2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

49

【2008年開幕時点】

 

 クロマティの圧倒的成功で外国人選手が着けるケースが格段に増えた。ものの追随成功例は少なく、“助っ人級”の活躍を見せたのは'90年アレン、'92年モスビー、'01年ディアス、それにベイル、ぎりぎりマリオぐらい。 ハドラー、テータム、ジョーンズ、リベラ、シコースキーに、ぎりぎりホリンズも戦力となったが、助っ人というより補佐[アシスタント]戦力の印象が強い。'01年以外のディアスに、成績だけならマリオもそう。特にクロマティ後の巨人の変遷を追うと、そのまま同球団の'90年代“ダメ助っ人列伝”が語れてしまいそうなほどで、シーズン途中帰国者実に4名という逆逸材の宝庫。こうして見れば、クロマティの“巨人在籍7年”がいかに希少がが改めて感じとれる。
 来日は30才というキャリアの全盛時。米大リーグで7年レギュラー計60本塁打 .280の実績を引っさげ、FA(自由移籍)権行使での巨人入団(王貞治の監督就任年にして球団創設50周年と完全に“アタリを見込まれ”ての入団だった)。1年目より3年連続30本超('86年は37)、2年目より3年連続打率3割('86年 .363)、打点もコンスタントに90以上('85年112)。また全本塁打中1点差もしくは同点でのものが約6割という勝負強さが特徴で、'86年には10月優勝争い激戦渦中に頭部死球で入院~翌日“安静”指示を振り切って代打出場、決勝満塁本塁打。4日後、今度は逆転2ラン(その後味方投手が打たれ敗北)。最終的に優勝できなかったものの強烈な印象を残した。'87年日本シリーズでは緩慢守備により逆印象{※1}を残したが、'88年骨折長期離脱&チームも優勝ならず、で敬愛する王貞治{※2}が監督解任されると一念発起、翌年アベレージ打者で遡り(本塁打は翌年ともども各15前後)、チーム96試合目にして打率4割台マーク(~最終 .378) MVP&優勝牽引。翌年も優勝現出するが、自身3割非到達(それでも.293=セ12位)、本塁打14と打点55は負傷した'88年を除いて最少、で退団。
 そして去り際の'90年、強打者・吉永が半レギ(.311、7本)頭角を現し、翌'91年好打者・平井が首位打者( .314) 開眼、'92年モスビーは規定打席不足ながら3割、25本で巨人の助っ人役を準全う( + 平井準レギ)、で3年がかりでクロマティ像を埋め合わせたが、同時に'90年アレンが4打数連発を含む25本&規定不足ながら3割、前年のアレン~'91年ゴンザレス~'92年畠[はた]山が各10本前後、'93年ハドラーが3割&14本(打順は八番)、守備の人・酒井忠も'92年より控え準定着と右侵攻。その後も'97年テータムが(下位打順ながら)途中入団~51試合で13本&日本シリーズ初戦1-0勝利の決勝点となる8回ソロ本塁打を放ち、元レギュラーも故障低迷、から仕切り直し入番の種田が'98年~守備&代打要員で再出発し'00年、(クロマティのクラウチングスタイルと対をなす)“ガニ股打法”改造で準レギ格&代打でも11連続出塁を記録しカムバック賞受賞(~翌年開幕後に移籍で退番)。翌'01年にも、それまで2年で計16本84打点(1年目は別番)だったディアスが32本85打点&打率も3割と猛進境・・・'02年は17本 51打点、'07年ホリンズ12本45打点。と打の活躍&トピック例は右大勢。片や左は、広永が代打定着('95年に延長10回代打サヨナラ本塁打マーク)、樋口が守備走塁で半定着('97年は一時遊撃スタメン要員)~’03年後藤が遊撃準レギ(9本 .267)。何より肝心のズーバー(2本)、ブレット(7本)、クルーズ(11本)が各々半レギ前後に収まってしまい、レギュラー実積者の小関[おぜき]も控え準定着止まり。替わって'07年強打者・上本が代打プチ胎動。
 と、クロマティ像は年々希薄一途だが、この間“左イメージ”は投手に着生。'84~'86年久保の中継ぎ準定着、に'92年新浦[にうら]2年振り~'95年吉田修も4年振りの各々先発勝利(1勝)をイメージ起点{※3}に、'97年~吉田修、'98'99年阿波野、'99~'01年柏田、'98と'01年松田、'02年~吉田豊、'07年川崎雄が切り札中継ぎ像を発揚。それも'96年マリオ~'98年リベラで右が立ち上げた抑えイメージを下敷きにして築き、逆に'02'03年シコースキー、'02年伊達の再出帆右球援(中継ぎ)陣を後衛に付ける左統活ぶり。先発も'94年ジョーンズ~'00年ハンセルが各7勝、'01年伊達7先発で3勝( + 救援1勝)、'02'03年ホルト計10勝( + 救援1勝、も24敗)、にシコースキー'01~'03年計19先発4勝、でイメージを撒いてから'04年、ベイル11勝、ムーア6勝、マウンス3勝で汲み上げる形(右は入来[いりき]2勝のみ)。さらにベイルは'05年抑え転向~これを全うしイメージ縦断・・・'06年は抑え11登板=6S[セーブ]、中継ぎ14登板=1勝7H[ホールド]、に先発も5=0勝と御礼行脚のごとく全系譜を巡回した。だが先発・ベイルの不在は'05年、右の入来が(20先発)6勝、パーラも (7先発) 4勝を挙げ、マルティネス (18先発)8勝だけの左をリード、の展開を生んだ。が、右方'06'07年とも0勝。の一方、左は'06年マルティネス(23先発)6勝、'06'07年中山慎は計(9先発)3勝・・・で、それほど伸びのある数字ではないが主導権奪還。しかし'08年、右方が助っ人を一挙3名投入。それもネルソン&パウエルは身長2m前後、パウエル&シコースキーは体重100kg前後と否が応にも目を引かせる体格で、投球するだけでアピール可能な逸材ばかり。左右投比率でも前年5:2→2:5と逆転した{※4}。
 そして、「49」像の発祥地も“右腕輩出番”。 まず'53年、テスト生スタートの小山が終盤16登板(10先発)5勝1完封、から通算320勝を挙げる大投手となり、'56年からは皆川5年連続2桁勝利{※5}('57年~18、17勝)、脱番後も引き続き3年、7勝を挟んでさらに4年と続け通算221勝。'63'64年宮崎は主に中継ぎで各4勝。'65年からは石戸が8勝18敗~11勝11敗 (5完封)で各200イニング前後、脱番後引き続き3年2桁勝利。から'68年淵上25登板(7先発)3勝。'71年江本は26登板(4先発)0勝、も脱番より8年2桁、通算113勝。'74年には加藤英が中継ぎ役38登板&前後年半定着。'82年新人・金沢は開幕から26 2/3回無失点デビュー、以後主に中継ぎで5勝~翌年は先発へ回り10勝、脱番年にも10勝~2年後再10勝。この他'57年坂口、'72年上田、'77年宮本、'83年香坂、'86年川本(に'62年宮崎=完封)が出番わずかも各1勝でプチ頭角を現した。そして文中、小山・・・川本間で左腕は上田(に先記の久保)だけ。
 また野手も土屋、木下、小川敏、吉田孝、長谷川、井上洋が短期も含め脱番後レギュラー(格)に巣立った{※6}が、通算安打は最多で土屋の826と輩出実績の差は歴然。「49」での発現も'79'80年二塁半レギ・井上の他、外野控え要員で'63年会田[あいだ]、'70'71年長谷川(’65年も半定着)に'77年井上、三塁控えで'72年松井、代打で'72年坪井(に半定着だが'68年金[こん])が目に付くぐらい。大リーグ7年(遊撃)レギュラー・ベルサイエスも'72年7月~48試合 .189、4本に終わった。
 ところでこのベルサイエスはキューバの出身。またオレラーノ、クルーズはプエルトリコ、ディアス、'08年着のゴンザレスはベネズエラ、デラクルーズ、'91'92年着のゴンザレス、マリオ、ルイス、リベラ、パーラ、マルティネス、F. グラセスキはドミニカ出身。さらに脱番後に吉本、徳山、鴻野[こうの]が韓国、佐藤秀が台湾、入来[いりき]が米国でプレーし、加藤安は米国、酒井光は台湾で(酒井は代表チームでも)コーチを務め、逆に新浦、柏田、小関(にクルーズ、パーラ、'08年時のシコースキー) は他国球界~日本帰還後「49」着。と国境を越えての人材交流が盛ん(加藤安、入来にブライアントは脱番後離日~のち別番にて帰還)。
 そして'08年、新たにイスラエル出身・ネルソン、台湾出身・インチェ、ブラジル出身・ユウイチが来番し国際色拡大。また、いつの間にか投手番色が濃くなったところへ前年終盤33試合ながら一時は四番で.340、3本マークのユウイチ加入&1軍定着気配萌芽中の上本、天谷[あまや]と旬の成長株が揃い、打→投と渡った“左イメージ”が再び打に着生する可能性も。
【2008年開幕時点】

