2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

15

【2008年開幕時点】

 

 ほとんど投手番採用だが、野手が着けてもさほど違和感がないのは永久欠番選手・西沢が“野手転向後に”別番から「15」へ変えたことが影響しているのかもしれない。のちに池之上、畠山も同じ道をたどっている。また「15」には御園生[みそのう]を始め、 五井、武智、宮下、黒尾、一言、北井、平川と投&野手兼業選手が多い。 「15」では投専任も、別番時両刀で鳴らした前川、内藤もいる。'06年着ルーキーの柳田も当初“2刀流挑戦”を打ち出し、性質健在なりを示した。
 さて西沢の登場まで、野手は苅田、中根、平山、吉田猪に御園生も含め巧打者系が大勢[たいせい]。山田、山本、呉を加え俊足揃いで、平山、吉田の他は身長170cm以下と、小柄、敏捷タイプが多かった。ただ「名人{※1}」苅田は敏捷というだけでなく、優雅な風情を湛えたスター選手。'38年秋はチーム5位、白身も(二塁打数トップとはいえ)打率9位ながらMVPに選ばれた。
 対し投手は最強の2番手役・御園生が「銀行員」のあだ名通り'37年秋11勝0敗、'38年春10勝1敗、'39年14勝3敗・・・と安定し、'36年北井{※2}、'37年春の近藤久もエースとなって働いたが、トータル的には戦前・戦中期、大差で野手イメージリード。
 そして戦後、182cmの長身ロングヒッター・西沢が現れる。元々は投手として'40年20勝、'42年には無安打無得点、&延長世界記録の28回完投(=日没引分)など活躍するも、肘痛で投手断念。から転向3年目の'48年「15」着。以降打率3割超5度、本塁打セリーグ2位2度、'50年5満塁本塁打(日本記録)と中心打者に君臨。苅田同様“華”という言葉が似合う選手で、苅田が“動”の流麗さで酔わせたタイプなら、西沢はドッシリとした“大樹[たいじゅ]”系。
 その大樹に寄り添うように手塚、安居の巧打者が出、すぐあとには幾多の球団を渡り歩いた「和製ディマジオ」小鶴が選手生活最後の場として「15」へ流れてくる。ただ、そこからは鵜飼、高林、西山と徐々に先細り。さらにイメージ哀勢の決定打となったのが川上哲治~王貞治両一塁手の各々“影武者{※3}”のようなキャラだった岩下~木次が続いたこと。特に木次は183cm(体重81kg)の大柄体型、かつ無類の長打力を誇った西沢の純正後継者。ながら“代打2球交代事件{※4}”に象徴される不器用さが災いしてイメージ継承果たせず。追い討ちをかけるように'64年ベルトイアが4月早々解雇され、走•攻•守揃いのスラッガー・ジャクソンも'68年改番。小金丸~畠山も(「15」では)不開花。からデービス、パリッシュ、ウィルソンが大花火を打ち上げ、ファイターズにのみ再生の芽も宿すものの、現状まだ系統化し得ず。
 と、「西沢番」の面影は段々と廃れていくが、「苅田番」方はトリックプレーヤー・大沢、から高林、朝井の堅守系、のあと岩崎忠、高橋、池之上、森脇、五十嵐、平尾のユーティリティータイプへと生き継がれる。忘れてならないのが山倉で、'87年には.273  22本塁打 66打点の八番打者(にしては充分すぎる数字だが)でありながら、“守りが評価されて”MVPに選ばれたあたり「苅田番」 の由緒を大いに顕した選手といっていいだろう。
 が、こちらも今は完全に廃れている。 もちろんのこと投手像奔流にさらわれたわけだが、その第1波は戦後明け。新鋭・黒尾が'47~'49年計52勝、古株・御園生も'47年開幕13連勝~最終18勝6敗と相変わらずの高勝率ぶり。 中堅・木下も'48年17勝。と'49年時点で本格化とば口の西沢、レギュラーなりたての手塚、の野手を完全リード。も、2リーグ割れを前に黒尾、御園生が抜け、新参・江田は'50年23勝を挙げながらチーム3番手投手のためイメージ寄与希薄という間の悪さ。結局西沢の急成長、'50年安居&手塚、'53年~小鶴が主戦力の野手再リード。ただ、数の特性を生かし'50年木下&内藤、'50'52年五井、'51~'53年高松、'52'55年江田&宮沢、'53年宮崎が10勝前後マーク。 第2波を待つ体制を着々と築いていく。
 その成果は'54年~河村久が 5年で95勝、となって現れ、西沢、小鶴が衰え始める'56年に種田17勝の強力フォローもあって、旗頭奪還を果たす。だが河村後のイメージリーダー・大津が'58年10勝22敗で敗戦王となると、以後11勝20敗、0勝11敗、4勝13敗と最下位球団の悲哀をモロに浴びる。河村が常勝球団のエース{※5}だっただけに、この変節ぶりはなお際やか。他にも“河村脱番ショック”が襲った'59年、種田3勝11敗、田中喜1勝9敗の凹みよう。
 その'59年、逆に日本シリーズ第3戦で、9回裏同点でのランナー三塁という場面で、誰もがサヨナラ安打と思ったセンター前への小飛球を、ショートのすぐ後ろまで前進していた中堅手・大沢がフライアウトにし、さらにタッチアップした三塁走者も本塁で刺す大ファインプレー{※6}を完成、俄然野手「15」に衆目は移る。
 そんな流れを戻したのは、'62年ルーキー開幕投手となり24勝、含め5年で100勝超を稼いだ「エースのジョー」こと城之内{※7}。プロ同期生の稲川{※8}も新人年より5年連続2桁勝利、うち20勝超2度マーク。ただ両人とも“向こう受け”タイプでなく、西沢も監督では心労続き、米国帰りの村上(背番号「10」編参照)も“即戦力”とはなれず酷評されることしばしばで、「15」は影のある背番号となっていく。'67年権藤の防御率1位、'68年村上の勝率1位も“苦労した末の”の感強く、'68年よりローテーション加入の石岡、益田もなかなか勝ちが先行せず苦戦。
 ただ同じ'68年台頭の水谷はオールマイティー起用で15勝7敗~'69年11勝7敗の星を残し、'69年にはワンポイント実績者・平岡が来入。さらに権藤、石岡も駆り出し“ブルペン番号”像点火。黒い霧事件で益田が抜けたあとの、弱体化ライオンズ投手陣のロング救援・田中章へつなげた。
 だがその便利屋的扱いが'71年、“元エース”の城之内にまで及び、首脳陣との行き違いから打撃投手&敗戦処理要員異動~さらに消化試合での突然先発指令についにプッツン。 '73年にも権藤が造反退団。 とさらに影が挿し込む中、'70~'72年連続2桁勝利と水に慣れた村上が光芒を差し返し、'73年には水谷が再浮上し12勝4敗~'74年11勝5敗と相変わらずの勝ちヅキぶり披露。すると'75年“高勝率ブーケ”は間柴の手に落ち開幕6連勝(3完封)・・・も以後7連敗と“スピード離縁{※9}”。それでも'75'76年と谷村が連続2桁勝利して上昇ムード堅持。
 そして'79年、ルーキー・松沼が16勝。'82年にはサイドの工藤が20勝、速球派の津田11勝、アンダー・松沼10勝、巨人キラー・門田富も8勝と色彩豊かな布陣を現出。だが故障も含め1、2年で急落するケースが関口、工藤に岡林、横山道、それを2度くり返した水谷、河原純と続き、コンスタント組は松沼以後、荘、山崎、湯舟と“10勝すれば10敗する”タイプで安定地盤が築けない。ブルペン勢も中継ぎの野村、河原隆の他は、'81年関口、'86年荘、'90'91年武田、'91年岡林、'02年河原純、'04年横山(抑え)に'92年盛田、'98年ウイン、'98'99年藤井(中継ぎ)・・・と短期着座{※10}が目立つ陣容。
 という状況の中、黒田が'00年~8年間で7度の完投王となり、城之内、稲川以後空位だった“大黒柱”の座を継承。釣られるように抑えで福盛、中継ぎで加藤大が“3年目の壁”を突破~加藤は'07年途中から抑え着任。ところが黒田、福盛が'08年大リーグ移籍で同時脱番。再びぬかるんだ地盤となり、竹本より嶋田、太陽、森と続く逸材の沈下も暗雲ムードを募らせる。昇華気配の太陽、に新鋭大器の辻内&村中はこの窮状をはね返せるか。
【2008年開幕時点】

