2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

12

【2008年開幕時点】

 

 10番台で「10」の次に“打イメージ”率の高い番号。それもそのはず、蔭山、岡嶋、広瀬、河野旭、柴田勲のスプリンター流れが一時代を築き、広頼は最多盗塁選手が「盗塁王」として表彰されるきっかけを作った選手、柴田も赤い手袋を代名詞とするなど職人芸だった盗塁という行為に光を当てたフロンティアナンバー。広瀬は'64年31連続成功含む72、柴田も'67年70盗塁、広瀬は'70年に当時通算記録の479(=木塚忠助)も更新(~最終596)。加えてこの両選手に蔭山、日比野~和田博、大熊は日本シリーズの常連で、“野球巧者”のイメージが宿る。
 対して投は林義、柴田英、坂井、井本、山沖、と揃うもバリバリエースは林だけ。'62年より7年連続2桁勝利('74年は25勝)、通算166勝(「12」では164)で林の98勝(同94)をしのいだ坂井も、チーム勝ち頭は1度('72年)、オールスター3度、日本シリーズ無経験と影が薄い。また林は'52年パ初の無安打無得点達成も、'53年中西太に当時最長の推定150m弾を浴びるとそちらの“通り文句”も上塗りされてしまい、'85年これもパにおいて郭が6月4日、田中幸{※1}が6月9日、と中4日で同記録が連発達成されたが、郭は翌月故障、田中は先発では2勝に留まり'86年は両者ストッパー着任(~オフが「18」へ転出)・・・とイメージが席巻しきらない{※2}。
 野手もかつてセのスプリント王として、パの広瀬とイメージの両輪を組んでいた柴田が'70年「7」変更。すると、まるで合わせたかのように直後パのスプリント王座に「7」の福本豊が就き ('70年に初盗塁王~13年連続キング。「7」番は'72年から)、これに和田博、田中尊、広瀬の出場減が重なり一気に落日の趣。さらに広瀬が控えに回る'73年、頃より大熊が福本の進塁を助ける“(右方向への)犠牲ゴロ”打ち職人の二番{※3}として浸透。と、気付けばたった数年の間に「7」をアシストする側へとイメージ異動。そして'78年からは大熊も控え。江藤、'75年準レギュラー格の矢沢を除けば和田徹、飯田、片岡新、滝、芦岡[よしおか]と“手駒”タイプが残り、先発&救援で奮迅の投手・外山[とやま]は'71年代打も兼ね“一番投手”スタメンまで経験。
 その投手は'70年より、サイドスロー・林義、アンダーの坂井(&星田、山下)の活躍を受けて、サイドで角[すみ]、アンダーは会田、田村、深沢、斉藤学・・・と集うが、会田がオールマイティー役で定着 ('76年10勝)、角が救援でハマリ、田村も主に救援で、と皆サポートタイプ。
 という状況での'79~'80年オーバーハンドの井本が(それまでチーム3、4番手~)続けて勝ち頭となり連覇に貢献。'82年、山沖、田中幸の190cm以上の長身新人コンビ&'83年には189cmの鈴木康二が移籍入番し雰囲気急変。山沖は1年目からローテ入りし2桁勝利5度。さらに'85年7月に郭が当時日本球界スピードガン記録の156km/hを計時、直後離脱も当年9勝。加えて関根浩、高木宣、矢野もローテ台頭('85年高木は9勝&オールスター出場)と活気づいた。
 だが結局山沖以外は2桁勝利に到達できず、'90年東瀬[あずせ]、より上田、安達、関根裕、三野、斎藤充、金森、斉藤貢、関口、小野・・・とドラフト1or2位新人の直入番者へと続々キャスト替え。しかし結果を残すのは移籍ベテランの加藤伸('96と'98年)、香田('97年)、そしてやはり10勝不到達。そんな状況を変えようと、かつての速球派・高山〜沼田、に森、松がサイド改造で活路を見出そうとする中、ならばと“最初からサイド”&身長190cmの鎌倉が高卒3年目の'05年7勝と兆しを焚く。しかし以降無勝利。'07年わずか23才で選手引退した。
 さて壊滅状態の先発の一方、角('80) 、福間('83'84) 、水尾('97)、藤田('99'00)、に'04'05年歌藤[かとう]、'04年松、先発兼務ながら'96~'98年関口の左中継ぎ(カッコ内はリーグ最多登板年)が徐々に重用度を増し、鈴木康二、井上祐('89年最多登板)、'84年山沖(最多登板)、'86年郭&田中幸でストッパー流れが確立しかけていた右も、'81年立野&柴田保、'87年高橋一&岡本光を足掛かりに'97年斉藤貢、'99年~香田、'00年河野[かわの]昌、'01年島田、'04年成本と“中”へ引き寄せられていき、'04年~スペシャリスト・岡本真を導き出した。

