2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

47

【2008年開幕時点】

 

 小山の登場で“投手”番となり、工藤の活躍で"左投手” 番となった「47」。この2大奇跡によって敬慕の眼差しを受けるようになったが、揺籃[ようらん]時は当然、無銘[むめい]の存在。その中にあってまず最初に"漂着”したのは、'56年保坂〜'57'58年和田とレギュラーを生んだ捕手一派。特に和田は両年とも優勝経験、'57年日本シリーズでは第5戦の5回に勝ち越し本塁打〜(裏イニングで逆転された直後の)6回満塁ランニング本塁打を放ち、日本一決定の殊勲者に。
 この間投手は、'56年まで原1勝6敗、'57年、中野 0勝5敗、山本義0勝6敗と散々。
 だが'58年、第1奇跡が訪れる。 すでにプロ5年間で55勝マーク、ながら「49」「6」「14」 「8」と定番を持たなかった小山が、「47」 着の当年、初の20勝{※1}クリア。以降'60年まで、に '62・'64〜'66年と20勝以上 ('64年は30勝)&300イニング超を残し、「47」 を "小山の背番号"にした。
 残党の捕手像は'59'60年控え→'61年準レギ格の村田が続くも、 以降は'70年岡田控え定着に、'65'69年岡田、'67年大塚、'70'73'74年川野(=ちなみに和田の高校後輩)が微出場するに留まり、イメージ預金が底をついた。ただ、 短期間にレギュラー級3人を出したのは大健闘である。
 逆に投手は小山の孤高ぶりが顕著で、'64年に田中調[みつぐ]が2勝するまで小山以外の勝ち星は0。から田中が翌'65年17勝、 より10、11、9、9勝を挙げイメージフォロワー着任 ('68年は4勝の小山を上回る活躍)。 また '66'68年北角、'68'69年池田、'68年川内(に'70年田中)が5勝前後、'72年大羽、'72'74年吉良、'76'77年三浦(に'71年田中)各1勝と“追慕”の声も顕れ始めた。
 一方、 野手陣は'5960年と河野[かわの]が守備走塁要員〜半定着レベルだが'71'72年盛田も走で台頭。また'73年久保 (主に三塁)、 '77~'79年大隅 (一塁) は守備要員定着。 '76~'78年関東、にプチ胎動 (6安打1本塁打) ながらの'80'81年山本和は代打要員とジワジワ外堀でにぎわい始める。
 投手方も、'80年藤原がショート中継ぎ役50登板〜'82年11先発6勝(2完封)、'82'83年工藤も同役で計50登板(うち先発2) 〜'85年14先発8勝(8完投)と、“割れるカーブ”武器の本格派左腕が続けざま伸長。藤原は骨折ダウンで以後0勝も、工藤は'86年より3年連続2桁勝利〜2年低迷のあと、16、11、15、11勝を連ね、日本シリーズには'94年までで11度出場〜8度日本一。かつて'56~'58年連続日本一を味わった和田同様、 ライオンズ黄金期の一役を担った。
 右腕勢は欠端[かけはた]が'82'83年各30登板前後(10先発程度)で計3勝、から'84年坂巻が準先発定着して6勝+救援1勝で'72年小山以来の規定投球回到達。 同じく'84年、右田も9先発4勝+救援2勝、倉田も救援2勝。翌'85年は3人揃って沈滞も、小山同様長身痩軀、加えてパームの小山 (オリオンズ移籍以降)と同系の“落ちる球”フォークをウイニングショットに持つ金石が準先発入り、6勝〜'86年12勝&防御率セ2位。そして11勝&防御率パ4位の工藤と相対することになった日本シリーズでは、初戦引き分け〜カープ3連勝(金石は第4戦先発好投も勝ちつかず)で迎えた第5戦、10回から登板した工藤が12回裏サヨナラ安打を飛ばし、ここからライオンズ3連勝。 迎えた最終第8戦、カープ先発・金石が3回に先制2点本塁打、も6回同点2ラン〜8回勝ち越しタイムリーを浴び降板{※3}。 するとその裏工藤が登場し、残り2イニングを締めて胴上げ投手(&シリーズMVP) とまるでのちのイメージ展開を暗示するような結末で幕を閉じた。
 ちなみに工藤は当年シーズンでも(完封) 胴上げ投手。 翌年シリーズでも (完投)胴上げ投手(&連続MVP) 〜'91年シリーズでも(5回からの救援で0封)胴上げ投手となった。 一方ヒーローになり損ねた金石はショックが尾を曳いたように'87年5勝、以降も5勝前後で推移し、移籍退番。 '91年には5年ぶり優勝を味わったが、シリーズでは2勝マークの工藤の傍らで、ショート救援3登板に終わった。
 だが、この時点で“左投手”番として確立されたわけではない。むしろ'88年に嶋尾〜'89年に木田が各初先発で初勝利、と長身痩軀右腕の台頭が続き、木田は'90年17先発 13完投で6勝+15救援 (全て完了させ) 6勝7Sで防御率セ3位、&優勝寄与。 開幕2戦目には8回から救援〜12回にサヨナラ本塁打を放つ大車輪活躍。・・・が翌年4勝1S→3勝で改番。 嶋尾は'92年中継ぎ&谷間先発でほぼ帯同・・・も肘痛で以降0登板。'93年〜中継ぎ奮闘の秋村は移籍、'94年抑え準頭角を現した渡辺伸も改番で去り、シグペン {※3}も'94年前半戦終了間際の一瞬着番。'90年島田、'91年永野、'92年高田はプチ孵化レベル。で、結局は工藤の独走の様相となり、左のショート中継ぎ・清川が ('94年は渡部もプチ) フォローを入れる構図で定着。
