2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

36

【2008年開幕時点】

 

 「36」のイメージを初掲揚させたのは国松。'59年に1軍定着、'60~'68年とレギュラーを務め、'69年準、'70年半レギ格。毎年“打率.250&本塁打10”前後で、'62年まで主に一番。から'63年柴田勲台頭により二番に移って(=当年犠打王&盗塁3位の36)、'66年以降は土井正三の台頭で六、七番。その知的風貌も含め、川上哲治監督時の巨人('61~'74年。ちなみにV9スタートは'65年)・上半期における代表的脇役としてキャラ浸透した。
 さて国松登場前、野手はともに俊足巧打タイプの'53年準レギ・栗木、'55年半レギ・浅原が国松像の先鞭を着け、東口、木下育、山岸静の控え捕手も名を連ねた他、'52年八浪、'56年斎田が主に代打でプチ定着。国松台頭直前の'58年には今津が遊撃準レギュラー。一方投手は大脇が'52年8勝16敗(4完封)でチーム2番目の成績、ながら1番目 ・金田正一が24勝25敗だから実像は“補完役1番手”。以降2勝9敗~6勝8敗と伸び悩みも、「36」を初めて衆目認知させた選手に変わりなく、微弱ながら'52'53年計3勝の池田というイメージフォロワーも得た。そして大脇が抜ける'54年、新鋭・戸川が8勝~'55'56年ほぼリリーフ専任で連続2桁勝。'55年日本シリーズでは第3戦、第4戦ともに5回途中からロングリリーフで締め2勝~最終第7戦では先発起用され、5回途中まで1失点の堅投。結局それが決勝点で敗戦投手となるも敢闘賞を受賞した。 切り札リリーフの元祖的存在、なのだが、“救援~ラスト”の数が突出して多かったわけではなくいわば影役、そのイメージを「36」に刷り込んだ点では元祖といえる。この他'55'56年は山田清が先発半定着も計2勝15敗とイメージフォローし切れず。 '59'60年ローテ入りの蔦[つた]{※1}も計12勝36敗。輪をかけるように'60年、終盤(最後から5試合目)に先発した島谷が4回までリードを守るも、“10年連続20勝”リーチ中の金田正一に勝ち投手の権利{※2}を奪われ降板、結局通算0勝で選手引退・・・。が、同'60年その逆運ぶりを埋め合わすように、梶本が兄・隆夫のリリーフを受けプロ初勝利のエポック産出。
 これをイメージステップに'61年、2軍で上条が首位打者、白野が本塁打王&打点王、金子哲が防御率&勝率1位とタイトル戴冠。席巻気運を焚き付けると、'62年6月、大リーグの元MVP&最多勝投手のドン・ニューカム (日本での登録名は「ニューク」)入番。ただ、1度選手引退していたため、シーズン7本(ナリーグ投手タイ)の打力を生かし野手として81試合、12本。翌'63年にも大リーガー・クラウスが6月~'62試合で3本。打率も両者.260と峠過ぎだったが、国松がほぼ全域を占めていた「36」イメージに含みを持たせた。そして半レギ格の'65年無徒[むと]、'66年小川、'68年伊勢を始め、'65年~植田に千原、'68'69年時無徒、に宮原、柳田、米山・・・の代打群を呼び込む。国松型の守&走要員が大坂('68'69年)、佐野勝、小林正・・・(に'70年代走のみ23出場の井手)ぐらいなのでイメージ継承率は打像優勢。
 一方、大投手・ニュークを打像の中核へと引き抜かれた他、'55'56年計10登板した国松、'57年2軍で防御率1位(=0.23)の今津、'59年1勝している上条、'64年9~'66年8登板の千原、にも去られ影が薄らぐ中、('62年石原が10登板2勝&日本シリーズ1登板〜)'66年合田チーム4番手ながら10勝&シリーズ1勝。翌年は主力で投げ12勝(200イニング超)~'68年5勝。'67年、高卒新人・浅野がリリーフ中心に50登板8勝。'71年高卒4年目・竹村が準台頭2勝。'72年同1年目・竹内が半台頭(7月半ば~約1ヶ月で)5勝1完封。'73年同5年目・新井リリーフ定着。そして'74年同2年目・三井が6勝4Sで新人王、にとどまらず翌年10勝4S、以降も先発兼務の主にストッパーで活躍。だが'78年肘痛~退番。また'76年4月初勝利、の池之上が7月、イニング3暴投&11失点。翌年最終戦で完封も'79年野手転向と再び枯痩[こそう]化。
 さて打方は柳田が補完的役割の中で'73年半~'74年準(=15本 .335)~'75'76年半レギと活躍土壌を肥やし、'77年21本で.340 (セ3位)、盗塁も17とブレイク。ただ立ち位置は“史上最強の五番打者”と国松的たたずまい(=脇役)で、'78'79年は準レギ戻り(~移選退番)。かわって同たたずまいで内野オールラウンダーの渡辺進が補完役('76'77年は半レギ)~'80年準レギで11本。加えて谷岡('75'77年)、中井、池之上 ('81'82年)と打に特長ある選手が守備要員に組み入れられ、と器用万能像の台頭顕著で、小松('78年)、白滝(バファローズ時)の“代打勝負”者はプチ定着止まり。助っ人のハリスも'81年三番・二塁で22本→外野(準レギ9本~'83年4本) コンバート、&3年計29盗塁の足マメ者。そして'81年山森“スーパーキャッチ”{※3}が守備像を猛表出させ、'84年半レギ6本、ゴールデングラブ賞に輝いた'86年は(102試合) 126打席で10本を放つ一方、'88年は準レギ3本&20犠打と打棒でも変幻自在ぶりを現出。'83年からは今井が一芸イメージ追随。通算263試合中代走が238(打席31)で62盗塁(失敗21)、83得点。'84年15盗&26得、'86年17盗&13得はともにチーム優勝に連結寄与した。
