2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

35

【2008年開幕時点】

 

 現在は特徴を見出しづらい「35」だが、その登場は鮮烈だった。'40年に谷レギュラー&中田半レギ、'41年谷半レギの初動後、当時の東京6大学 No.1投手・藤本が'42年途中プロ入り来番。デビュー試合の9月27日先発登板は新聞紙上で告知され、戦前・戦中最多の16924人の観衆(='42年は巨人戦で2000~3000人という頃)がそのプロ初陣を見守った。当試合を含め10勝0敗、防御率0.81と評判通りの成績で'42年を終えると、翌'43年は56登板34勝11敗、46先発で39完投、うち19完封、は6連続完封、防御率0.73とともに日本記録(&62イニング無失点も当時最長)、5月には無安打無得点も達成した(当日他にも2投手が同記録達成。'43年は3割打者1人*1と全体的に投高打低ではあった)が、この'43年の開幕直前に背番号廃止となったため「35」への参与期間は実質約1月半。
 中断リセット後、'49年山本静、'50'51年宇佐美、'52年今久留主[いまくるす]とレギュラー産出。山本、今久留主は小兵二遊間[キーストン]プレーヤー、宇佐美は'50年捕手~'51年一塁のクリーンナップ打者。かつての藤本同様、宇佐美、今久留主はシーズン途中入団者で、「35」はメンバー表の末尾に加えられる“超過ナンバー”然としていた。また3選手とも主役タイプでもないため、この頃1番衆目を集めたのは'50年第1回日本シリーズの制覇監督・湯浅。シーズンでも11月5日、消化試合とはいえブレーブス監督の浜崎真二(当時48才10ヶ月26日。湯浅{※1}は48才1ヶ月3日)と相先発登板し、4回2失点の好投(浜崎は3・2/3回6失点。試合は9-2でオリオンズ勝利)。藤本デビュー時と同じく紙上告知したこともあって(前日1300→)8000人の観衆を集めた。しかしこのファンサービス精神が一転、'53年7月16日には劣勢試合で日没ノーゲームを狙ってオリオンズ側が露骨な遅延行為をくり返し(リードされているチームの攻撃が5回完了した時点で「コールドゲーム」の条件成立)、5回の攻撃突入前に目論見通りの「ノーゲーム」が宣告されるや怒ったファンが一斉に乱入、オリオンズ選手を殴りつける事件{※2}が発生して引責辞任。この時の後任監督でもある別当が、のち'62年~バファローズで「35」監督に就任するが、3年で最下位に2度沈み退任。
 さて選手に話を戻すと、今久留主は'53年以降控えとなり、'54年半レギ台頭の青山が'55年控え、'56年二番準定着。同年中[なか]は一番定着&打率9位。翌'57年、ともに脱番の両者にかわって桧垣が半レギ~2年間控え。投手は'52年榊原が戦後「35」初勝利~'53年にも伊奈1勝。その後、海野[うんの]が'54~'56年計8勝27敗と大きく負け越すも準戦力に。その間'55年に伊藤則が2勝。'58年山本義、土井も各2勝。から'59'60年と山本各8勝。'60年中島も8勝+前後の'59'61年計5勝。長田[おさだ]も'59'61年計5勝('60年は登板0)。中継ぎ・牧田が'60'61'63 年平均25登板(先発各4)。もここから、'70年渋谷9勝まで音沙汰が絶える。
 対して野手は萩原千が'63'64年と控え、林健が'65'66年と一塁以外の内外野をかけ持ちで半レギ格(‘66年12本塁打)、'67年以降は代打中心。遊撃以外の内野かけ持ちの無徒[むと]を'66年控え(=ただし「35」では一、二塁のみ)~'67年ほぼ代打。'66年は下須崎もベンチ台頭。守備走塁要員で'64年梁川[やながわ]、'66年~千田[せんだ]、竹野も準帯同、'70'71年寺岡は、116~130打席で各5本塁打と打力も併有。そして高井が'67年プロ初本塁打を代打で飾ると、'70年3~'72年5と代打本塁打量産(5本は当時タイ。'74年自ら別番で更新~'76年大島康徳が7本)。'74年佐藤竹、'76年伊藤泰も各5代打本塁打。'72年には、前年代打満塁逆転サヨナラ('66年にも満塁逆転サヨナラ)本塁打を放った広野が参入し、翌'74年1
~'76年2の計3代打満塁本塁打は当時最多で、淡口の(セでの)計15代打本塁打は当時リーグ最多(=を抜いたのも前出の大島〜その後町田公二郎が20まで更新)。’84年には柳原が代打満塁逆転サヨナラ本塁打。'88年堀場もほぼ代打専任で.295、とすっかり“代打像”定番化。それは、'69~'71年と準、半レギの阿部良、'72年半レギの高井 (15本塁打) &弘田(18盗塁)、に'71年溜池、'74年岩崎忠も半レギ弱、といったレギュラー目前の選手達(脱番後に阿部、高井、弘田が規定打席到達。岩崎も準レギ進境)が続々抜けたことでより際立たせられ、淡口がレギュラーに手をかけたところで“準格”停滞し続けたことがさらに拍車をかけた。淡口は'80年以降レギュラー格となるが、(準格定着の'75年から)毎年のように3割前後の打
