2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

29

【2008年開幕時点】

 

 ともに勝率1位となった'51年松田(23勝3敗)、'57年木戸(17勝7敗)。松田は'52年急落しながらも13勝したが、その2年を除くと計3勝。木戸は’57年を除くと9勝。'79年山口哲、'84年小林誠の両防御率1位投手は、ともにこの年が唯一の規定投球回到達年。他にも'60年広島(15勝、他年4勝)、'95年ブロス(14勝、他全16勝)に、'90年与田(31S、他年28S)、'98年小林幹(18S、他年11S)と鮮烈凝縮例を残した。その特性はサポートタイプが大羽、鈴木孝、小野ぐらいで、残りの長期先発・田中勉、佐藤進、村田、江本、西村、井川慶が軒なみエースを務めた点にも顕著。ただ各々の「29」エース期間は村田、井川以外は2~3年。ローテ期間も村田の18年は別格も、田中8年、鈴木、井川各6年、西村、小野各5年、佐
藤、大羽、江本各4年。ネーム印象からすると息が浅く、ここにも一閃気質の顔がのぞく。また田中はサポ ート期間の方が長く、実はチーム最多勝&最長イニングも各1度だけだが、'64~'67年の開幕戦で投げ3勝1敗の実績で存在感をキープ。それは'82年に先発転向後9勝3度に、8、7勝。'84年に16勝という(これまた)突出実績はあるものの基本的には中堅戦力。ながら“元リリーフエース”の残像を伴っていた鈴木も同様。
 その“顔”の習得過程は、'75~'77年と連続セーブ王&規定投球回もクリア。'77年18勝(=うち先発勝利4) 。'78年も前半で10勝9S、後に肘痛離脱。復帰後'79~'81年は“おそるおそる”のストッパーに風情を変えたが、それでも計40SP[セーブポイント]をマーク。同時期、先発との両役ながら'75年村田13Sでパのキング。'78年には江本が抑えに回ってセ2位の20SP。'79年山口はシーズン8SPも、プレーオフ好救援3連投で球団初優勝の立役者に。また同'79年から鹿取中継ぎ奮迅、'87'88年は抑え中心で各25SP、'87年はMVP投票で僅差の2位(1位票ではトップ)に入る働きを見せた。少し戻って'84年小林誠も 19SP、優勝決定試合では先発完投胴上げ投手{※1}。'90年には与田が (31S) 35SPで新人初の当タイトル受賞者となった。だがこのストッパー流れも'92年与田23SP、のあと'98年小林幹27SP、を最後に凪状態。かわって杉山賢、近藤、'96年池上[いけうえ]、'01年~芝草、'02年~前田、'01'02年小林幹、'02'03に'06年~三井の鉄腕リリーバー帯に映え場所を移している('02'03年三井は先発兼務で連続2桁勝利)。また鈴木→与田の剛球リレーは、以降のヤング、杉山、ブロス、井川、マック鈴木、泉、矢野英、佐藤剛、セラフィニ、林[リン]の速球派集結へとイメージ波及し、井川に、'95年ブロスがエースを張ったことを考えれば先発陣の高エース率にも一役買った。加えて、杉山、井川を皮切りに三井、前田、福山、ヤーナル、セラフィニ、八木、小嶋と拡げ、'06'07年に各5名('07年~プラス米球界・井川)を揃えた“左腕”像も流露[りゅうろ]させた(文中の左投手は他に松田、大羽だけ)。
 さて現在はすっかり身の置き場に窮している野手像だが、実は「29」イメージの先鞭を着けたのは野手の方。'38年秋に正遊撃手となった皆川は、'40年から二番に定着し2年連続全試合出場。'41年21犠打はトップ。前'40年、三塁手・藤戸も17犠打でトップ(=皆川は15)。'41'42年ポイントゲッター・森田を挟んで、戦後再び二番で二塁の金山へ('43年も遊撃レギュラーだったが開幕前背番号廃止)。'46'47年とも犠打10を記録する一方、盗塁も18~34。が、'48年“赤嶺族風”(背番号「6」編参照)で移籍脱番。すると'49年、今度は“別所引き抜き”(背番号「31」編参照)で投手側が14勝(防御率2位)の恩恵を受ける。が、'50年別所改番&赤嶺“再”旋風で金山帰着し打率3割、74盗塁(=従来記録を更新も同年木塚忠助も78)で勢力図復元。翌'51年も42~'52年63盗塁と韓駄天ぶりを発現した。その間投手も'51年松田が19連勝含む23勝~'52年またぎで20連勝まで伸ばし、当年13勝。同年は藤野4勝、10月には小山初登板完封とフォローが入るも、'53年3者揃って0勝。対して野手は'53年滝田、塚本、小田野とレギュラー 3名輩出。滝田'60年まで、塚本も'55年までレギュラー~準レギュラー格に収まり、'54年は山田利も加勢。そして「野手番」イメージを決定づけたのが3割3度(打率5位以内4度)、打点90以上2度の巧左打者・杉山光の参入。先達・滝田に新参・石田(=戦力定着は'55年から)がイメージフォロワーとなり、右の増本も'55年~3年レギュラー。昔名前の安居、常見に、'56年捕手・石垣も準~半レギ。投手は'57年木戸17勝、'60年広島15勝はあってもそれに次ぐ勢力がら'57年田中照3勝(13敗)、'58年太田5勝、'59年木戸5、広島4勝と脆弱。大羽も'66年13勝以外は5勝前後を行き来。'62年は田中勉もまだ6勝。に対し野手は、'57年増本22試合連続安打、'59年杉山首位打者のトピックに加え、'58年古葉、'59~'61年関森、'62'63年丸山がレギュラー新加入。古葉は二番、丸山は一番、関森も'60年一番を打ち旧来イメージ回帰も、古葉、丸山が早期退番で固着には至らず。ここまで金山(&宇野、苅田)の影を踏むように、戦後のレギュラー野手は俊足揃いで石垣、石田を除くとコンスタントに年10盗塁前後はマーク。代走者の黒崎、吉田英に、かつて3年連続30盗塁超の渡辺清と流れは続いたが、後継有望2新人が「29」を“アガリ”としなかったことでこの後は衰勢へと向かう。
 その上、田中勉が'63年~4年2桁勝利。'66年は23勝で完全試合達成&ベストナイン受賞。さらに佐藤進も'64年~4年2桁勝利、に'66年大羽13勝で投像本格侵出。するも、懐柔{※2}するかのように'63~'71年レギュラーの岡村、'64~'68年準レギュラーの辻、両捕手が待ったをかける。
そして竹之内~ボレスのパワーヒッター連弾で“打”像大型化。'71年には作道[さくどう]が、チーム5者連続本塁打の1本目となる代打満塁弾。通算4本目(この後も1本を加えるのみ)、当年はこの1本だけ(にして初安打)というピーク凝縮作が打ち上がると、'72〜'74年望月、'75年東田を準レギに抑え、高畠、井石に、外山[とやま]、阪本と代打者が揃い、その流れに乗った河村が代打本塁打15(=通算)を足掛かりに'80年DH 準レギュラー。そして東田~河村本格化、のちょうど間を埋めたのが久々のスピード選手の強肩遊撃手・河埜[こうの]。レギュラー着座の'74年57打ながら3打席連続(=日本記録)含むリーグトップの7三塁打、&10本塁打の一方三振もトップの82、&ゴールデングラブ受賞。'77年初ベストナイン時にはリーグトップの20失策と何とも“粗削り”。そして初20盗塁超の翌年に脱番とやはリステップアップ番解釈。ただ'75年捕手準レギ・楠城[くすき]が18盗塁、また内野バックアップの鍵谷[かぎたに]( + 阪本)が微風だが「河埜番」像フォロー。も、村田{※3}~鈴木~江本~山口~鹿取の大波に呑まれ埋没。何とか「河村番」像は生き残り、'85年石嶺が代打6本(=パ記録)~DHレギュラーとなり、'86'87年とも3割30本90打点以上クリア。同時期、外野レギュラー着座の山本はホークス先達の杉山同様、巧左打者(&前バファローズ)。3割3度、本塁打15前後で数字的にも似た内容。'88年石嶺抜けるが、バークレオが主にDHで38本(うち満塁4本=パ記録)。'89年から山本もDH参入。“パ度の高さ”{※4}とともに打の主要像となる。だがこの強打流れも渡真利[とまり]、高嶋、加藤正が“秘蔵っ子”止まり、西岡も峠越えで先細り。結局バーフィールドで急場をしのぎ、石嶺と復縁をする結果となった。その石嶺も'94年17本がやっと。山本も'94年を最後にレギュラーを外れ、寸断後の五十嵐(=は好打系)、平塚はリザーブに厚みを加える役回り。ようやく'06年に現れた主戦力・ラロッカも18本で途中離脱。しかし次々着・福地が久々にスピード像提供。これまでとは逆に既成(準)レギュラーで、「金山番」修復刻の夢もふくらむ。残るもう1[ひと]望みは捕手像の再演。岡村、辻、'75年楠城のあとは、フライヤーズ~ファイターズでの岡村、ホエールズでの辻、'76年以降の楠城、に加藤俊、吉田博、田村、吉田康とサブ続き。吉田英、作道、久代[くしろ]、河村、石嶺、高嶋、原の捕手姿に至っては“おまけ”キャラ扱い。山井、八木、グライシンガーと、エースというより準エース(サポートとも違う)タイプ増で風穴の開いた投現況を鑑みれば、“純捕手”新沼&加藤領の早々台頭が待たれる。
【2008年開幕時点】

