2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

31

【2008年開幕時点】

 

 柴原洋、真中、 小関の左一・二番打者競演が一段落し、森野、吉村、林威、小谷野の準中軸打者へとイメージ転回中の「31」。現在は真中も切り札代打で “打の人"イメージ主調。 かつてカークランド〜掛布が掲げた"本塁打者「31」"の金看板の復刻も近い将来叶いそうな気配。 それと並行、というより先んじて台頭していた石原、藤井彰の正捕手1歩手前コンビ、それに下手投げ[アンダースロー]投手・渡辺がイメージ争いを展開。全派がまだ伸びしろを有しており、誰がイチ抜け続けるかによって新雛形の容貌はかわってくるだろう。
 ただ今のところは「31」と聞いて真っ先に浮かぶのは掛布。 そもそも「31」の本塁打者は掛布とカークランドだけで、両者以前の堀尾、藤田、横溝に、以後の屋鋪、高沢、前田智、 柴原洋、真中、小関は、皆巧打者(後者6名は打率3割記録者)。現役衆も吉村以外はまだこの範疇。
 そして掛布も当初は巧打の中距離打者。'76年〜4年連続3割の後さらに3度)、本塁打は'76'77年と25前後。 から'78年、4打数連発&オールスターでも3連発と望蜀[ぼうしょく]の片鱗を焚き、最終的に32本、102打点。 オフ、 自チーム四番の田淵幸一移籍退団〜で迎えた'79年、48を打ち本塁打王。以来不動の四番に君臨し、35本 95打点は当たり前、'85年ノンタイトルながら40本 108打点マークの長距離本塁打者へと変貌を遂げた。
 対してカークランドは "本塁打か、三振か” の典型的な一発屋。'68年37本を始め計126本を放つ一方、 打率は.240台で三振王2度 ('69年133は当時新)。日本での最終打席も'73年最終戦、勝った方が優勝という巨人との大一番での “かすりもしない” 豪快な巨人9連続優勝決定三振だった。
 ともあれ両者の活躍は当然イメージ形成に直結し、石井、迫丸、伊藤、斉藤、萩原、濱中 に現役4選手といった大砲候補達の追随を呼んだ。だが (吉村含め)本格継承まだ果たせずで元の巧打像へとスケール収縮。ミューレン、広澤、現役4選手が残り香を立てるにとどまっている。 '92年19〜'93年27本とかつての掛布を思わす進境過程をたどっていた前田智も早期退番。濱中も開眼の芽を残し退番。'91年途中での南淵、'04年柴原洋も併せ、有力中堅若手に去られるケースも目に付き始めた(南淵は譲渡だが)。
 が'06年、逆行して成長途上の森野が入番。吉村ともども8月から五番定着と突然の来光。'07年途中から林、 小谷野も加わり一気に予感を高めた。森野、小谷野が掛布同様 (ただし準、吉村も元) 三塁手なのも助勢材。
 さて、では「31」のおこりに遡ると、'39'40年中堅手レギュラーの堀尾が第1波。'39年三番で7本塁打(トップと3差で3位)、盗塁17(全96試合)。'40年は一番を打ち打率.241(13位)、盗塁29 (トップと3差で4位。98試合)。中断前では他に'41年宗宮、'42年玉置(投手でも10登板1勝)が半レギ格。玉置は'43年三番三塁定着、同年川畑も6勝、も開幕直前背番号廃止。
 と、ここまでは静閑な流れだが、戦後三原登場で一躍注目度UP。'47年6月、最下位(8位)巨人の「助監督」〜10月「総監督」に就任 (〜終了時5位)。 実質指揮官ながら、諸事情により前任・中島治康を引き続き「監督、30」登録。 という善後策が取られた結果、当時の「指揮官=30」の“定番”を覆すことにもなり、何やらその後の "策士三原”を予見させるような第1歩となった。
 さっそく'47年オフ、戦後他球団に散った主力選手を自ら口説いて続々復帰させ、'48年2位浮上。オフ、今度は48年優勝球団・南海のエース・別所昭 (翌年毅彦に改名)を強引に引き抜き、'49年戦後巨人初優勝監督に。
 だが当然この「引き抜き{※1}」、に開幕後の「ポカリ事件 {※2}」、さらに7月に抑留先のシベリアから帰国 {※3}した水原茂を旗頭とする「三原排斥連判状事件{※4}」勃発で一気に求心力低下。'50年は監督・水原。 三原は指揮権を解かれ、名のみの総監督としてベンチ入りも叶わない不遇の1年を送る(背番号 「50」編 へ続く)。
 さぁしかし失脚したとはいえ選手番で確立していたわけではなかったから "指導者「31」”の印象は強烈に残った。ながら監督は「30」と相愛。のため'50'52年森田 、'51と'53'55年宮坂、'52年松本、'53年藤田、 '55'56年河西俊、'56~'58年近藤貞、'56年藤本、'58年千葉の「二軍監督 ('53'54年河西、'57年内堀も二軍助監督)」 番として流通。
 その中から千葉が'59年近鉄の「一軍監督」 就任。 自身の愛称 “猛牛”にちなんで、 球団愛称も「パールス」から「バファロー」に改められたほどの歓待を受けたが、3年連続最下位でユニホーム引退。 その後、鶴岡がキャリアの最終3年着用。 '70年、千葉同様巨人脱退組の広岡が指導者1年目着〜脱番後は別球団で日本一監督、の三原路線を踏襲(巨人倒しての、も達成)。
 一方選手番の歩みは'50年途中加入の藤田が、その時点でのチーム最後尾「31」を着け三番定着〜'52年まで準レギュラー。 '53年新人・鈴木は遊撃全試合出場、40盗塁〜翌年“脱扶養” の証として「7」改番。 他にも新人着の河野、三浦、高倉、 葛城が戦力を見込まれた時点で各々若い番号へ “出世” の船出番解釈。
 から、安藤、横溝、 須藤は新人着〜レギュラー奪取後も「31」通し。'56~'58年須藤,、'59 と '61 ~ '63年安藤、'60と '62~'67年横溝とレギュラーを張り補欠番コンプレックス払拭。 カークランド 〜掛布を迎える。そしてその両人に横溝、 で左が3人続いたところでイメージの刺客として左の下手投げ・永射が投入される。
 当初はオールマイティー起用され'77'79'80年と100イニング超 ('77年は 199・2/3)。'81年からショートショート主となり、(他番時含め) '90年まで計344登板で324イニング。また露払いとして児玉好 ('72年は10勝)、 '73年水谷宏が救援像を芽吹かせ、太刀持ちの'86~'88年水野 ('87年10勝), '88年森山 (10勝) は先発像抽出 (ただし全員右腕)。も先発両人は故障続発。 水野は'90年以降救援転入し、三沢、佐藤と “トリから3番目”中継ぎ像形成。 先発は'96'97年前田幸、 '02年バワーズ、とかわらず散発も、渡辺'03年~ローテ定着、'04'05年は10勝超、でようやく源流。
 対して野手は'82年~屋鋪、'84年~高沢が定位置確保。 屋鋪は'85年〜58、48、48、33盗塁。堀尾、鈴木、から控えの松岡、土居、深沢、阪田と続く健脚流れを汲み、'84'85年と3割も記録。同じく3割2度の高沢は平均.280  12〜13本で'87年27盗塁 、とこちらも巧打俊足。ただ、先記の大砲候補達(現役衆除く)に渋谷、末永、岡本、仁村、橋上、柴原、荒井、南淵 (中日時)、 林孝、レイサムは代打中心の域を出ず、守備代走要員・深沢、阪田含め控え大勢。'82年森脇は遊撃ほぼ手中〜負傷離脱。'91年同状況・南淵〜途中変番。'92'93年前田智が盤石レギ〜改番。'92年柴原実が準レギ〜衰勢。 '91'92年橋上半レギ&'92年日本シリーズで大当たり〜改番。'94年ミューレン23本〜移籍。'95年萩原4本プチ台頭〜停滞。'96年田口準、 荒井半レギ〜ともに出番減。