率を残しながら規定到達は'83年のみ(~'84年出番半減)と“冷遇”イメージが付きまとい、最後は移籍拒否(そのまま選手引退)した同僚の身代わりとなって移籍し退番。また他の代打職人も'75年佐藤(ゲーム3本を含め1本塁打)、'78年伊藤(6本)の半レギ、'85年柳原(8本)の準レギ格が精一杯で自身の“代打像”を超えられず、窓際番号の感増長。という中で'80年、来番前まで冷遇をかこっていた庄司が移籍着して“礼遇”化け。一番レフトにほぼ定着し、'81年規定到達.293&オールスター出場。が同年秋、手の皮膚が剥ける原因不明の病気にかかって以後成績低下(~'84年規定再到達も.256)と今1つ乗り切れない。
 投手方も中継ぎ・山本重が'73~'75年各25登板前後。ののち'79年に規定投球回到達した山根和(8勝。日本シリーズでは3先発2勝、1完封)&田中由(5勝)が揃ってオフ改番。'81年準先発2勝の前泊、'83年中継ぎ8(+先発1)勝の木下智はともに翌年以降減衰。と台頭勢が皆スポット参戦止まりだったためイメージスルー。で、やはり生き残るのは“代打像”。ウラを返せば“未完の大器”でもあって、淡口と入れ替わるようにして出てきた小川淳も10本塁打台3(=淡口は同6、庄司も2)度の準、半レギに停滞、と相変わらず“未完の大器”然。同じ頃'84年レギュラー~'85年半レギのつなぎ役二遊間・岩井、'84年半~'85'87'88年レギュラー捕手の吉田 ('85年10本。同年岩井も9、小川11、柳原8本)も台頭して野手優混沌化。
 さらに'86年~古溝が3、5、10勝('88年3完封)と本格参戦・・・も、以後出場少でまた単発印象。
 ただ当時日本人選手最長身(=193cm)の後藤&服部コンビの存在が(当人達は結果残せずも)“大器”イメージを引き留め・・・たのか、堀場、片岡、四條[よじょう]、藤王、平塚、大塚義、熊澤、津川、中村日、河野[かわの]、千代丸、幕田、萩原誠、松本奉、福井、三木仁、大廣[おおひろ]、定岡と“大砲候補”はしばらく盛況。その成果は、堀場'87年控え捕手~'88年代打、藤王'90年一時五番(4本)、四條'92年控え帯同、河野'96年半レギ~'97年控え(各7本。'97年代打率.318) ~'98年代打、福井'02年控え(4本)。に'02年ロドリゲスが18本。・・・やはり“未完”評はぬぐえない。  一方投手は杉本、望月、今関、舩木[ふなき]、大久保、隼人[はやと]、牛田、牧野、田﨑、ミセリ、越智[おち]、木下達、岩崎哲と右の剛腕orダイナミックフォームの持ち主が集い、'92~'94年望月が中継ぎ40登板超で灯を点けると、'95年準先発3勝の今関が'96と'98年各10勝前後。'96年新人・舩木も6勝、豊田次は2勝ながら日本シリーズで先発~'97'98年中継ぎ各25登板前後。'99~'03年左の土肥が望月からタフネス中継ぎ像を継ぎ、'00年ロバーツ(左)準先発2(+救援1)勝。から'01年新人・中村(隼人)が6月以降6勝(3完封)~'02年7勝(後、出番減)。 '01'02'05'06年大久保は抑え~'07年中継ぎ役。'04年には、6月加入の河本(左)が以降中継ぎ役、牧野も中継ぎ30登板弱。'07年、岩﨑、ニコースキー(左)はフルで中継ぎ稼動。微定着だが先発も'06年牛田3勝〜'07年木下2勝(1完封)。と“使い減りしない”イメージは着々根付きつつある。
 対して野手は未完続きの大砲から好打系へとシフト移行。'91'92年リードは平均.250&各10本だったが、'96年~清水が毎年3割前後&10本台4度、'01年~バルデスは3年連続で3割&20本超(~'04年も.279 18本)で像刷新。間々で'92年捕手準レギ・山田勝彦、'00年主に遊撃の準レギ・鳥越、に守備走塁要員の南牟礼[みなみむれ]、馬場、河田、高橋眞、三木肇、上田が来援で小回り感UP。大砲ながら守&走もソツなくムードメイクも兼任の最強ベンチウォーマー・福井がさらに後押し。で現況、もう大砲系は大廣だけと完全にモデルチェンジした。
 また平成「35」領主の清水は、左投手先発時はおおむねスタメンから外される冷遇ぶりも“淡口2世”で、この清水を始め平塚、馬場、田畑、鳥越、土肥が脱番直後スケールUP(馬場、鳥城以外はかつての庄司とは逆に「35」脱の“礼遇”化け) 、古溝、四條、隼人、中嶋
聡、河本、福井も(脱番後)再度持ち場を得た。同例は過去、加藤一、石川、伊奈、水谷伸、梅田、高木、加藤博、田村が脱番後合頭しレギュラー (南、西脇、下須崎、星野、千田も半開花)、の伝統気質。現メンバーはこの“くすぶる”感を一掃できるか。
【2008年開幕時点】

{※1}くしくも藤本の明大先輩。'25年秋、新たに東京帝大(現東大)が加わり「東京6大学」となっての初勝利投手&同シーズン、リーグ記録の109奪三振に無安打無得点2度。
{※2}通称「平和台(=球場名) 事件」。当日は雨。で照明設備がないにもかかわらず約2時間遅れの16:55開始。さらに途中中断2度(計1時間超)~4回終了時19:30・・・。
【2008年開幕時点】

*1:ちなみに'42年は1人