2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

34

【2008年開幕時点】

 

 この背番号はほぼ金田正を下敷きにイメージ構成されている。それまで、玉腰が'40年に半レギ~'41'42年レギュラー、山根が外野補完要員。投手は'40年玉腰が初登板初完封の1勝、'43年中村4勝、'50年(5月に)荻原1勝。そして'43生は開幕前背番号廃止となっているから、'50年8月に金田が着けるまでは何の色も付いていなかった“補欠番号”。そこから、'50年の残り3ヶ月で8勝12敗、翌'51年から14年連続20勝以上(30勝以上も2度)&300イニング超(400イニング1度)の大エースに君臨し、「34」は“金田一色”に染まる。通算で400勝&298敗とも日本記録。投球回5526・2/3、奪三振4490 、完投365に救援勝利132 も歴代1位。2位の登板944、完封82はセリーグ記録。万年Bクラスのスワローズにあって(='61年のみ3位)毎年のようにチーム数数の約半分(半数超も3度)を稼いだワンマンエース。付いた仇名が「金田天皇」。その孤高ぶりは「34」内においても顕者で、'51年6勝の荻原は金田来着前の入番者だが以降の、'56年~4年で30('59年10)勝の義原[よしはら]、'62年突如花咲き17勝~を含め5年で2桁勝利4度、'65年には同じ11勝の金田とセパの防御率ダービージャック〜'66年は不振の金田(5勝)を上回り15勝を挙げた三浦清、'63年8勝の牧、'69年18勝・・・の金田留が選手期間中に影踏み台頭。同期間中台頭した野手(&捕手)の'59~'61年八田、'64年伊藤、'67年苑田[そのだ]、'67~('72)年池辺、'68~('70)年福富のレギュラー、'57年君野、'65'66年伊藤、'66年池辺&東条の半レギュラー陣とは、投から金田が抜けてちょうど互角の印象。また、'56年に青木、君野、河津が控えで定着するまで、2リーグ分立後に“打”の先鞭を着けたのも金田正。通算で38本塁打(投手出場時での36本は日本記録。代打、サヨナラも各2本)の強打を誇り、 敬遠も7度経験。'50~'55年は打席&本塁打とも「34」選手最多、その後も'58'62'63年打席、'57'62年本塁打で最多をマーク。累計でも本塁打は'69年に池辺に抜かれたが、打席は最後まで1位をキープ('69年終了時点で金田2233、池辺2036。'70年に池辺~'82年に立花に抜かれ現3位。ちなみに安打は*1'60年まで金田、'61~'63年八田、'64~'69年金田、'70年~池辺が累計トップ)。さらには、“左腕・金田”像の屹立によって(当時、各シーズン規定投球回到達者の合計約30~40人中、左腕は6~8人と希少ながら)「34」 投手の左右比は'67年以降ほぼ同数推移となる。しかも先記の選手期間中の台頭勢では左腕は義原だけ、次の台頭も'78年まで訪れない状況下で、“残像”だけで左腕占拠率を維持。自身も普及活動の一環として、ジャイアンツ移籍時には“強打者のタマゴ”相羽から、監督就任1度目には野手1番の実績者・池辺から、2度目には右腕投手・笠原から、各々「34」を強奪。'74年に弟・留広(=右腕)がオリオンズへ移ってきた時も、“まだ半人前”とばかりに「17」へ改めさせた。
 そしてこの監督期間というのがまた濃密で、のちにパリーグでくり返されることになる事象{※1}が先駆け凝縮発祥しており、'73年パにプレーオフ制導入(前・後期に分けての各覇者同士による3勝先取制・・・'82年まで採用)、同年仙台に“おらがチーム”誕生(ただし準本拠扱い=県営宮城球場でオリオンズが年間約30試合主催・・・'77年まで)、その前期終盤、首位争い中のオリオンズが“開催時間制限のため”引き分けでのV消滅危機を迎え(るもギリギリサヨナラ勝ち~翌日敗れ2位)、オフには球団合併騒動(オリオンズ、フライヤーズ両球団が同日発表~も翌日撤回)、その渦中にいた「ロッテ(オリオンズ)」が翌年(後期V~) プレーオフ制覇~日本一。この間、陣頭で道化となって喜怒{※2}哀楽を全身体現、チーム、ひいてはリーグを盛り立てたのが金田監督(というより「カネヤン」)で、就任前年6500人だったパの1試合平均の観客数は'73年10400(前期に限れば12600)人に激増。当年オリオンズ主催の年計94万6500人は当時のパ新記録。翌'74年もリーグ1位を記録。以降は徐々に平穏に戻り、'78年川崎移転で(観客数)5位。そして2度目退任時の'91年、限りでチームも川崎を去った。
 さて、金田の選手引退後の選手「34」は、野手では引き続き福富'70年まで、池辺'72年までレギュラー。ともに玉腰~八田の流れを汲む俊足好打者で、池辺は'60年代含め打率3割超1度に20本塁打超2度、'69年には16盗塁、'70年27犠打(=リーグ最多)と多芸。また'67年池辺 、'69年福富は各リーグ二塁打王。苑田は'68年からは内外野兼務の万能控え要員で定着、内野の控えで矢島、米田、西村も台頭。米田は'70~'75年、苑田は'72~'74年、西村'73'74年と準〜半レギ機会を獲た。その後'75年~復刻番・池辺が'78年まで再レギュラー。'78年~立花は好打の流れ汲み、'80年3割18本(8盗塁16犠打)、引き続き'83年までレギュラー、’83年日本シリーズで決勝逆転2ランも放った。'82年には劔持[けんもつ]準レギ(10盗塁20犠打)&マークも半レギ。だが'84年田中昌が控え96試合、からは'90年小松崎代打要員微定着。のあとの'94年クラークが99試合ながら規定打席に達し.293、20本。 に'02年エバンス途中加入後準レギ、15本~日本シリーズでも1本。その他'96年中島、'99年嶋がともに控えで40試合台、と沈静。
