝(11敗)、微台頭組の'51年深見、'54年永井&加藤太&大失根、'56年富島、'57年中村が各5勝未満、野手で'41年松下が準レギ、'50年紺田が半レギ、'55年三瀬&'57年加藤晃はレギュラー、守備走塁要員・小沢&代打・十時{※1}は控え半定着、といった感じだったので一気に“「37」=村田”の印象が定着。その間の投フォロワーは左の中継ぎ役・富島&太田紘に'58年準先発7勝の中村、'62年12勝(200イニング超)の菅原。 村田と両論をなすべき牧野は'58年~4、3、0、0勝とジリ貧も、打方が
'61'62年島野&'61年与那嶺の半レギ、に他年時島野、'61年増田が控えと脆弱で「投手番」像圧倒的優勢。も、村田'64年2勝と不調~'65年改番、すると瞬く間に崩壊。'64年高卒1年目で準戦力定着(4勝11敗)した清も、'66年に無安打無得点するが、結局年5勝前後で伸び悩み。
そして'67年に万能内野の井上、'68年外野の江島がともに半レギ弱~'69年江島レギュラー格(下位打順で13本)。'69年松原三塁(時々外野)の半レギ 、'70年桜井二塁で規定打席到達。に赤井代打定着、吉田誠も守備要員で'71年~半定着と野手続々進攻。沈静一途の投勢は池島が'72年先発半半台頭3勝、も'73'74年各1登板のみ。だが'72年~監督・与那嶺が“継投野球”を展開(=推進者はコーチの近藤貞雄だが《背番号「61」参照》すると、それと連動するように三好、村上、梅沢、五月女[さおとめ]、市村、木村広、高橋里・・・のリリーフ群台頭(先発かけ持ちで星野も半定着)。中でも'78年村上、'81年梅沢は規定投球回到達し、'77~'78年村上はリーグ最多登板(各61~57。'82年五月女も58登板)のフル回転ぶりを見せた。
一方で'73'74年と捕手・西沢が半~準レギ、'74'75年平野が守備走塁台頭して、'75年定岡は遊撃半定着。'75年~遊撃控えの榊原も'77年半定着、'78年二塁兼務で規定到達、'79'80年二塁でレギュラー~準レギュラー。から'86年鈴木が遊撃で規定到達し榊原より“つなぎ二番”像継承('87年~控え。日野も同役半着座)。そして'87年~遊撃レギュラーの田中幸が'88年16~'90年18本塁打&ノーバウンド送球特長の守備面でも魅せイメージスケールUP。これに赤井&'68年江島を発芽点とする代打群像を伊勢、岩下(='82'84'85年は準~半レギのかたわら。'82年代打満塁サヨナラ本塁打記録)、永尾、渡辺伸の高成功率4人衆、に長井、小田、有賀、島貫('82年)、後関、津末、高井('90年)、出番わずかながら実績者・佐藤竹で形成。また控え捕手の山川、木本、佐野元、小山昭、山根も少数打席の中で強打を生かし各1本塁打。
対して投勢は'86年~急沈静・・・するが、'90年代が明けると佐野重、シグペン、佐久本、福盛、富岡がリリーフ入りしてイメージ存続。この一群に先がけ'90年10先発起用された郭は4敗無勝利~'97年準先発4勝の岡島は改番~'98年中盤より先発転入3(+救援3)勝の佐久本は、翌'99年開幕2戦目先発勝利~も結局3勝、日本シリーズで先発被抜擢~も翌年0勝。'04年に終盤先発5連勝(無敗)した三東[さんとう]も、以後肩痛で登板なしと先発組は兆し止まり続き。'78年に抑え[ストッパー]の村上が12勝(10S)したのを除けば、2桁勝利は村田を最後に出ていない。&リリーフも'04年以降無援。が、'07年米国より岡島来信~'08年実績者・藤田宗入番で再生兆し。
一方野手は田中退番と同時に遊撃スラッガー・元木を迎えるが、1軍定着を果たした'93年主に二塁(半レギ)の好打者へと趣が変わっておりイメージスケールダウン。それに沿うように以後、緒方 ('91'93年半、'95年準レギ)、大友('96年半、'97~'00年レギュラー)、石本('99'03年準レギ)、 早川 ('04'05年半レギ)、岡上[おかがみ](は主に代走)と快足選手中心にイメージチェンジ。金城、('04年までの)岡上、早川、小山[おやま]桂、福田の“両打[スイッチ]”像とも相まって一大領地となった。 補完役として北村、米崎、風岡、本西[もとにし]、内匠[たくみ]、永池の守備職人に、御船[みふね]、野々垣、筒井の万能好打者が躍動感増幅。そして何といっても金城の'00年首位打者獲得は、高校~社会人を通じ投手、しかも社会人はDH制のため4年間打席にすら立っていなかった選手の転向2年目での急進境で、改めて「37」の慧眼を証明することにもなった。さらに'00年代打定着した斉藤が'02'03年と準レギ開眼。'02年日本シリーズでは7打数4安打1本塁打と45年前の十時({※1}参照)を思わせる活躍~'03年11本塁打&8三塁打。'04年控え陥落も、かわって宮地が準レギ台頭~'05年には16年目にして初規定打席の3割。'06年控え行きも、かわって炭谷が高卒1年目捕手51年ぶり開幕スタメン~4試合目にゲーム2本塁打(1本日は満塁)の鮮烈デビュー。 結局その後失速(54試合~'07年28)も、触発されたように'07年嶋&福川が準レギ躍進。と新たに“レギュラー捕手”像が結実しつつある。思えば現在球界の工ース捕手番として栄える「27」が、その歩みを“本格的に”始めたのは'58年、「37」から送られた根来が正捕手を奪ってから(「37」では投手3登板+捕手で17試合)。近々訪れるであろう“岐路”に立ったとき、「37」はこれまで通り他番の身を立てる出資ナンバーの道を行くのか、それとも“レギュラー捕手”番に腰を落ち着けるのか、注目される。
【2008年開幕時点】
{※1}ただし'57年日本シリーズでは6打数4安打1本塁打。第5戦では3回代打同点弾~5回勝ち越しタイムリー打と存在感顕示。が6回守備時、左翼フェンス直撃打球の処理にモタついて決勝ランニング本としてしまう痛恨のミス。この試合でシリーズ敗退が決まり、「37」的にも翌年村田来番で野手像沈下 、の緒端となってしまった。
【2008年開幕時点】