【2008年開幕時点】
主役の影に配されてきた次点ナンバー。そのイメージ発現人は梶本、毒島[ぶすじま]の長身良識派の両人。
梶本は20勝以上4度の超一流実績ながらノンタイトル{※1} (奪三振数は当時タイトル選外)。 高卒1年目に20勝を挙げても新人王すら獲れなかった(同年宅和本司が26勝・・・こちらも高卒1年目)。 また通算200勝以上の投手の中で唯一の負け越しを記録 (254勝255敗) していて、 '66年にはその時点で通算194勝の大物にもかかわらず、日本記録のシーズン15連敗(〜翌年1を加えた連続シーズンでの16連敗はパ記録)。そして'54〜'57年はチーム勝ち頭、から'58年以降その座を後輩・米田哲也にとってかわられたことで、コンビの愛称が「ヨネカジ」 と後塵を拝す形で流通。 これはゴロの良さも一因だが、梶本が成績上位ならこんなに “サラッ” とは定着しなかったはずだ。
チーム内での力学変化といえば毒島も同じく'55~'58年とチーム最高打率、 ’60年以降はその座を後輩・張本勲に奪われた('59年は西園寺昭夫) 。 加えて'57年打率3位〜'58年同2位と“あと1歩”が 続き、通算安打数も 1977。 トレードマークがリーグ最多を4度記録した「三塁打」 で、その通算数 (106) も福本豊に抜かれ現在2位というのも、重ねて“らしい”。
平成に入ると江藤智 が'93'95年本塁打王 &'95年打点王で“不動の四番” に君臨し、「33」従来像の殻を破る・・・が、'00年巨人移籍以降は三、五、六番へ変位して降板、と 「33」の影体質は強壮だ。
この他、 川端が規定投球回到達した '85'87年とも防御率2位(イメージ刻印前だが52年甲斐も1度きりの規定打席到達で打率2位)。 リベラー〜トレーバー、レイノルズ〜スチーブンスは中軸ながら各々バファローズにて“ブライアントに次ぐ外国人”の衆評で、 高橋重はスピードガン導入時、 速球王・小松辰雄の“逆・向こう”を張る超スローボールで名を売った。また'87'88年郭〜'87年川端〜'95年平井のタイトル奪取も“救援”でのものと “縁の下”イメージがつきまとう ('94年郭は先発でのものだが勝数は8)。
また選手引退後、牧野と島野が各々 「77」 監督の名参謀となり(中尾も脱番後の巨人V9期間中='71年を除いて=二軍監督)、野崎は'75年初優勝した広島でルーツ→古葉竹識と渡る間の“4試合だけ" 代理監督、前'74年にはハンク・アーロンvs王貞治の本塁打競争で峰が王側の打撃投手を務め、と“主役の影”役を多数輩出。川藤幸三の兄 (竜之輔)、江藤慎一の弟 (省三)、有田修三の兄 (哲三)、野村克也の子(カツノリ)と著名選手の血縁者が多い点もマイナー感を助長する。現役にも、高校時故障のためサードベースコーチャーとして暗躍していた平石、という“影”の逸材がいて、こうなると球界一の主役、長嶋茂雄が着けていたのが奇跡みたいに思えてくる。
それも、'94年は2位に10ゲーム差を付ける独走〜大失速、そこから自ら「国民的行事」と詠んだドラゴンズとのシーズン最終試合相星決戦(史上初)を制し優勝。'96年には逆に首位と11.5ゲーム差、からやはり自ら 「メークドラマ」と謳っての大逆転優勝。 と2度の劇的優勝を指揮。
が、これも江藤智の巨人入団時に「33」譲渡、で “「3」 長嶋”復刻へのフリと化してしまう。さらに00年、江藤が優勝王手試合で9回裏0-4から放った“同点満塁弾”が、次打者・二岡智宏 “優勝決定” ソロ弾へのフリ然となり、'06年、李[イ]が年間四番で広島時代の江藤以来の主役着、するも同年開幕前に行われた第1回WBCでの本塁打王、時に着けていた「25」への復刻を翌年以降行ったため、またもフリ番に。
さてでは生い立ちから振り返ってみよう。 まず'40年、岡田福が二塁レギュラーで22盗塁(7位) 。その他上田が外野補完要員。が中断までの目立つところで、この時点ではノンイメージ。
から戦後、'48年新人・杉山が86で三振王もチーム2位の11本塁打〜'49年31本(=チーム2位。 全体5位) と強打振興。'50年途中加入のベテラン・森谷[もりや]は四番を任され、7本塁打ながら'52年甲斐も四番とイメージ発現。'55年からは毒島三番定着してコンスタントに.270 ~ .280台、'61〜'62年にかけては900打席無併殺打のパ記録マーク (この時は一番打者) 。で、準レギュラーの石川、 伊藤光、 菊川と好打俊足像発。に併せて'52年牧野、と半レギ'51年清原〜'55'56年山村幹、控え'57年藤本伸&山村の小兵内野像も胎動。 一方大柄内野像も大坂〜斎藤達〜相川が一時控えで根付きかけるがこちらは結実まで至れず、逆に小兵側の菊川が'72年規定打席到達。
また健脚像も控えながら'65年島野14盗塁〜'70年佐藤16盗塁で顕在。ともう一派、捕手勢が'54年より吉沢控え〜'57年半レギ~'58年準レギへと陣地拡張、後しばらく無風も'69年より久代[くしろ]控え〜'72'73年加藤俊レギュラー〜'74年村井半レギと再進攻、と同時に強打色をアピール。外野陣も守備走塁要員・五島[ごとう]〜代打・財津へと打色塗布。