 のゴッタ煮状態から、'98年〜真中&柴原洋 '00年〜小関で左一・二番が抜け、 間隙を縫い '99年〜塩崎が堅守を武器に遊撃定着、 '04'05年は準格衰勢も3割で打進境。また'03'04年石原、'05'06 年藤井は正捕手格。石原は'04年規定到達、も'05年開幕直前離脱、藤井も暫定感拭えず減速。
 そうこうするうち潜勢力続きの投から渡辺がサブマリン浮上{※5}し旗頭奪取。併せて横手・水谷〜下手・永射の像継承、で新系譜を立ち上げ〜PR中。
【2008年開幕時点】

{※1}まだ無協約時代で契約が切れれば移籍は自由、ではあったが'48年シーズン中から巨人と接触していた点が問題視され、 別所は翌シーズン開幕から2ヶ月出場停止処分。
{※2}そして当然 '49年巨人一南海初3連戦は切迫ムード充満。 再三再四判定でモメまくり、スコアは全て1点差。 その3戦目、9回1点追う側の南海攻撃時、無死一塁での一ゴロ〜二塁封殺、の際走者・筒井敬三が遊撃手・白石敏男にもつれるように倒れ込み、 一塁転送できず でまた大モメ。 最中三原が虚を突く感じで筒井を "ポカリ” で無期限出場停止処分・・・余談だが90年、逆に巨人の 「31」 が中日監督・星野仙一に "ポカリ” されイメージ融和 (ちなみに星野がプロで最初に仕えた監督は水原茂!)。
{※3}三原の処分は7月解除、 同時期水原帰還。 満員の後楽園球場での7年ぶり帰国の挨拶 "水原ただいま帰って参りました”、 が三原の復帰2試合目。 花束贈呈役も担った。
{※4}戦前・戦中からの監督候補・水原の帰還までの当初 “暫定監督”然だった三原が、一握りのスター選手のみ厚遇したことで他のほとんどの選手から反感を買いさらに旗色悪化。それでも優勝監督が即解任が通念上あり得ないことは明白だったが、オフにリーグ分裂→チーム数倍加、で空前の選手売り手市場到来。 優勝監督更迭→後任に水原、という“あり得ない条件”を盾に取って他球団の誘いに乗らんとする向きも加わり、連判状が作られたとされる。事態収拾のため三原は辞任。 後任に水原。
{※5}また、漫画『野球狂の詩』の水原勇気&ピンクレディー 『サウスポー』のモデルとなった永射〜ドラフト史上最強の隠し玉だった森山〜「10.19」 弾 (背番号「14」 参照) を放った高沢〜絶滅危品種の純正下手投げとして俎上に載る渡辺自身、と"パに咲いた徒花”的位置付けで裏書きされた 「31」 像も、併せてサブマリン表出させた。
【2008年開幕時点】