{※1}第6戦の2回、中堅飛球[センターフライ]では(背走好捕するも)“二塁走者”の生還[ホームイン]を許し、8回には中[センター]前安打時の山なり送球間に“一塁走者”が生還、で1-3で敗れ、シリーズも敗退。
{※2}子供のミドルネームに“オー”と入れたほどの心酔ぶり・・・そして巨人大先代・近藤は「長島(茂雄)の恋人」とも呼ばれた打撃投手専従者の草分け。
{※3}'99年も阿波野6年ぶり先発勝利&菊地原初勝利(先発)、オレラーノも初の先発勝利。
{※4}また“(観客への)万歳誘導パフォーマンス”を定着させたクロマティ、から特異打法駆使者の種田と渡った球場温度急上昇促進プレーヤー系譜を、登板時の投球練習前に“右腕全力猛回転”する儀式が外伝的売り物化しているシコースキー、が再継承。
{※5}当時ホークスでは長光告直[つぐなお]「46」や祓川[はらいがわ]正敏「53」などレギュラー投手の重量番ばやりで、皆川はその長兄格・・・だが'59年~11、10勝と伸びを欠き「22」へ(と、入れ替わりで「55」森中千香良[ちから]が登場し、同球団の新たな伝統担い手として定着する)。
{※6}クロマティ後はブライアント、吉永、畠山、酒井忠、1年咲きも西浦がレギュラー級進境・・・通算安打は吉永1057が最多。再輩出なら現役・種田1102(うち来番前383)。投手は古溝、遠山、菊地原が同進境(&丸尾が'02年社会人野球界ベストナイン受賞)。
【2008年開幕時点】