【2008年開幕時点】
「14」と聞くと左腕[サウスポー]イメージがわく。が、それが根付いたのは結構最近で阿波野('87〜'90年)、今中('90〜'96年)の活躍から。過去、清水、阿部、高橋輝が'50年に計33勝という年はあったが、その3左腕以外では'36年内藤、'54'55年武内、'56年榎原、に中継ぎ・小林国が目立つ程度のマイナー系脈。
'83年にドラフト1位ルーキー・野口が入番、'86年には杉本2桁勝利で胎動の芽が出るも、野口は通算5登板、杉本はそのオフ改番、で気運は一瞬にしてついえていた。
そんなムードの中、登場したのが阿波野。いきなり15勝を挙げエースの座を獲ると、以後も14、19、10勝。'90年は阿波野の他、今中、酒井も10勝マーク。一気に左腕像が芽吹いたが、'91年からは阿波野、酒井は急下降。今中1人がイメージの灯を守っていくことになる。
ただ、この間残したインパクトは強大で、小宮山、若田部、石井が続いた右腕、とうらはらに'97年から今中まで故障で欠いたにもかかわらず、「14」は“左腕の背番号”であり続けた。それまでは武骨系右腕が大勢、だったところへ涼やか系左腕が続けざま出現、ともに見かけ華奢ながらその実タフ{※1}、という点も印象鮮烈度が増す要因となり{※2}、(右も含め)これより若田部、澤﨑、平松、萩原、小野寺、馬原、能見、スチュワート、岸田、グリン、高市、篠田にベテラン、加藤伸(&野手・アリアス)と妙に色気付いた番号へと変わっていく。途中「佐野重樹」という強烈な揺り戻し現象があったが、石井、井場、河(かわ)本でフォローも入ったが、(石井は佐野より先の入番も“コワモテ”キャラが立ったのは'97年頃)根付くには至らず、現在は辛うじて朝倉が“漢[オトコ]”臭を発すレベルで留まっている。
さて、もう少し遡ってみると'60年代中盤にも転換期がある。'63年阿部、'65〜'67年板東から、佐藤道、山口高、川原、津田と継がれていった抑え投手流れ。'88'89年山内、'95年佐野、'97年石井、から'99年澤﨑、'02年井場、'03年加藤大、と徐々に“不動の”感は薄れたが、馬原、小野寺で依[よ]り戻し中。
そしてこのリリーフイメージの胎動をうながしたのが、三原脩監督より日本球界初の“ワンポイント救援”役を充てられた'59年の阿部。ただし'65'66年竜、'70年平岡、'76年高木孝と併せて('78年以外の小林国も含め)半〜準定着レベル。本格的には'78年小林、から(阿波野から今中席巻の追い風を受けての)弓長、'93'94年酒井、高橋憲、森中、'06年河本&能見がワンポイント〜セットアッパー{※3}躍動。で左もリリーフ一定侵出を遂げた。
ところで山口高、阿波野は入団から4年、山内、井場に、ぐっと遡って高橋輝も、入団から2年が実質の活躍期。酒井、澤﨑、加藤大は(故障離脱を含め)2年目のジンクスにはまり込み、2年目から2年間活躍の山口和、ともども「14」での復活はならず。通算91勝の今中にしても最後「悔いは、あります」と遺し30歳で退いた。リリーフで4年奮闘の川原、津田も併せ「14」には“パッと咲いて、パッと散った”選手が多い。
そしてその最たる存在として語り継がれているのが、伝説の投手・沢村栄治。'34年の日米野球第9戦で“ひょっとしたら”の期待を抱かせた0-1負け。それ以外のほとんどが大差負けだった中での惜敗完投ピッチングによって沢村は一躍寵児となる。そのままジャイアンツの一員として2度の米国遠征を経て{※4}、国内のリーグ戦に初参加した'36年秋、いきなり当機構初の無安打無得点を記録&13章(2敗)で最多勝にも輝いた。翌春、2例目となる無安打無得点、含む24勝(4敗)で連続最多勝&初代MVP&20勝投手第1号。秋は9勝(6敗)と失速するも、通年30勝投手第1号(ちなみにチーム試合数は36年秋〜27、56、48)。だが翌年から2年余の軍隊生活で肩を壊し、帰還後はコントロール重視に転身。それでも'40年、自身3度目の無安打無得点を記録するあたりに、当時いかに傑出していたかが顕れている。この年7勝〜'41年9勝を挙げ、再応召。から復帰した'43年は、ほぼ腕が上がらなくなっており4登板(+代打10出場)。その後3度目の出征、'44年12月2日戦死した。
ただ沢村が存在した当時、「14」は必ずしも投手番号ではなかった。 '36年内藤{※5}、'36'37年桜井、'39年繁里[しげさと]、'40年木下、'41年山本秀とイメージフォロワーが目まぐるしく入れ替わり、桜井('36年〜1勝10敗、0勝9敗、2勝3敗)、山本(7勝19敗)は大きく負けが先行。一方野手は守備芸人・西村{※6}をメインに、'37〜'40年正三塁手の横沢が(この4年6季、打率はすべて1割台ながら)脇を締め固める構図。“投の沢村”のイメージ対抗馬として存分に渡り合っていた。
