2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

21

【2008年開幕時点】

 

 “ダンディー”と謳われた杉浦~「トレンディーエース」の西崎、に“ちぎっては投げ”式クイック投球の森弘~土橋~松本幸、で軽やかな洒落人ムードを醸す「21」。

 のちに揃って殿堂入りする二出川、小西、三原、島、横沢の初期メンバーからして、すでにその雰囲気が漂っている。
 各々、二出川、横沢、島は審判、小西は解説者、 三原は監督としての功績を主に評価されての選出たが、皆、選手時代のプレースタイルが似ていて、 二出川は'34年全日本~'35年巨人第1次米遠征時の一番打者。島も'36年リーグ戦より一番、'37年秋は22で盗塁王。三原は時に三番も打ったが主には一番、'37年春47試合で12盗塁(=島で17)と足も遅くなく、世間のイメージも'31年早慶戦でのホームスチームが“選手三原”1番の語り草と一致している。「ポカリ事件(背番号「31」編参照)」の時もそうだが俊足というより“忍び足の天才”といった感じ。プロ選手経験のない小西、代打1出場のみの横沢もアマ時分“よく動き回”った野手。
 他選手では、三原と同じ二塁手・小島利は'36年秋季直前入団すると、あの景浦將を押しのけ四番に。白木も在番中は下位だったが脱番した'38年四番を打った。また投手・遠藤忠は'38年秋一塁に入り5本塁打(2位)。岩田次は来番前の'36年、リーグ初の満塁本塁打記録。芳賀、木村('41'42年)、松本貞('42年)は二遊間を守るつなぎ役、と野手は多士済々の陣容。
 初期2年に固まっている監督にもふれておくと、伊藤勝は公式戦における(当機構[NPB]における)選手兼任監督第1号。“公式戦”というくくりを外せば2月9~11日の対巨人壮行試合での二出川が第1号。ただし二出川はリーグ戦開始前、審判転身。伊藤は初代監督・永井武雄がリーグ戦直前のノンプロとの試合に敗北、で馘首[かくしゅ]された末の緊急着任。結局2勝25敗3分の成績で解任され、件[くだん]のノンプロ戦で主審を務めていた小西が秋季終盤より後任に就く(余談だがその試合で塁審を務めていたのは二出川)。残る1人の横沢(=も選手兼任の形だが既述通り代打1出場のみ)は「東京セネタース」~戦後も別派の「セネタース」、の創設から関わった人物。東京セネタースの最終球団名・西鉄、と同母体の「ライオンズ」から川崎、東尾、セネタースの後身「フライヤーズ~ファイターズ」から土橋、高橋直、西崎、がエース輩出されたことを思えば、この横沢が「21」史の水先案内人という見方{※1}もできる。
 そのエース系譜の初代は森。'38年春チームトップの5勝。秋、宮口も同6勝。'39年宮口10勝、森7勝。と、ここまでがエピローグ。'40年真のエースとなった森が28勝で一気に芽を吹き、'41年開幕8連勝を含む30勝、'42年も19勝。さらに川崎'41'42年とも10勝台、三富'41年6~'42年11勝、松本貞'41年4勝(~'42年野手転向)。対して野手は岩田次、富松と中心打者を得るが、ともに打率2割そこそこ。イメージ優劣が入れ替わった。
 一旦リセット後の'46年、清水喜が二塁の半レギ格、塚本が控え外野、と静かなスタート。も、'47年川崎24勝、から'55年まで連続2桁勝利(20勝超3度)。'48年、柚木[ゆき]が加わり'54年まで連続2桁勝利(20超は0も19勝4度。この2人が以後のイメージ基盤を作ったといっていい。他の2桁勝利投手は'53年のゲインズ&入谷[いりたに]のみだが、野手方の'47年レギュラー、塚本&小前[こまえ]が翌年揃って移籍脱番。しかも塚本は打率.300(4位)にかかわらず、7月16日にタイガース7選手が打率10傑入りした時にランク外だったため、同日命名「ダイナマイト打線」の口
伝[くでん]に加われず。小前も開幕2戦目、白木義一郎の「投捕ゴロ(無走者での投ゴロ時、打者が一塁へ走る意思なしと見るや投→捕→一と送ってアウトに取る“おちょくり”プレー)」最初の犠牲者となる不運。加えて金田は'46~'49年、'51~'54年で各々3度の打率3割超ながら「21」を着けた'50年.254{※2}(セの42位)と大不振。さらに仁木が胸部疾患で選手引退。五番打者・田部に、正捕手・佐竹も離れ、投手番流れは確実になった。
 投手は両頭去るも、'57年藤田を挟んで、'58~'64年と連続2桁勝利(20勝以上5度)の杉浦、土橋で新両頭現出(30勝以上も杉浦2 、土橋1度)。特に'59年杉浦は38勝4敗&日本シリーズ4連投 4連勝(3先発2完投)という超絶奮迅。同年は土橋も10無四球完段(当時パ記録)&連続無四死球 50イニング超(当時歴代2位。ちなみに当時1位は前出の白木の74イニング)をマークし27勝~'61年にも両記録を再現し30勝。'62年は17に勝数減もチーム初優勝~日本シリーズでは1、2戦目に先発失敗後、4救援完了(うち3度延長戦)してMBP{※4}。他にも'59年島原、'60'61'63'64年伊藤芳、'61年森滝、'63'65'66年山中、'63'66年若生、'65'66年竜、'66年堀内が2桁勝利。という賑わいを前に、'56'58年沖山、'59年横山のみ規定クリアの野手像はますます陰る。'67年西田が準レギながら草創期の打者イメージを思いおこすかのように32を走り盗塁王。'71年山尾も準レギながら五番起用されたのが精一杯のあがきだった。
 投手は'66年堀内13連勝の良縁を、'69年高橋一が乗り継ぎ15連勝~最終的に22勝を挙げ、以降5年2桁('73年23)勝&同'69年~4年連続日本シリーズ“完投”胴上げ投手。'69年は高橋直も2桁勝利、'75年からはエース、'79年は20勝&11無四球完投{※5}(パ記録)。同期入番・東尾{※6}も'72年からエース(20超2度の計251勝)。加えて松本幸も'72~'76年各13勝以上('74年20勝)。同期入番・今井は'78年から6度の2桁('84年21)勝。同・佐伯も'73年19 勝含め3度、さらに'70年鬼頭、'76'81'84'86年加藤初、'77~'81に'84年柳田、'77'78'80年鈴木、'78'80年野村収も2桁勝利。また'62年日本シリーズでの土橋、のあと竜が主に救援で'63年~9、8、18、16勝マーク。も、'65年20勝&成功率も高かった宮田征典に(活躍期間では優るも)印象をほぼかき消され長期潜伏。ようやく'79年以降金城&倉持と揃い、'84年西井も加わってリリーフエース像再胎動。
 その一方米田、から佐伯('81'82年時)、井本、山内、三沢で一時イメージロートル化の波が立ったが、'86年西川10&遠山8 勝~'87年西崎15勝~'89年渡辺智10勝、'88年野村弘も初登板完封とルーキーの活躍が続き、反動付きイメージ刷新。この中から西崎、野村がエースとなり、'89~'91年渡辺、'93~'95年野田、'96'97年吉井に、'87年杉本、'91年宮本、'95年工藤も2桁勝利。'93年には野田&野村とも17勝でパ&セの最多勝ジャック。野田はここから3年エース格。も以降しばし、'98年前半の趙[チョ]、'02年後半のユウキの他、軸となる存在が現れず。
 そのスキを突いて'94年~関川、フランコ{※7}、平井 ('98'99年)と野手勢久々レギュラー躍動。クーパー、ウィットモア、コールズも準~半レギ。'95年関川(半定着だが“一番捕手”)&フランコ、'98年平井は打率10傑入りと振興するが、その出足が止まった'03年、岩隈が開幕6連勝~最終15勝、和田&木佐貫も2桁勝利、吉野&清水章も中継ぎ役でイメージ反転。岩隈は'04年も開幕12連勝~連続15勝でエース着任。和田も'07年まで連続2桁勝利の準エース。加えて再々復刻番の吉井が'06年7勝、武田も切り札中継ぎ定着とパで盛況。も、セでは木佐貫、吉見、吉野が伸び悩み。助っ人の'06年9勝ダグラス~'07年14勝高橋尚で遅れ挽回した。
 またリリーフエース系脈は'90年吉井、'91'92年池田、'99年西崎、に半定着で'94年小島弘、'04年木佐貫が続いたが、吉井以外は苦肉策の感。その吉井も'88~'90年の同期間を「36」→「11」→「21」と全て別番号で過ごし“「21」のリリーフエース”イメージは希薄。ながら分家のセットアッパー像が小坂[おさか]、正津[しょうつ]、盛田、吉野、武田、に'03年清水、'06年石井と徐々に浸透増。
 そして2008年現在、'06'07年と5勝以下に沈んだ岩隈から、和田&高橋が共同旗手となり“左腕像”が掲揚。特にセには5人の左腕が集結と、イメージレースに新たな局面が訪れている。
【2008年開幕時点】