 一方投手は金田正が退く'69年、弟・留広18勝、2年間不振の三捕清12勝と右腕勢躍進。以後金田留'72年まで連続2桁勝利(20勝台2度)、三浦も'73年まで10勝前後。さらに'73~'76年松原、'76~'78年高橋里('77年20勝)と続きイメージ右傾。も'78年平沢が準先発2勝(11敗)、に村田中継ぎ台頭~'79年先発転入12勝(~'88年まで定着)と左腕像再建。だが右も'79年「(同時期登場のため)スピードガンの申し子」と謳われた剛球ストッパー・小松が22SP[セーブポイント]。翌年エアポケットに陥るが、'81年抑え[ストッパー]→後半先発で12勝11S(15SP)。同年岡部も13勝。'82年小松初開幕投手~も故障~後半抑えで復帰~最終戦2度目先発=これが優勝王手試合で、見事完封で胴上げ投手に。も、活躍気運の整った翌'83年は7勝止まり〜オフ自チームエースナンバー(=「20」)承継。そして小松、に金田留、松原、高橋が軒なみ脱番後に再ブレイクしたこともあって右イメージ急落。ながら左も、村田'80年以降勝ち星伸びず停滞。“金田2世”候補の三橋[みつはし]豊~黒坂も開花せずトーンダウン。から新顔の左方・'83年15勝~'94年まで先発堅守、'86年~6年連続2桁勝利の川口、と右方・'84年新人で開幕投手務め10勝~'88年まで、と'92年各10勝前後('87年は後半抑えで14SP)の高野、の戦績の差、プラス村田が'86'88年2桁勝利返り咲き、森が'86~'89年中継ぎ定着のフォローが入って(全11人中)’88年9人~'89年8人が左腕投手という布陣が現出。さらに仲田が'88'89年開幕投手、'88年終盤には山本昌が8登板で5勝、6先発で2完封(~以後先発定着、2桁勝利9度)を挙げる。おまけに高野が'89~'91年肘痛ではぼ全休・・・。ただ、川口はカープ先発3本柱の2か3番手。山本も“両輪”や“左の”付きエース。という中で、'92年それまで他番時含め計33勝66敗の仲田が14勝(12敗)、イニング&奪三振&完投はリーグトップと「エース」名乗りを挙げる。が、翌年以降10勝21敗で逆戻り。戦力定着も94年まで。同年オフ川口も移籍退番し、'94'97年とベストナイン &防御率3位以内に5度の「遅球本格派」山本昌の単独統治に突入。台頭勢も'97年3連続無四球完投勝利(=パ・タイ)含む7勝マークの吉武、'99年9勝の福盛(両者右腕)に、'08勝吉崎、'04'05年2桁勝利の帆足[ほあし]と緩急駆使型。'00年にはその道の大家[たいか]・星野も来番、同じスロー仰望球(カーブ)使い(=元をたどれば金田正も)の田中由、小池、金田政も集ったが、小池の中継ぎ奮闘の他は期待倒れ。山本昌、仲田、川井、吉崎、渡邉のスクリュー族に続く興隆展開ならず{※4}。また'96年~吉武、'97年~福盛、'98年北川哲で一時右先発台頭続くも、皆半結実で再び'00年7~'01年9人の左占拠。ながら左も山本昌&中継ぎ・橋本武、以外は'00年星野、'03年吉崎、'04'05年帆足の先発、'94年木下文、'02~'04年川井、'03'04年小池、'02年ニューマン、'03年湯舟[ゆふね]、'05年吉崎、'07年渡邉の中継ぎとも息が浅く、'06年帆足脱番&再び右多勢編成。となり'03'04年ベバリン~'05'06年ガトームソン各10勝弱に'04年本柳[もとやなぎ]、'06年ギッセル各6勝の先発、'00年福盛、'03'05'06年吉武、'03'07年本柳、'04年山田博、'05'07年橋本健、'07年シコースキーの中継ぎとも左と肩を並べるほどに右腕イメージ侵出。そして'07年、吉川が先発4勝(1完封)と左に新星誕生予感。同2勝三橋直と、川口vs高野ばりの左右イメージレースへ展開なるか。
【2008年開幕時点】

{※1}'88年優勝王手のバファローズが“時間切れ”引き分けでV消滅。 '04年パでプレーオフ制導入(1~3位による巴戦)。'05年仙台を本拠とする「東北楽天ゴールデンイーグルス」誕生。'04年に合併がささやかれた「ロッテ(マリーンズ)」が、翌'05年日本一。
{※2}'73~'74年ライオンズが集客のため仕掛けた金田との舌戦はいつしか“怒”を超えた事態へと発展、オリオンズナインは試合後球場に“館詰め”〜護送車で帰宿するハメに。
{※3}同'80年よりノーラン・ライアン'93年選手引退まで「34」着。小松と日米速球王揃い右像進撃~'84年、左腕・川口が対オリオールズ親善試合1-0完封で右侵攻シャットアウト。
{※4}'07年前田&吉川のブレーキング懸河球(カーブ)使い参入。前田1年退番も吉川すでに発効中。
【2008年開幕時点】

*1:玉腰の記録を抜いてから