 並行して、'84年プロ第1〜2打席連続代打本塁打デビューを飾った村上信、'89年プロ初打席代打本塁打の広永が、以降も代打(を中心に村上 '85'90年、広永'90〜'92年は半レギ格の出番獲得)で"関東イメージ”を継承し、こちらも “左” が主導権を握る (&'88年無安打ながら19打席=全て代打で2打点の仲根も一端介入)。 右方は '89年斉藤、'92年小川淳が主に代打で準定着するが単年止まり。 加えて広永の、先の初打席弾は当年開幕試合、つまりは平成に入っての当機構(NPB)第1号&ダイエー球団第1号というタイミングで飛び出し、'90年には当機構通算6万号、'92年パリーグ3万号〜同年本拠地最終戦では、遺跡発掘のため取り壊しが決まっていた (&かつて和田が所属した西鉄ライオンズ本拠地でもあった)平和台球場最後の本塁打を架け、と「記録に残る{※4}」本塁打を打ち続けたことも左優勢に拍車をかけた。さらに'94'95年とライマーが五番に座り('94年当初の「10」番時も含め)計36本。から '96年ライディが準レギ7本、'98年度会[わたらい]が半レギ4本〜'00年代打で再('99年山田もプチ)頭角と右攻勢も見られたが、'98年日高が半レギ〜'99年以降正捕手格でイメージ軸はブレない。この後ライオンズの細川も'03年半レギ〜'04年以降正捕手格(〜和田同様に"卒番") と再び右傾化を働きかけるが、'03'04年井上純準レギ格でイメージ防衛〜'05年は出番激減ながらプレーオフ、日本シリーズの両方で制覇決定ボールをつかむ強運ぶりで「広永番」健在もアピールした。
 さて話戻って'95年、投方は「工藤移籍脱番→若手の野口茂入番」の大きな転機を迎える。 が、新鋭・野口は準先発定着&'96年には無安打無得点の会心作を披露もトータルでは2年で8勝→'97年0勝。フォロー役・清川も'96年が最終奮迅年。その'96年に準定着した前間が後継となる目もあったが、翌年衰勢→逆に清川が “カープ 「47」”の後続に就く結果に。反して右は'95年抑えで半台頭した西山が'96年〜中継ぎ役、伊藤敦も'97年〜中継ぎ定着。さらに'97年先発半定着の関根が'98年〜3年で計31勝{※5}。加えて新たな “落ちる球” 遣い、ナックルボーラー・マットソンが'98'99年と準、礒も同時期半 ('95年バークベック、'97年フィアリー、'98年寺本比、'00'01年神田もプチ)定着と一団頭角を現し、席巻気運も漂った。が、雪崩れ(向かいかけ)渦中の'97年、工藤が 「47」 復帰。 再び音頭を取ると、'99〜'00年と異なるチームでシリーズ連続初戦先発('99年は完封)〜ともに日本一。であたかも優勝後見人のような風情となり、個人的にもシリーズ通算奪三振でトップに立った(〜'02年にも出場、分を加えて102個)。そして、導かれるように野口が'98年14勝、さらに'99年19勝を挙げ、同年シリーズ初戦で工藤と相先発する「エース」へと成長していく。 '01年には前田浩が先発入り、7勝〜日本シリーズでも好投(勝ち負けつかず)。 続いて02年、工藤同様 “カーブが武器”の小柄ずんぐり左腕&高校時甲子園でノーヒットノーランの共通項も持つ杉内が敬慕着番('05年以降は“スライダー投手”に変容)。2〜10〜2〜18〜7〜 15勝と激しくアップダウンをくり返しながら'05年、工藤、野口に続く「MVP左腕」 襲名&'03年('87年工藤以来の)シリーズMVP獲得。結果、投手の左右比率が01年より3:7→5:5→7:2とあからさまに左傾倒。また'06年着・帆足は前番号で2年連続2桁勝利した上での有言参入& “パーム遣い”でもあり、小山の特徴も併せて踏襲。翌'07年、青木、延江は長身痩軀像を継ぎ、左浸透圧ますます増進。その拡張ぶりは'04年、工藤が通算200勝達成試合でプロ初本塁打記録と “広永イメージ吸収” にも及んだ (〜先記通り、翌年井上が一矢を報いるが、そのかいもなく'08年、ラインナップから野手消滅)。
 だが'08年、かつて小山が在籍した球団より白仁田、 手嶌[てじま]の両長身右腕がイメージ反旗を掲揚。 また左は工藤が40才超、杉内は隔年活躍癖を抱え、帆足は参入途端の故障で2年計7勝。加えてラス3勝9敗、松崎計1勝14敗、青木も5勝11敗、フォロー役の中継ぎには '04年田中充が現れたのみ・・・と左翳りも窺え、新転回が成る余地は充分。
【2008年開幕時点】

{※1}プラス「針の穴を通す」制球力でセ記録となる10無四死球完投 ('62年も同10) 、通算73は当時新〜現2位(セでの47は1位)。'62年 (セ記録の5連続含む)13完封もセ記録。
{※2}'90年57Sの大リーグ記録樹立。入団当初「47」でプレー〜着け慣れた「37」へ途中変更。

{※3}6回に浴びた同点2ランは、打った秋山幸二がホームインの際にバク宙を披露したことで、より「打たれた」感が強く遺る形となった。

{※4}脱番後も、'98年にマリーンズ17連敗=新記録を確定させる代打満塁サヨナラ本塁打。
{※5}'01年~再び半定着。他に伊藤、&'01年神田2勝、'03年堤内1勝、が新世紀右腕実績。
【2008年開幕時点】