2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

48

【2008年開幕時点】

 

 '37年に監督兼外野手の桝嘉一が「50」を着けレギュラー、の前例はあるが、その後戦前・戦中は最大背番号「39」、戦後も'46年「32」→'47年は最大こそ「50」も選手出場4試合(監督兼投手、2番目の「40」も助監督兼捕手で選手時1試合)、でレギュラー選手では「32」。'48年も最大「50」・・・も 17登板(3勝3敗)60 2/3イニングで、レギュラー級選手では小林恒、の「48」。同じ17登板ながら129回[イニング](3勝9敗)を投げ、この時点での投手(および選手専任)では史上最大番主力活躍となり、「48」像がムクッと起き上がった。
 一旦クールダウンするが、'53年杉川が35登板で先発2も107回の準主力奮闘3勝5敗でイメージを揺り戻させると、'54年、高卒1年目の中川が終盤初先発で完封勝利。そして'55年、中川が200回超を投げ18勝(5完封)、防御率は2.08でリーグトップと大活躍・・・当然翌年軽番出世を果たしたが、7勝に終わって'57年「48」復帰。だが1勝→'58年7登板のみ(0勝)とさらに減退('59年以降は主に救援役で定着し計5勝)。ただ、'57年には軟式の草野球チーム出身~テスト入団3年目・土橋が準主力定着5勝2敗・・・税番後エースへ躍進、で「育成番」の地位確保{※1}。'59年にも山野本が半主力定着で3勝2敗を挙げた他、'54'56年山本義、'59年小野木&前岡、'60年藤野がプチ定着して各1勝。
 一方野手は'55年~田中(岸上)が守備走塁要員定着し ('57'58年は半レギ格)、同役割で'55年中村敏、'56年渡辺光(=10盗塁)、'61'62年西野忠、'64年前岡、'66'67年田中辰も一定定着。'65年には今津が遊撃半レギ弱、'67~'69年三村は一塁以外の内野控えで、両者とも脱番後遊撃レギュラー着座。また投でも名の出てきた前岡は、2軍で'59'61年最多勝~'64年盗塁王の飽和活躍→'65年には今井が本塁打王&打点王を獲り1軍揚々昇格も、'65'66年計34打数4安打(15三振)で消沈・・・'69年再び2軍で打点王。とカラを破れなかった。が、入れ替わって、の内田が'70年代打定着(.115)→'71年準レギ格で.307 3本塁打。に'68年佐々木孝が代打半定着。そして'59年~渡会[わたらい]が控え捕手に定着・・・するも当時ホークスの捕手は野村克也の独壇場。故に捕手出場は('58年2も含め)'65年まで計55、打席に立ったのも(58年1を加え)179(25安打 2本)で、帰着の'68年以降はグランド出場0にかかわらず161試合でスタメン起用されたブルペン捕手兼「偵察メンバー{※3}」('68年65、は“代行先発{※4}”出場のシーズン記録)。離番時と併せ通算「アテ馬{※5}」回数が全出場試合数の約6割を占める陰キャラとして“名”を売った。
 その間、投手「48」像もなかなか日の目を見れず陰の存在と化していたが、'68年に川畑がプチ頭角(1勝)を現すと、'69年22登板(4先発、48回2/3)3勝の半主力定着。'70年には松本が同じく半主力台頭2勝~脱番後、土橋に続き“「21」番エース”出世。だが間柴は'70と'73年トータルで半定着の0勝7敗と全くツカず、川畑は脱'70年にドラゴンズの大看板・江藤慎一のトレード相手に突如指名され“裏”知名度急上昇、と陰イメージが逆流入して再び沈静。
 野手も'70年代は、益川が控え半定着→'75年主に遊撃で半レギ・・・も'76年2試合、に替わって'77年川村が守備走塁定着・・・'78年出場0と苦戦。が'81年、松永{※6}が三塁控え定着→'82年レギュラー獲得し12本 21盗塁 (.236)、日本人初の1試合両打席本塁打&両打選手初のサイクル安打記録とカラフル台頭~脱番後も主力で長期定着。前後では'80'81年松崎、'81'83年柳沢が守備走塁一定フォローを入れ、以降も'84'86'87年湧[わく]川、'84'85に'89'90年高橋忠、'85と'87~'90年吉田、'89と'94~'96年小森が同役一定定着。'84'86年佐々木正は代打役半着座。また'87'88と'92年に桜井が主に二塁で控えとなり、'88年は5本 16犠打(.252)と持ち味半発現。加えて吉田が脱番後遊撃レギュラー、で「育成番」イメージも(松永分と併せ)回復{※7}。
 投方は'80年大川~'86'87年清川('86年日本シリーズ3h登板)~'91年石貫(シリーズ3登板)、に'90年山田武、'90年~久保、'94年~島田('94年9勝、'95年10勝、'98年シリーズ~'99年オールスター出場)、'95年~島崎('95年9勝、'96年オールスター1勝)、'97年若林隆・・・で中継ぎ像が立ち上り、'92年白井(9勝、オールスター出場)と'01年成本{※8}(オールスター出場)、に一時的にの'91年久保&白井、'96'97年島崎が抑え役奮闘 ('95年パウエルもプチ着座)。 先発では、'85年より仲田3~7~8勝(ただし全て負け越し、&'85'87年暴投王{※10}、'87年与四球王)、から'88年、香田4勝~'89年6勝( + シリーズ2勝1完封)~'90年11勝、は'55年中川以来の2桁勝利・・・も翌年6勝→'92年13登板(3先発、0勝)と沈下ぶりも踏襲。が、'93年白井が先発転向し10勝(オ―ルスター出場)・・・'94年1勝。香田も'93年8勝・・・'94年2勝と連動。加え'88'89年久保、'92'93年島田に'95年パウエル半躍動(平均各年2勝)・・・で'90年代後半は中継ぎ勢に呑まれていった。
 そして中継ぎ陣の向こうを張ったのが、'97~'99年遊撃レギュラー格の武藤(計49盗塁 92犠打、'98年オールスター出場)、'00年準レギ格 →'01'02年遊撃レギュラーの井端(計26盗塁 51犠打、'01'02年オールスター出場、'02年ベストナイン)、'99年準レギ格→'00年三塁レギュラーの岩村(計29本 20盗塁、'00年ゴールデングラブ)、'99年途中から一塁兼外野準レギのマルティネス(計43本、'00年シリーズ出場)、と出た野手方。'99年には本西も半レギ助勢。
 と、ここで大外より岩隈が'01年8先発で3勝(1完封)~シリーズでも先発(序盤KO)すると、'02年主力先発で8勝→脱番後、3人目の“「21」番エース”に。で一挙にイメージレース本命の印象風を吹かすと、それに続けと'02年後藤が5先発で1勝、'03年にも阿部健が3先発2勝(1完投)と次代頭角を現すが、ともに翌年以降0勝で予感消滅。逆に'03'04年天野が中継ぎ ('03年石毛、'06年相木もプチ)奮迅し、'02~'04年と半先発要員(計5勝)だった高木晃が'04年途中より中継ぎで定着と印象反転{※11}。起用法問わずの'07年フェルナンデスも11度の先発では1勝しか挙げられず(救援では19登板2勝2H[ホールド]、トータル準主力定着)で軌道修正ならず。ただ'08年、表層上は中継ぎ実績者の萩原、吉野が加わって流れ拡大の感アリも、ウィリアムスは先発即戦力候補、3年目・甲藤[かっとう]を含め原石も5人と予断不可。
 また打陣も只中の'02年、クレスポ&竜太郎が微定着。から竜太郎が'03年半レギ7本(~'04'06年は控え各1本・・・以降出場少)、続いて矢野謙'05年半レギ7本→'06年準レギ(6本も11盗塁 13死球と泥臭くアピール)→'07年代打役に回るも時おりスタメン時と併せ7本と地熱維持。新スピード像の申し子・澤井も'05'07年と準定着しイメージ乗り継ぎ中。さらに'08年、長らく沈滞中の捕手陣へ新体現者・伊志嶺が来入。 それもかつて渡会の前にカベとして立ちはだかった野村克也が監督のチームへ入団{※12}と澱[おり]を一掃させる舞台も整った。
【2008年開幕時点】

