2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

17

【2008年開幕時点】

 

 スタルヒン、藤本、秋山登、松岡、山田久・・・と見ていくと「18」ほど表街道的でなく、といって「11」ほどの悲哀色もない。大人な雰囲気は「20」にも似ているが、「20」が胸を張って堂々としているのに対し「17」はややうつむき加減。淡々と、黙々と、必要以上には感情を顕さず、それでいて残した実績はシーズン最多タイの42勝&通算100~200~300勝の各到達第1号のスタルヒン、スライダー開発&完全試合第1号の藤本、ダブルヘッダーでの1日2勝を5度&2リーグでは唯一の2日連続完封記録の秋山、最長タイの3年連続MVP&(ニグロリーグを除いた世界中の「プロ野球」1軍公式記録上では米大リーグのトム・シーバーと並んで)最長の12年連続開幕投手を務めた山田・・・などアツいものばかり{※1}。といって、ことさ
ら偉業を誇るわけでなく、そんなに取り上げられないことをいじける風でもない。あくまで淡々と、自分の胸のうちにだけしまってポーカーフェイスを貫く、そういうところがある。通算で山田284、秋山193、松岡191勝と区切りにせまったところでの選手引退にもあまり無念さはにじませず、逆に西沢、近藤の両20勝投手はケガで一時を棒に振るも、退番後に西沢は主軸打者、近藤も“3本指の投手{※2}”で名を馳せ再躍動。石もて追われるようにして「17」へ移ってきた江夏もここから“リリーフ革命”をおこし、退番後「優勝請負人」と呼ばれるなど往時を(必要以上に)引きずらない切り替えの早さも持ち味。引きずらないといえばこの江夏を含め、スタルヒン、門前、江田、内藤、木下、飯尾、伊藤四、野村収、安木、高橋直、加藤伸、武田、杉山賢、門倉、の移籍3度以上経験の渡り鳥{※3}プレーヤーは大体において行く先々で戦力になっている。スタルヒン、門前、と見るとこれは生い立ちからの資質。
 その両者とも、戦力定着は'37年から。スタルヒンは当年秋季~'40年、連続最多勝。だが戦時体制が強まるにつれ、白系露人には息苦しい世の中となり、'40年9月16日「須田博」と改名させられ、'44年からは外国人収容所での生活を送った。
 一方門前は'37春、'39年、以外は小川年安~田中義雄のカベにはね返され控え役。'43、'44年と田中に追いつき、追い越した2シーズンがちょうど背番号廃止時というのが「17」にとっては不運。捕手勢は'36秋~'37春北浦、倉本、'38秋~'39年中田がレギュラーと出足好調だったが、出征などで系譜が途絶えた'40年、西沢20勝。'42年には笠松17勝。もちろんスタルヒンもこの間('40年~) 38、15、26勝を挙げており、完全に投手勢から引導を渡された。バッテリー以外では浅原、'38年以降の五味、柳{※4}がレギュラー。まぁ流れはいくつかあったが、結局はスタルヒンの超絶的奮迅が中断までのイメージイコール。
 明けて戦後、スタルヒンは巨人には戻らず敬慕する藤本定義監督に師事、流転の球歴を歩むことになる(最後のユニオンズでのみ藤本の手を離れた)。出場復帰は'46年10月だが、前祝いとばかりにこの年近藤23、渡辺10、江田9、笠松8勝で投手勢がイメージの主導権を握り、'48年吉江16勝、'49年スタルヒン27、藤本24勝で一丁上がり。'50年から門前{※5}、白坂、本屋敷、玉造と野手(&捕手)レギュラーの反撃もあったが、'46年の宮崎を含めシブ好みタイプばかりで追随者を生む流れとはならなかった{※6}。むしろ打で目立っていたのは強打兼備投手達で、'46年7月16日に打率10傑をタイガース7選手が占め「ダイナマイト打線」と命名された時点でのトップランカー・渡辺(この年一塁兼務)、に'48年肩痛時“一番右翼”出場~'49年代打サヨナラ本塁打~'50年投手年間最多の7本塁打を記録した藤本、その藤本・15より多い通算19本 マークのスタルヒン、中断前の古谷も'36年秋季の2冠打者(背番号「12」参照)。また西沢、椙本[すぎやま]、安原は退番後、有村は'54年、山崎正は離番中の'63'64年、野手転向。'65年山崎、来番前の内藤は両刀出場。加えてスタルヒン 191cm、西沢、渡辺とも182cmと当時では頭抜けた長身選手が揃ったことで、使い出のある“タフネス投手”イメージが完成した。
 2リーグ分立以降も藤本を軸として、沢藤が10勝超3度、樽井、杉浦が'52年9勝、スタルヒンも常時10時前後。藤本以外の面々は弱体チームをバックにしての奮闘。'54年からは和田が15時前後で3年と継ぎ、'56年秋山登来参。いきなり25勝、ながら25敗とこちらも弱いチームならではの大車輪ぶり{※7}。“タフネス”像を継ぐとともに、沢藤、鈴木幸からのアンダーハンド系譜承継。後者像は以降も安藤、山田久、柳田、深沢、高橋博、からサイドの佐々木修、山崎健、戸叶[とかの]、加藤武と連なっていく。ただ負けグセ{※8}はいかんともしがたくこの'56年~4年連続敗戦王。しかし5年目コペ転が訪れる。仕掛人は三原脩[おさむ]。当'60年ホエールズ監督に就任すると前年まで6年連続最下位の同チームを優勝へ導き、必然的にエース・秋山は21勝10敗で初の勝ち越し、何と最高勝率に輝いた。パを制したオリオンズの「17」中西も初の200イニング超で16勝。日本シリーズではともにチーム最長イニングを投げ秋山2勝、中西2敗(ホエールズが勝利)。大舞台の重要ポストで「17」同士が張り合うという前年までには考えられなかった光景を現出した。「三原マジック」はこの後'68年バファローズ、'71年スワローズの各監督就任初年度に板東、松岡がともに初2桁勝利という形で「17」に寄与{※9}。またこれもめぐりあわせなのか('60年時の)敗軍の将・西本幸雄はその後ブレーブスで山田久を見出したが、西本監督下での山田はついに日本シリーズ無勝利{※10}。もっとも山田自身は最高勝率4度(日本記録)と完全に勝ち運づき、'75~'77年と連続日本一も経験。ただ'78年、ブレーブスV4の夢を破ったスワローズの、時のエースが“三原遺産”の松岡。くしくも“西本遺産”山田との「17」 番対決はまたも三原方の勝利に決した。この他'74年金田{※11}、'80'84年山根がシリーズ中心起用され、'93年川崎、'94年槙原はMVP。'51~'53年藤本、'62年安藤、'73年倉田、'82'83'85年高橋も第2先発役こなしブランド番号像増進。'84年にはカープ・山根、ブレーブス・山田でみたび“シリーズ対番”が。実は過去2度は両頭先発試合0、だったが今度は1、4、7戦で両頭先発、ともに平均8イニング弱を投げ、山根1勝、山田3敗 (カープ勝利)。
 また'77年前期終盤よりストッパー・江夏が登場。同年セではリリーバー・浅野がリーグ優勝貢献。すぐに流れとならずも、江夏が脱番後の'79~'81年“覇権の影にストッパーあり”を立証したことで出生番としての自負に目覚めたのか、'82年から斉藤明、牛島を得てストッパー番イメージを確立。斉藤は江夏と同じく先発からの転向で、先発復帰の'88年右投手初の通算100勝100セーブ達成(左の第1号は江夏)。ただ以降は'89年佐藤誠、'94年盛田、'98'99年槙原、'04年大竹、'06年高橋尚の準ストッパーの盛田、加藤武、に'90'91年川端、'91年上原、'94年新谷、'99年後半サムソン、'00年石毛、'03年伊達、'04年山田秋、戸叶、と単発型が目立つ。
 さてストッパー像勃興の'82年は先発組も(パで)山田久、深沢、高橋直が揃うアンダー株急騰の動きがあった。'86年に高橋去るが新鋭・佐々木が8勝 ・・・も翌年大暴落。かわって(今度はセで)槙原、続いて川崎が現れ力投型へ像回帰。だがこちらも上原、石毛、前田、矢野、山田秋、 長崎、手嶌、金村の速球派苦戦で、長谷川、新谷、高橋尚、ムーアのまったり系に押され気味。加えて加藤伸、佐藤誠、佐々木、上原、川崎、山田秋、川島、香月が活躍とば口で長期故障離脱してタフネス番の面目丸つぶれ。それでも、大竹、加藤武、川島、山崎敏、姜[ジャン]と気っ風良しタイプが揃い、'08年、前年16勝1敗の成績に、タフネス像の申し子・大場が加入。一斉席巻なれば力感再挙、“ガラスの”イメージも払拭されるだろう。
【2008年開幕時点】
 