{※1}また三原は当機構[NPB]の契約第1号選手〜のち西鉄監督就任時の、橋渡し役が川崎。その“三原西鉄”の四番・大下弘、をプロにスカウトしたのが横沢(紹介者は清水喜)。
{※2}しかも当時ラビットボール導入(='48年終盤~'50年)で名打者軒なみ打率上昇時。その“跳び”の威力の最顕著試合は'49年4月26日。 開催球場(兼六園)の狭さも主因ながらそれまで通算0本塁打の川崎が3本、本業では8本を浴び、15-13完投勝利。
{※3}'58年ゲーム16奪三振は当時新。'93年野田も16個~'94年当時タイ17~'95年19で単独新。
{※4}シリーズでのスクランブルリリーフは東尾、に'98年西崎(=当時監督・東尾)が再現。'82年東尾はMVP。'04年石井(にもちろん'59年杉浦)もMVP。また'53年入谷、'90年渡辺智はシリーズ初登板完封。'03年新人和田“完投”胴上げ投手。同年吉野も6連投。
{※5}また杉浦の下手[アンダー]像も継承・・・他に武末、森滝、若生[わこう]、木原、弘瀬('65年時)、金城。に横手[サイド]で入谷、柳田、三沢、山根、正津、吉野。現着者では上手[オーバー]ながら“球筋は下手[アンダー]”の武田健在。
{※6}東尾以降、加藤初、吉井、盛田とシュート武器の“ケンカ投法”タイプ脈々。高橋一のスクリュー、今井、高橋尚(に後年高橋直も)のシンカーも、シュート系特異球。
{※7}'91年米アリーグ首位打者(次着・平井も'91年パの首位打者)。自身ルーツの中南米の開拓者的選手で、被災地救援活動中に墜落死したロベルト・クレメンテの「21」を追慕[オマージュ]着用。
【2008年開幕時点】