2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

30

【2008年開幕時点】

 

 これほど印象が一変した背番号もないだろう。'60年代序盤あたりまでは「監督番」一色。'60年代中盤はコーチの着用例も目立ってくるが、これはまぁ「監督番」イメージの亜流。ただ「監督番」→「選手番」へと移行する際のクッションになったことは確かだ。そして'60年代からは選手の着用例も増え始め、'70年代に入ると完全に形勢逆転という感じになる。'80年代になると、監督の上田利治の方が化石的存在。その上田の'90年勇退時、いや、より正確には'95年(ファイターズの)監督として上田が復帰した際、背番号に「88」を選んだ時点で(プロにおいての)“監督番「30」”の歴史は一応の終わりを遂げた。
 さて、その歴史を覗いてみると、監督(=指揮権保有者。名のみの監督は除く。総監督も同じ。また代理監督は除く。以下同じ)のべ人数は60を誇り(2位で「50」「81」の各17)、優勝回数もダントツの33(2位「77」で12)、日本シリーズ制覇も11でトップ(2位「77」で9)。その、1番手が石本。'37年秋~'38年春と連覇し、暮れの年度優勝決定戦もともに制覇(先の日本シリーズ制覇にはこの2度は加えず)。そして、その両年ともで決定戦の相手となり(つまりは'37年春、'38年秋に優勝し)、'36年にも優勝決定戦{※1}で顔を合わせてこの時は石本に苦汁を飲ませた藤本定が、'39年来番(それまでは「22」)~'42年まで4連覇。背番号廃止年ながら'43年(=の開幕前に廃止)の優勝監督も中島。'44年も若林忠。当初、監督=「30」というより、(多少例外はあるが)チーム最後尾[アンカー]番号の認識に過ぎなかった。それが決め事のように監督=「30」となったのにはこの圧倒的実績への追従、という部分が大きい。また戦前・戦中期は1球団あたりおよそ20~30選手だったので、最大公約数的な“最後尾[アンカー]番号”として「30」に落ち着きやすかった側面もある。「(約)30人分の命を背中にしょってるんだ」という意思表示(もしくはいましめ)でもあったのだろう。もっとも戦後、選手数は徐々に増えていくのだが、それによって監督の背番号が同じように増えていくことは、すぐにはなかった。「30」超の背番号の選手が基本的には2軍プレーヤーだったこともあり、相変わらず1軍ベンチでは「30」が指揮を執り続けた。そのタイムラグ期の戦績がまたすごい。
 '47年若林が戦後の「30」初優勝監督となると'48年も山本一(='46年も山本だが当年「1」番)。'49年は脱「30」の急先鋒・三原修(巨人)に覇権をさらわれたが、2リーグ分立後の'50~'59年は常にどちらかのリーグから優勝監督が出ており、この間日本シリーズで「30」同士が顔を合わせること5度('51~'53に'55、'59年。全て巨人・水原、南海・山本~鶴岡の対決。他番号も含めこれ以外に同番監督対決例はない)。'51~'53年水原、'54年天知{※2}、'55年水原でシリーズ5連覇を達成。この流れを止めたのはまたしても三原脩(=改名。西鉄)。'56~'58年と全て水原を下し3連覇。シーズンでもこの3年&初優勝時の'54年、の2位は全て山本南海。'60年に三原大洋へ移りセ制覇、時の2位も水原巨人。そしてその'60年は、パの制覇監督も「50」の西本幸雄(大毎。ちなみに三原は当年「60」番)。翌'61年には「16」川上哲治が監督初優勝。「30」番監督の優勝は'60年以降、'61年鶴岡、'62年水原、'64'65年鶴岡に、'75~'78と'84年上田。日本一は'62、'64、'75~'77年と大減衰。三原や西本、それに'65年より「77」でV9猛進の川上など、重量番号監督の背中から漂う君臨感に、あたかも気後れしたかの格好となった。加えて「30」の老舗監督・藤本定が'62年から「61」(阪神)、鶴岡が'66年から「31」{※3}(南海)、水原も'67年 「81」(東映)でのぞみ、事実上のイメージ撤収。
 一方“選手番「30」”のスタートは千葉。'38年プロ入り、即二塁レギュラー定着。三番を打ち春・打率10位(.295) 、三塁打7はトップ。秋は三学中堅手、四球王となり、翌年藤本定と背番号交換。この後は'50年代までひたすら監督(もしくはコーチ)兼任の選手が続く。'40年松木が打率15位に入り、'41年レギ。'38年山下実&'41'42年本田は半レギ。'42年投手・若林が26勝、番号廃止の'43年も24勝。'43年は中島、苅田もレギュラー戦力。戦後再開後は'46~'48年杉浦、'46'47年坪内、'47~'49に'51年山本、'47'48年苅田、'50'51年宮崎要、'53~'55年白石とレギュラーが出るにぎわい。若林も'47年~26、17、15勝と、徐々に衰えを見せながらも健在('47年時39才){※4}。'47年坪内&杉浦、'51年山本はベストナインに選ばれ、'47年若林、'48'51年山本はMVP。ただ、やはり主要像は“監督”。よく動き回る選手が多いという特徴はあっても、“兼任監督(コーチ)”像が先に立ち、結局は副産イメージの印象。
 選手専任では、切り札代打の元祖{※5}・大館が選手最終'55年に来着し、'58年には半レギ捕手・谷本が参画。そして'59年、前年夏の甲子園で83奪三振の大会記録を作った板東、に超高校級スラッガー・佐々木と投打の逸材が入番。“監督=大物”のイメージを選手の出自に転用した形で、この後もドラフト指名を4度受けた島谷、同1位被指名3度の江川と続いていく。その成果は板東'60年10勝~再来番後の'64年、当年抑え[ストッパー]開眼の助走のような感じで6勝、となって現れ、須藤半レギ、西田準レギのあと、島谷'69'70年&三村'70年が規定打席到達。から'71年中原準レギ、大塚半レギ。のあと'73'74年羽田[はだ]、'75年ローン、'78年ロックレア、'79年永尾とブツ切りながらレギュラー級もコンスタントに輩出。投手も'70'71年山内、'72年平山、'75年芝池がリリーフ半台頭。からライト'76年~実質2年ちょいで22勝、江川'80年~5年連続15勝以上(8年連続2桁勝利)とスケールアップ。'82年から郭、'85年から津野も加わり、'89年加藤哲も準先発7勝。江川を筆頭に押し出しの強いタイプが揃い、ために“選手番「30」”への違和感も徐々に希薄化。対して野手(捕手含む)は三村、ローン、永尾、平田、内田、音[おと]、金子、佐藤友、細川に、控えの伊原、広橋、森田、山田('88年)、高[こう]信、原井と堅守の自己犠牲タイプ中心。大砲は島谷、羽田が本格開眼前に転番、'71年リナレスは1打席解雇とミソを付けて以来、小川、内之倉、相川と伸び悩み続き。飯田、柳田、君波、大野の代打系脈にその名残りをとどめた程度だったから、「投手番」イメージに傾いたのは自然の帰結。ただ、“江川”像の再来を託された友利、橋本、戎[えびす]、田中宏、鄭[チョン]、曹[ソウ]・・・の重量級右腕達は軒なみ期待外れ。わずかに橋本が'93'94年と準抑えを担うにとどまった。も、これより中継ぎ・玉木、抑え・小林雅が定着。すると'03年~山部、'05年~久保田&林、'07年~西村健、と準先発投手続々リリーフ転入で新流れ発足。'03年田﨑、'04年カラスコも加え“後ろの”イメージで固まったかと思うと、'04年途中入番・土肥が前番号で214登板0先発、から先発転入して'05年10勝。'05年デイビー、'06年ロマノ、'07年永井、に他年時土肥も準~半先発とまだ流動的。一方で野手は投手低迷中の'93年、パウエル27本塁打&長打率1位で不作続きだった大砲の像萌芽を思わせたが、本数は年々減少。かわりに'94年~3年連続首位打者で巧打像植樹。 '94'95年と音の後押しも得たが、その後'04年佐藤~'05'06年カブレラまで10年も空いてしまいイメージ枯れ。そんな中、高橋信が突如として'03年正捕手奪取~'04年26本塁打と大砲誕生を印象付け、'05年も3月2満塁本塁打のすべり出しを見せた。が、直後負傷。同じ'04年ブレイク組の佐藤も開幕早々負傷で揃って長期離脱。復帰後もともに精彩を欠き野手像逆襲気運は一瞬にしてついえた。さらにこの両者、にレギュラー格のカブレラ、細川が抜け消沈一途。'07年新たに大砲・ラロッカ27本(&日本新28死球のトピック)で狼煙が上がったが、投手も久保田が日本新の90登板&8月、久保田と西村が揃ってセ・タイ17登板でイメージ追撃及ばせず。しばらくはこの両頑健&剛球右腕中心で回りそうだ。
【2008年開幕時点】