{※1}'82年(別番時)にもライオンズで胴上げ投手を経験。また日本シリーズで'82、'84年ともに勝利を挙げ、史上初の両リーグでの勝利記録投手となった。
{※2}ただ気質は両者熱闘肌。岡村は'69年、日本シリーズ初の退場選手に(背番号「48」編参照)。
{※3-ⅰ}「バタフライ投法」大羽、より「マサカリ投法」遣いとして躍動フォーム像継承。打で「円月打法」杉山光の異色派も。また河村はのち「振り子打法」のイチローを1軍輩出。
{※3-ⅱ}暴投王12度(通算148 =日本記録)。江本も'77~'79年(&別番でもう1度)、に西村、ブロス、井川、山井、マック鈴木(、別番時前田)も各1度。また前田は'02年サヨナラ暴投しながら(優勝争い対象チームが敗れたため)史上初のサヨナラ負けVを現出。
{※4}投方も村田が肘手術~リハビリを経て'84年 2年半ぶり復帰~'85年日曜日毎[ごと]先発で開幕11連勝、「サンデー兆治」の異名付き、最終17勝とパにトピック。'00年、前年まで3勝の小野が日曜日毎先発で13勝。「サンデー晋吾」の呼称もらい、'01年「29」着。
【2008年開幕時点】