投手に目を向けると、'50年42才の若林が4勝(1完封=最年長記録)を挙げ、第1回日本シリーズ {※2}で記念すべき第1球目を投じ、 見事12回完投で第1勝目マーク(=自身最終勝利)。その後'53年江田7勝15敗、の翌年梶本来着。'62年まで連続2桁勝利、から'65年5勝11敗〜'66年2勝11敗と低迷するが、'67年より15, 12, 18勝と復活。
ただフォロワーは'55年から森口3年計8勝31敗に'55年有吉6勝。'64年には速球投手・半沢が8勝 (2完封) デビューする・・・が肩痛で以後1勝。梶本再衰勢の'70年、田辺11勝〜も腰痛で翌年2勝。'72年二軍最多勝の高橋里は首脳陣と合わず退団(〜5年後別番で最多勝)。
何とか'73年、米留学より帰還したかつての20勝投手・高橋重が9勝〜以後2桁届かずも規定到達5度で光明を灯し、'78年、池内が先発&救援フル回転で9勝〜'79年ほぼストッパー定着16SP(この2年は規定到達)〜'80年専任となり12SP、以降はリリーバーで奮闘 ('82年73登板は当時セ記録)。この灯を継いだのは川端。'85年11先発 (6完投2完封)で7勝+34救援4勝7Sのフル回転 (防御率2.72は1位に0.07 差)〜'86年は32登5SPと息切れも日本シリーズ4登板。同年は依田[よた]も40登。そして先発・郭が(前番より引き続き) 4年連続目となる2桁勝利〜'87年ストッパー転向し30SP。川端も全救援57登10勝2S。 翌'88年、郭44SP ( 、37Sとも当時新) &胴上げ投手&MVPでイメージ完全結実。 ただ、 シリーズでは第2戦3イニング&第5戦4 ・2/3イニングのロング奮迅報われず、2登板目の延長11回サヨナラ被安打で日本一献上。 また '89年29SP〜'91年先発10勝〜'93年17SP 〜'94年先発8勝と漂泊をくり返し、徐々に”鮮烈像”枯れ。そんな中、新星・平井が'95年42SP&胴上げ投手と "郭イメージ ”再現。ただシリーズでは第2戦決勝ソロ〜第3戦同点ソロ&サヨナラ3ランを被弾と前走・郭の雪辱ならず。また'95年に中継ぎ台頭した斉藤学、ともども翌年以降失速。かわって先発隊から、('91年郭〜) '96年アキーノ、に続き軟投・星野が'98'01年と2桁勝利 ('98年はシリーズでも1勝) 。〜以後は2桁ならずも'02'04'05年と定着。 救援隊が平井'96'98年、原田健'00年と何とか中継ぎ参画という状況のため投旗頭に。
野手は'70年代後半から原田治、村井が代打定着。それに添うように、'75年山村善初打席本塁打 (〜2打席目も本塁打で史上初の1、2打席連発)、'83年石山(日本での)最終打席で初本塁打 (〜韓国球界入り) の両極トピックを各々代打で産出。また健脚系譜から控え・高橋二、レギュラー ・久保寺を輩出し、山口〜大野〜レイノルズ、に三木がその特徴を生かし“両打"像形成 (安藤、代田[だいた]も一時挑戦〜代田は脱番後完遂)。山ロは'86年控えで12盗塁、大野は'88年一番定着、24盗塁。'93年レイノルズは五、六番で12盗(こちらは18本の打棒とともに食い足りなさが残った)。 打棒面を掘り下げると、'83年長内[おさない]18本〜'86年ブラント16本で半結実。その後立花は代打流れを引き継ぐにとどまり、及川は守備中心出場と伸び悩み。だが'88年、米球界よりホセ・カンセコが大リーグ初の "40本&40盗[フォーティー・フォーティー]”を達成しアリーグMVP満票受賞、のイメージ流入。以降 “実際にそう呼ばれた”金子を始め、皆脚力はそこそこも右の大砲候補の江藤智、 垣内、曽我部、玉野、畠山[はたけやま]が集う「和製カンセコ」ナンバーとして新浸透。この中から江藤、併せて先記のバファローズ助っ人、にロペス、 李が中軸着座。古木も'03年下位で22本、他年時は準〜半レギで10本前後。加えて守備固め兼任の金子〜安田、に'93年垣内、'00 年玉野、'04'07年葛城が “強打を買われ” ベンチ定着。
一時代打像に呑まれていた捕手陣は'88'89年市川準レギ&'89年中西半レギ。 橋本将も'00'04'05年準〜半レギで定礎、するが'07年代打率.391 {※3}で帰参。
投方も'07年平井が“帰着”し、高木康と中継ぎ共闘。最終盤には野間口が4登板連続勝利(うち先発2)の急台頭。星野&高木の軟投vs平井&野間口の本格、の流 "派"争いも風雲急。
【2008年開幕時点】
{※1}惜しかったのが'56年。シーズン最終日(のタブルヘッダー)を迎える時点で27勝は三浦方義と並んでトップタイ。そして第1試合に28勝目をマーク・・・ところがこちらも同日ダブルヘッダーに臨んでいた三浦が2試合ともで勝利投手になり、梶本は最多勝ならず。 ただし完投、完封、 奪三振はいずれもトップ、の内容を評価されベストナイン受賞。
{※2} '53年まで呼称は「日本ワールドシリーズ」。また'50年は全て別球場開催で先攻・後攻も1試合ごとに交替。そのため第2戦で1球目を投じたのは当時ロビンスの江田 (別番時)。
{※3}打席は31。'07年は他にも江藤15打席で.429、古木31打席で.310、葛城は54打席.200。
【2008年開幕時点】