{※1}'37'38年とは違い秋季のみでの決定戦。計6大会のつどに、制覇球団へ勝ち点1(2位以下0。同率制覇時は0.5ずつ)を与える加算式。巨人、大阪が2.5で並んだため同点決戦が行われ、2勝1敗で巨人が優勝。その後の「伝統の一戦」の熱源ともなった。
{※2}アマ球界名物審判員~プロ野球監督就任。来番前プロ球界含め審判経験者は他に池田、小西、沢、西垣、藤田省、新田。脱番後(=は全てプロ)も池田、に山下実、井野川、三谷、苅田、横沢、中根。また天知はプロ参画前、明大技術顧問も歴任。天知の前着・杉浦は元明大監督(岡田も元同校監督)。他に浅沼、石本、森、根本、藤本定、沢、井野川、苅田、高田、長谷川信、西垣、藤田省、宮崎要、白石、岸、保井、宇野、砂押、田丸、伊原が来番前アマ球界監督経験・・・脱番後も森、に桝、迫畑。
{※3}この変番には'65年オフ、一時は新監督となった蔭山和夫が就任直後に急死。そのため復帰することになった鶴岡が“「30」は蔭山の番号”として「31」に改めた経緯がある。
{※4}最年長20勝以上。他に'50年48才浜崎が出場(登板)&勝利&安打&三塁打の、'57年45才岩本が本塁打&捕手出場(=の従来記録も'39年43才岡田)の、各々最年長記録。
{※5} 余談だが日本で初めて代打出場したのが'11年(明治44年)当時早大選手だった浅沼。
【2008年開幕時点】



鄭は正確にはソ酉大にオオザト