2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

16

【2008年開幕時点】

 
 10番台(「10」番は除く。以下同じ)は全てそうだが、'50年を境に投手着用比率が急騰している。確かにそれまでも有名投手の背番号は10番台が多かったが、戦前・戦中期は基本的に1シーズンを(敗戦処理を除けば) 3〜4人の投手でまかなっていた時代、登録人数自体が少なかったこともあって“10番台=投手”というわけではなかった。番号ごとに見ても「11」「12」「15」「16」は野手(捕手含む)番イメージが優勢、「14」「17」「19」は互角。'46年以降「15」「17」「19」が投手番色を濃くしたが、終始投手番で押していたのは「18」だけである。ところが'50年に誕生した新球団が軸なみ10番台のほとんどを投手に振り分けたことで、以降“数の論理”ものをいわせ、早い遅いの違いはあれ“10番台=投手”で固まっていく。背景には新参球団の最も手っ取り早い戦力整備が“とりあえず数を揃える”だったことや、戦後発足した2軍制度が定着しつつあったことで既成球団も選手数増加途上、つまり投手の数が10番台を埋められるまで増えていった事情もある。そして、そのイメージ変貌ぶりが最も顕著だったのが「16」だ。
 '36年秋、山下好、平桝、坪内が打率10傑入り。以降も中根、小林、川上、北原、鈴木満、木暮と好打者を続々輩出。佐藤喜、中村輝、中村三、野村高、西端、渡辺絢、大友、土屋亨もレギュラー格と野手充実。対して投は'47'48年連続20勝超の今西、が1リーグ時唯一の主戦力。サポート役は'49年9勝の姫野、'37年春5勝~秋2勝の木下、'39年6月の川上、'47年6勝の武智修。
 この時点で一寸先、投手番に切り替わろうとは当の「16」も思っていなかっただろう。
 しかし'50年以降、野手は川上、森下、三宅、ミヤーン、岡田、ブライアント、ニールに、'50'51年櫟[いちい]、'50年今久留主[いまくるす]、'51年武智修、'73年池辺、'77年ホプキンス、'91年ライアル、そして内野のバックアッパー西岡、ぐらいに減衰。対する投は'50年高野25勝{※1}、大島20勝、から'54年田中文、'55年大津、'57年備前と20勝投手が続けざま出現。'51~'53年高野&大島、'51'55'56年(田中~)武智文、'52'53年姫野、'52'54年大津、'52年上野、'54年滝&原田、'58'59年鈴木隆、'58年備前・・・も2桁勝。まさにコペ転、それぐらい短期間で「16」は投手番へと姿を変えた。
 野手像の衰退は、あたかも「打撃の神様(=川上)」の背番号としてイメージが孤高化、畏れ多くて後続が手に取れなくなったかのようにも映る。しかも数少ない後継のうち櫟が胸部疾患で選手引退、三宅も'62年の練習中ボールが直撃、左眼底出血で事実上選手生命が絶たれ(またこれにより 882試合連続出場、700試合連続フルイニング出場記録がストップ)、森下は計3度のアキレス腱断裂、と不吉な目に遭い続け、ドラフト1位新人・浜村、(分離開催での第2次) 1位入団2年目・中村之が続けざま入番したチャンスも生かさず。
 逆に'67年足立、'68年安仁屋[あにや]、'73年上田と再び20勝投手現出{※2}、の投がさらに地盤を固めた。この他'60'61年三平[みひら]、'62年鈴木、'64~'66と'71'72と'74~'76年足立、'64と'67~'72年佐々木、'69'70年安仁屋、'71年伊藤久、'72~'75年江本{※3}、'73'74年新美、'76年上田が2桁勝。余白すら埋め尽くした感がある。
 しかし野手勢もしぶとい。池辺、ホプキンスとすでに実績ある選手で確実に点を稼ぐと、アベレージ打者・ミヤーンが'79年首位打者獲得。「川上番」健在をアピールしたのち、大物新人・岡田を迎えた。ここまでの風穴の開け方は見事である。その岡田は、ドラフトで6球団が競合しながら希望通りタイガース入団が叶う強運ぶりを見せると、初年度から起用法をめぐり監督とフロントが対立、ついには監督が途中辞任というさらに大物感を強めるドタバタ割を呼ぶ。その上で打率.290、18本塁打 (新人王)と期待にたがわぬすべり出し。しかし野手勢にとって不運だったのは、岡田以上の大物新人がこの年の「16」番“投手”にいたことである。
 それが木田。前年カープへの入団を断ると、当年ファイターズ入団時には契約金とは別に土地を要求(結局被却下)、その上1年目から22勝(最多勝)、防御率、勝率、奪三振数も全て1位で新人王、ベストナイン、ゴールデングラブに加えMVPまでかっさらい、“通常”レベルの超新人・岡田の活躍は完全にかすまされてしまった。
 もっとも木田がよかったのはギリギリ10勝をクリアした翌年までで、トータルでは岡田が圧勝。'48~'51年川上{※4}が点けて以降、櫟、星山、ホプキンスと灯を継げずできた好打“スラッガー”像を呼び覚ました。ただアピールの出足を掬われたからか'85年には.342 35本 101打点を残しながら、ついに打撃タイトルとは無縁。この点は、「川上番」のご威光を継げずじまいに。
 逆に投は木田が狼煙となり、'80年~5年連続2桁勝利の松沼を軸に、久保康生、欠端[かけはた]、長冨と続く。図抜けた存在はいないものの、やはり束になられると岡田1人では分が悪い。その岡田も'86年以降、.260~.270の打者になりますます苦戦。そこで'88年途中、ブライアントを緊急補強。 6月一軍デビュー後74試合で34本塁打。'89年には1試合3発を4度{※5}。4度目は天王山、ライオンズとのダブルヘッダーでの4打数連発{※6}。'90年、東京ドーム・スピーカー直撃弾、通算246試合目での100号到達、前年樹立の三振最多記録を198で更新('93年204で再更新)・・・とヒットメーカー番の面影玉砕、その曳光をライアル、ニールが追った。
 毒気を抜かれたように一時不調に陥った投勢だったが、'95(~'98)年、米球界より「#16、HIDEO NOMO」のイメージ大流入(背番号「11」編参照)。これに強烈に焚き付けられると、'97年~石井、ののち'04年~金村、'07年~涌[わく]井と「エース」を襲名(初2桁は各々'95、'02、'06年)。潮崎、山内、川村、安藤も2桁勝利2度(潮崎の1度目はイメージ流入前の'91年)。また、三輪、宮本、西井、竹口、宮下より派生のリリーフ系脈を、潮崎、篠原、岡本、安藤、川村が継ぎ、先発とのダブル奉公パターンで久保康生、欠端、山内、山崎、'06年安藤、'07年山村と宮﨑。さらに、潮崎、安藤はリリーフ→先発、岡本、川村は先発→リリーフの転向組。かつ潮崎、山内の2桁勝利2度中の1度はリリーフ時、安藤も1度は兼務時でのもの。その結果“完投能力のある{※7}”リリーフ投手のイメージが漂着。
 そして改めて現在の陣容を見れば、全員が1軍の先発か切り札中継ぎの有力候補に名を連ねる大充実期を迎えている(2008年時点)。そうなると浮かび上がるのが、“投手番”大充実期となる道程で顧みられずにきた“野手「16」”像。1リーグ時にブランドを築きながら突然の投手ラッシュに功績ごとさらわれ、長沢、尾山、柳田、高木豊、小田和、森野は脱番後に開花、実績者の池辺も在番2年間は不調で規定打席に届かず、と“すれ違い”例も頻発し、ますます忘れられた存在と化した。だが高木、ブライアントが長きの時を置いて“再発光”したあたりは「野手番としての歴史も大切にしたい」との本音が潜んでいるかにも見える。その思いも汲みつつ、今は投手番としてやり残しがないところまで隆盛したい。
【2008年開幕時点】
 