 さて投方は枯痩危機の'79年~渡辺秀、'85年~佐藤政、'86年~市村の老兵[ベテラン]3人衆(市村は'86年時4年目も34才)が中継ぎ役で立て直し(&中堅・土居も半帯同)、'88年高卒5年目・吉井がストッパー役10勝24Sで結実。するのだが、前'87年に遊撃レギュラーとなった池山が13本~当'88年31本と大進境。'91年まで4年連続30本超&全試合出場、かつ('87年~)連続100三振超で“ブンブン丸”の愛称も得て「36」像凌駕。華麗な守&走も装備し、こちらは山森、山脇('86年)、遠田[えんだ]('89年)がイメージフォロー。池山去った'92年、進藤達が定位置獲[え]て11本と“打てる遊撃手[ショート]”像を継いだが、オフに「1」改番まで踏襲しイメージリリース。
 その進藤に'92年、土壇場で同点本塁打を浴び、開幕からの連続SP[セーブポイント]を15で止められたのが田村(=当時記録は17連続)。横手[サイド]からの高目直球で空振りに獲っていく快腕で、前年中継ぎ~当年ストッパー着。故障離脱までの前半24登板で19SP、防御率1.10の難攻不落を誇り、翌'93年中盤復帰後再び15連続(含む23)SPをマークした。が、'94年再離脱。復帰後、'96'97に'99・'01年は中継ぎで再生。'97年には同じ速球派横手のデニーが中継ぎ台頭~'01年まで定着。この他'95年濱涯[はまぎわ]、'03年土井、'04'05年佐竹、'04年後半~平井、'05年 MICHEAL、'06年山岸穣、'07年青木勇も同役奮闘し、デニーと同じ右横手のMICHEAL{※4}が'06年~クローザー役となり“切り札リリーフ”の名跡復活(、&青木勇も右横手)。に対し、先発は'97年田中由が半定着3勝、から高橋尚&ラジオ、に'07年朝井&ボーグルソンがチーム3、4番手で各年10勝弱。'03年平井はチーム最多の12勝&防御率セ2位・・・も当年救援でも20登板(1勝)。と、圧倒的にリリーフ像優勢 ('00年に高橋&ラジオが各々優勝寄与~日本シリーズでも先発、高橋は史上初の新人初登板完封を記録したが、'06年MICHEALがシリーズ胴上げ投手となりイメージ更新)。
 一方野手は池山~進藤に続くべき藤島が'98年まで計173打数18安打の.104とサッパリ。'97年は4月にサヨナラ本塁打を放ったものの、73試合で22打席と守&走が主。'89年後関も代打プチ定着止まり。'93年4月にセリーグ通算3万号本塁打を放つなど“ついに”の感いだかせた長嶋も以後停滞。しかしプロ5年間で2打席と“未完の大器”になりかけていた浅井が'95年1軍定着~'96年と合わせ12本。すると'96年宮川&四條、'99年大久保(、にデニーも)と30才前後での“崖っぷち”台頭が相次ぐ。そして藤島も'99年30才時、控えで7(うち満塁2)本と打進境、以降“スペアの四番打者”的控えとして定着。また'00年~代打の切り札として“「36」池山”が再始動。ただし相当無理をして“ブンブン丸”時分をセルフカバーしたために、かつての底抜け感に“痛々しさ”が上書きされてしまい、華アベレージが減退。
 それでもこの奮闘が全盛時のイメージを想起させたのか、'04年斉藤が29才にして遊撃準レギ台頭を果たし、高卒新人の明石(=は本職・二塁だが)が5月、初打席三塁打デビュー。池山のもう片方の“パワーヒッター”も、李[イ]が1年目14→2年目30本とステージ進級、下山真も2年間代打→'07年32才で準レギ(7本)躍進。&藤島、復刻時池山とイメージ播種着々。反面、'05~'07年は岩舘[いわだて]微定着のみと伸び悩んだ遊撃(&二塁)像だが、素材としては明石、川端、に続き'08年、これまた身ごなしの綺麗な“右投左打の三塁打メーカー”タイプ・高濱が入番。アクロバティック守備芸人・谷もからめ、ひときっかけあれば一気にイメージ展開しそうな気配、また池山以降絶えて久しい“スター”の誕生が叶う公算も大。
【2008年開幕時点】

{※1}先の今津とは高3時県大会決勝で投げ合った仲。谷岡と八重沢は甲子園決勝で相対した。
{※2}先発は5回を投げ切るのが第一条件(なので正確にはこの時点では権利発生前だが)。
{※3}レフトへの本塁打性の大飛球を金網フェンスによじ登って捕球したプレー (地上より約4m=フェンスの高さは約2.5m)。この時の写真は米国野球殿堂にて展示中。
{※4}豪州育ち~米球界~故郷・日本へ。'07年デニー、'08年入来[いりき]は米国~日本球界復帰着。
{※5}この後も斉藤、下山真、に再台頭ながら平井、青木、新人だがMICHEALも同道追走。
【2008年開幕時点】