{※1}「苅田の前に苅田なく、苅田の後に苅田なし」と謳われた二塁守備の開祖。送球方向を見ずのスナップスローや、擬音を使っての空タッチプレーなど清濁併有の始源。
{※2}'37年急逝。のち藤井も'99年肝癌を患い、翌年逝去(当時同僚だった井口資仁は'05〜'07年と米国にて「15」でプレーし遺志継承した)。またジャクソン、津田も脱番後の選手現役中に病に臥し、闘病ののち逝去。盛田も脱番後の'98年脳腫瘍摘出手術を受けるも再起、'99年392日ぶりの登板を果たし、'01年1軍定着、1028日ぶり勝利も挙げた。
{※3}さらに河原田[かわらだ]は高校で王の控え投手。また稲川は'62年“一本足”第1号本塁打被弾。
{※4}サインを長く見すぎたため投球に気付かず、即座に“代打の代打”を送られた事件。
{※5}実はその時期大津もライオンズの一員で、'52と'54年は18勝、'55年21勝を挙げていた。
{※6}背景には初の専従スコアラー・尾張久次のデータ分析があったとされる・・・またこの時の三塁走者は広岡達朗で、のち'83年ライオンズ監督時には尾張の力添えを得てチームを日本一へ導いた。
{※7}荒れ球が特徴で、「15」は他にも内藤、五井、村上、荘、盛田、野村、阿原隆、真木、平本、大沼が同系。その報いとして門田富はシピンに、関口はリベラにパンチを浴びた。対してデービス、パリッシュは逆上組。元をたどれば苅田は退場第1号選手。
{※8}に権藤、清[せい]、平岡、松沼博、稲葉光、金田はカーブ巧手。河村、城之内、安仁屋、工藤、盛田、晩期黒田でシュート族共栄。近年河原純、黒田に福盛、横山道のフォーク派も。
{※9}脱番後の'81年、15勝0敗で('36年秋景浦將~)御園生以来史上3例目の勝率10割完遂。
{※10}盛田は脱番後に地位再確立。同ケースで津田も先発3年目失速、脱番後抑えで復活。
【2008年開幕時点】