戦後に入ると'46年石田、'47〜'49年清水、'49年池田が2桁勝利('47年清水23勝)を挙げ、'47〜'49年一塁・玉置(安居)、'48'49年遊撃・松本和が不動、'48年捕手・伊勢川が準レギの野手とがっぷり四つ。から2リーグ分立後、投手増で一見優劣決したに思えるも、'50年〜6年間でこの5度2桁勝利の阿部を軸に高橋輝、佐藤平、清水、重松、さらに大田垣、大石、'54年武内、'57年小山、滝と10勝前後推移の堅実派で固める投手に対し、野手は西村のイメージを汲むサーカスプレイヤー・木塚{※7}、に重量四番打者・児玉{※8}と少数精鋭。多勢に対し濃密さでとまだニラみ合いは続く。が、野手はその後'56年北川、'58'59年渡辺、'59年前田益、'63年山本久、'64と'66年高山、'67年バルボンとレギュラー輩出速度減退。投手は相変わらず本間、弘瀬、板東('61'62年は先発。安部も'64年は先発兼任)と堅実勢が続き、'63年、徳久20勝、'65年外木場は初勝利が無安打無得点、それに先記・安部〜板東・・・でいよいよ本格雄飛気配。
から68年、快挙後低迷が続いた外木場が21勝&秋、今度は完全試合達成。以後カープのエースへ。'69年からは清[せい]が4年連続14勝以上{※9}、'70年からはリリーフ・佐藤道も輪に加わった。そして'72年外木場またも無安打無得点。計3度目の達成で“沢村の背番号”らしい雰囲気を作ると、'75年には「沢村賞」受賞。
また沢村を起源とする“速球伝説”の後継発現者・山口高を'75年に迎えると、以降津田、山口和と当代継承者をリストアップ。この「沢村番」のご威光を前に、谷沢、中村、'74年高橋二と必死の抵抗を続けた野手勢もスゴスゴ退散。'87年湯上谷、'89年若井に、パチョレック、アリアスが思い出したように顔を見せる程度に収まった{※10}。
また右の2桁勝利フォローが'71年高橋明、'75'76年山口高、'77年佐藤道、'80年奧江、'83年野村、'90年宮本賢、'97年澤﨑に、小宮山5度、若田部4度、石井、朝倉各2度&救援で佐藤道、山口高各2度、津田、佐野、石井各1度と入り、'56年阿部から'86年杉本まで現れず、の左を大きく引き離した。が、冒頭既述の阿波野〜今中席巻で「沢村番」よりイメージ転回。現在左は阿波野〜今中のイメージ師事者、能見、篠田がいるものの、一軍当落線上。先発に朝倉、グリン、岸田、抑えに馬原、小野寺と揃い、小宮山も一軍帯同戦力と相変わらず右優勢布陣ながら、
突如現れたイメージインパクトの余韻が、なお響き続けている。
突如現れたイメージインパクトの余韻が、なお響き続けている。
【2008年開幕時点】
{※1}阿波野は'87年22完投=パ新人記録、含め'90年まで計109先発で68完投(「14」での通算は137先発70完投)。今中も'93〜'96年計103先発54完投(通算187先発74完投)。
{※2}さらに、阿波野が勝てば優勝となる'88年最終戦(10月19日=通称「ジュッテンイチキュウ」) に“詰め”登板・・・も、あと5人のところで高沢秀昭に痛恨同点被本塁打(結局引き分けて優勝ならず〜翌年再び“詰め”投入され胴上げ完遂。だが日本シリーズではチーム3連勝後4連敗)。今中は'94年“勝った方が優勝”という巨人との最終試合相星決戦に先発・・・も4回5失点(3被本塁打)で負け投手と、栄光寸前で散ったことが、より印象鮮烈化。
{※3}右では宮本幸、五月女[さおとめ]、田中由、木村、宮本賢('89まで&'95年)、野村、大門、佐野、廣[ひろ]田、井場、山口和、'96年石井、'03年澤﨑、'04年〜小宮山、'05年小野寺、'07年岸田。
{※4}ただし日米野球での背番号は「8」。1度目の米国遠征時は「十七」。
{※5}初代奪三振王は沢村ではなくこの内藤。プロ入り前には'34'35年と軟式全国大会を全試合完封で連覇。'35年の東京予選は37イニング(計111アウト)で98奪三振。「14」では他に石田、河本も軟式出。河本は高校時、県大会3試合連続無安打無得点の記録がある。
{※6}回転捕球が得意芸で、同僚の黒田健吾、山田伝とともに「阪急三奇人」と称された。
{※7}NHK・志村正順アナに「飛燕三尺、拝み捕り、木塚忠助、サーカスプレー」と実況され、一塁・飯田徳治、二塁・山本一人、三塁・蔭山和夫と「百万ドルの内野陣」を組んだ。
{※8}大学時は救援投手兼務。その時の先発・清水とのリレーをドラゴンズ「14」番史上で再現した。
{※9}'69年オールスター初出場時、佐々木信也に「日本で1番フォームがきれい」と紹介された芸術肌。その“きれいな”仕事ぶりは(他番時の)'64年プロ初勝利が無四球完封、(他番時を含めた)通算勝利がちょうど100、防御率は3.14・・・と記録面にも顕著。
{※10} '72年〜4年連続.290台だった谷沢が脱番初年に.355(首位打者)。他にも、安居が脱番で3割到達、佐藤武、前田益、湯上谷、八木がレギュラー奪取、谷田、山尾、内田も準レギ格。逆に宝山[ほうざん]、水上、寺田、バルボン、中尾は峠を過ぎて来番。
【2008年開幕時点】