{※1}4年計9勝からの大躍進。同例は以降、'51年田中文が前年まで2→15勝、'52年大津1→18勝、'72年江本0→16勝、'97年岡本0→10勝、'98年金村1→8勝(防御率1位)、'99年篠原2→14勝、'06年涌井1→12勝、佐藤充1→9勝。に、'54年田中文が前年4→26勝、'68年安仁屋8→23勝、'73年上田9→22勝の進境。また高野は当年諏訪[すわ]→改姓し開眼。'57年大田垣→備前も初20勝。'55年武智は勝数減も6月完全試合、8月にも9回1死まで完全投球。
{※2}3者とも横or下手。武智文~佐々木リレーに加え溝部、姫野、石川、島原、安仁屋と変則揃い。 種部、渡辺、高橋直、古沢、高田、伊藤敦、堀井、潮崎も続いた。上手ながら“UFO投法”山内、マサカリ投法・内山に、打のミヤーンも変則フォーム者。
{※3}'72年7暴投、'73年10ボーク、'74年14 与死球、111与四球、'75年78与四球はいずれもリーグトップと大荒れ。この他'77年宮本&'79年望月のイニング3与死球、'95年内山&'04年高井のゲーム4暴投は各々日本記録。江本の10ボーク、'98年石井の20暴投は各々リーグ記録で'46年井上嘉イニング6与四球、'50年高野(シーズン)15与死球と併せ、当時最多。石井は'98~'01年、連続暴投王('07年まで計94は通算セ記録) + 与四球王3、与死球王1度。'50'51'54年高野も与死球王。'73年竹内&('86)'87年宮下暴投王。
{※4}当期間は柵越え「弾丸ライナー」も多く、'48年25本塁打は当時新記録('40年も最多本塁打者になっているがこの時は9本)。期間後は'55年12本以外は“1桁本”のアベレージ専一。最後は「テキサス(安打)の哲」に。
{※5}王貞治でも22年で5度という記録。通算では8年で8度をマーク。
{※6}優勝への絶対条件 “2戦2勝”という状況下で、第1試合の4回にソロ、6回に同点満塁弾、8回に勝ち越しソロで6対5勝ち。第2試合、第1打席敬遠四球を挟んで先制ソロ、これをきっかけにチームは大勝。その後2連勝して9年ぶり優勝を決めた。
{※7}ストッパー・潮崎も意外に救援完了が少なく、セーブ数は'95年12が最多。
【2008年開幕時点】