{※1}他にプロ入り前年大奮闘した安藤(背番号「11」参照)や、'66年日本シリーズで初登板完封胴上げ投手、の4日後対ドジャース親善試合でも完封した益田、'02'03年各10勝&計111打席 で打率.295のムーア、近年ソフトボール界から上野由岐子もイメージ参与。
{※2}'46年オフ、突進してきた占領軍のジープをよけ川に転落。石中指腱断裂も、人、中、薬指に親、小指を添えた魔球「パーム」で'48年~7、7、10勝。『人生選手』で映画化も。
{※3}選手引退後20年会社員~南海寮長の田中一、に理学療法士で広島返り咲きの栗田も。
{※4}'39年66、'40年75失策は年間記録の3、1位。戦後白坂、本屋敷を得てイメージ融和。
{※5}復帰は'48年金星。くしくもスタルヒンと同僚に。背番号は門前が「16」、スタルヒン「18」。
{※6}以降はメイ、フェルナンデス、に控えの堀込、柔野、山下司、吉田剛[たかし]が点在着火。
{※7}シュートを武器に、の“えぐり”性質は近年加藤伸 、川崎、盛田、許[シュウ]で一躍再興した。
{※8}他にも宮地'53年3勝13敗~'55年3勝10敗、飯尾'56年3勝16敗、伊藤四'58年3勝14敗。
{※9}'58年6勝7敗→'59年11勝10敗で負けグセ返上の第1波を立てた鵜狩も三原西鉄出身。
{※10}特に'71年第3戦の8回まで許走者2人~完封目前9回2死(一、三塁)から王貞治に被サヨナラ3 ラン、は“1球”が勝負を分けた最顕著瞬間として標題化~今なお残存。
{※11}シーズンでは16勝。最多勝に輝くとともに、兄・正一が獲れなかったMVPを受賞。
【2008年開幕時点】
 
 
 
※樽井の樽は木偏にソ酉寸