 さらに'08年、左は川﨑、右も渡辺、に“サイド”系脈も汲んだ韓国のストッパー実績者・林[イム]昌を迎え、よりイメージ増築。
 ただこれは先発が(山沖以降)総崩れした結果浮かび上がったイメージともいえ、逸材の未開花連鎖のツケとして、'83'84年と袴田1人だった“打メンバー”が'02'07年には5人と再浸出。 この間トマソン、垣内、マック、シェルドンが20本塁打台。捕手で袴田がレギュラー、村田、浅井が控え。また劒持[けんもつ]、北村、鈴木康友、古屋、西岡良、酒井、星野、鈴木尚の中堅~ベテラン勢は“手駒”として切られ、真喜志('8889年)、柴田博 ('01年)、種田、草野('07年)がそこから準レギ~レギュラー地位を獲た。柴田は20盗塁&三塁打王、'07年鈴木は控えで18盗塁とスプリンター像も再発現しつつある。同じく(ともに兆しが芽吹いたあと後退したが)'90年代は飛ばし屋~'00年代は捕手をターゲットとして各々のイメージ再席巻を図ってきた。
 このうちスプリンター系脈は紹介済みだが、飛ばし屋、捕手も黎明期より風靡してきた「12」のメインカテゴリー。まず'36年古谷[ふるや]がチーム2番手投手の一方、一塁も兼務し2本塁打、23打点で2冠、打率も.343で2位。翌秋には高橋吉が本塁打王(6本)。これと並行して筒井、大原、田中義、日比野、佐藤式に'42年楠が正捕手番アピールを展開(日比野は飛ばし屋イメージにも参与)。これにつなぎ役二遊間の石丸、大友、小林悟、前田、鵜飼、ポイントゲッタータイプの三塁・倉本、一塁・中野という布陣。投手は常時試合数の約半分に登板('37年は春秋計22勝)の古谷を筆頭に兼業選手ばかりで、大友が'38年秋5勝、楠が'39年6勝。投手登録の井筒も野手兼務、投手としては(「12」では)1勝も挙げられなかった。
 戦後は別所、青田昇の旧制・滝川中出身コンビによるイメージ覇権争いで幕開け。別所が19、30、26勝を挙げたのに対し、青田は好打者→本塁打者の転身過渡期で'47年は打率も33位に低迷。軍配は大差で別所に上がる。加えて'48と'51年各10勝の星田、の活躍から片山 ('49'50)、林義('50~'53・'55)、柴田英('52~'56)、榎原[えばら]('50'53'54)、富永('56)、中西('57)、三浦('57)、坂井('62~'68・'70'72)、山本('64)、山下('69)・・・と2桁勝利投手が一定輩出されていく。
 一方青田がまだ好打者だった'46年(本塁打は3)、藤井勇が当イメージに1年参画。翌'47年は本塁打礼賛時流に乗った青田が苦しみながら11本(3位)を飛ばし、後釜に('47年別番で11本の)古川清を迎えるが、球界全体数が240→391と飛躍的に伸びる中で'48年7本と逆行。とちらかといえば33盗塁の脚でスプリンター流れの先鞭を着けた印象。青田も本格開眼は脱番(=巨人移籍)後で、別所ともどもこの「12」期間がなかったことにされがちだ。
 そのスキ間を縫って、武宮がサブ捕手定着。を通奏低音に'49年辻井、から日比野、門前、和田博、田中尊が正捕手着座。和田は佐竹一雄と並ぶ捕手最多の“無安打無得点”演出4度と(うち1度は別番時だが)ここでも同記録とパの「12」とのつながりの深さを垣間見せた{※4}
 また'48年辻井、から蔭山、斎藤宏、後藤に宝山[ほうざん]、小林章、さらに和田博、河野旭、麻生、和田徹、福冨、江島、飯田・・・と好打クラッチ流れが築かれ、その流れの中で'64年広瀬が前半.399(~最終.366)、'71年江藤は“史上初の両リーグ戴冠達成”という形での首位打者獲得。
 の一方、飛ばし屋の系譜は'57'58年岡嶋、'62~'64年和田博、'63'65年の河野&広瀬、'68'71年大熊の15本前後、に'64年柴田勲15~'67年18~'68年26本と別派発現者のサイドイメージとして取り込まれ、'71年本命・江藤が25本で復活の狼煙を上げたが先の首位打者確定日に移籍通告を受け脱退~その後'75年にも監督兼任1年目でAクラス(3位)確保ながら更迭(本塁打は'76年ともども1桁数)。救世主期待のトマソンは20本止まり&断トツ(リーグ2位で90という年)の132三振~翌年は飛ばし屋でなく“麻生{※6}”像を賜って0本、と輪をかけ沈下。
 かわって新定礎、山沖、田中らが続々投入され、“打” は更地から再出発・・・現在に至る。
【2008年開幕時点】

{※1}田中は1年ぶり勝利。'83年高橋三は3年ぶり勝利が“ゴロアウト0”完封(史上唯一)。
{※2}柴田勲も甲子園優勝投手~高卒1年目の開幕2戦目先発含め6登板(0勝)~大転回。
{※3}それまでは一や五、六番。'71年は打率3割(~翌年三番拓きで.230台まで降下)。
{※4}だが坂井は'67年、9回まで無安打無得点・・・ながら自軍も無得点~10回先頭打者に初被安打(~負け投手)、その10日前にも8回を抑え込みながら9回に初被安打と縁がなく、'63'64'71年は各々残り10試合を切った時点で防御率1位→ツメに失敗し陥落。ところが'70年は9勝4敗で最高勝率。'83年福間は6勝4敗(6S)で最優秀防御率。
{※5}選手引退後に野球塾設立・・・岡本真はその流れを汲む社会人チームの出身。のち田中尊が担当したドミニカアカデミーの出身者、アルフォンゾ・ソリアーノはシカゴカブスにて「12」着。
{※6}'59年は遊撃レギュラーも、'60年途中~ほぼ代打専任に。'62年「代打男」では初のオールスター出場。他に'55年~後藤、'69年~和田博、'70年~和田徹、'73年~広瀬、に飯田・・・古屋が同役('70年江藤、'71年江島&外山・・・に西岡良、星野、浅井も半) 定着。
【2008年開幕時点】