{※1}出番少の中からも笠原、橋本力、阿井、久保山、山本義、川上・・・久代、浜崎、井上、今井、に審判{※2}で岡田、山本文 ('69年までの脱番者)が1軍戦力台頭。
{※2}岡田の通算3899試合は日本記録。山本の3565試合も歴代3位。 また岡田は'69年日本シリーズでの本塁クロスプレー時の「セーフ!」判定で、シリーズ史上唯一の退場者を出すほどの猛抗議を受け、翌朝、新聞紙上に“捕手のブロックの隙間から本塁に触れる走者の左足”写真が掲載され、で一転名望起床の表題的ジャッジも産出。
{※3~5}相手先発投手が右投か左投か読めない時(統計的に右投には左打、左投には右打が有利とされる)、形式的に先発ラインナップに加わり、相手投手の左右が判明した第1打席目(もしくは初回守備時)から本番要員と交代させられる選手のこと。
{※6}'78年用具係兼練習生、の下積み期間有り・・・のち白井も'87年打撃投手~翌年選手契約。
{※7}'70~'80年代は他に間柴、中井、斉藤巧(=は再頭角)、中谷忠が脱番後1軍戦力台頭。
{※8}同年カムバック賞受賞。またマルティネスは'99年途中日本球界復帰~入番。若林隆は'99年野手カムバック~退番後はアマ球界復帰{※9}(=他にも馬渕、井手元、相木、に高校野球部監督で佐藤文)。また近年、清川、香田、久保、島崎が(一旦離団~)「48」着時の所属チームへコーチとして復帰(成本も「48」着前のプロ始動球団同職)。
{※9}逆に他のプロ球界参戦組で天野が四国アイランド~BCリーグ、 竜太郎もBCリーグへ、また他国球界挑戦者に柳沢、成田、松永、羽根川、谷口、成本、湊川、岩村。
{※10}また二塁への牽制球が大きく的を外れ、何とそのままセンターバックスクリーンへダイレクトで飛び込む、という記録には残らない「暴投」も。
{※11}加えて北野、前田、柴田を脱番~中継ぎ輩出。先発では帆足が仲田に続き“左のエース”候補で「34」へ、を踏襲~一定成就。野手は佐々木明、黒田がベンチ台頭。
{※12}野村がらみでは橋上、成本(に'98年別番時で白井&高木晃)も「野村再生工場」員として各々移籍入団。また井端は少年時代に野村の助言により(投手→)内野手転向した他、森谷の長男・昭仁が現在(=2008年時点)野村監督下でプレー(橋上も参謀役)。
【2008年開幕時点】