2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

20

【2008年開幕時点】

 

 実質エースナンバーだった時期がある。タイトルラッシュが訪れた'50年代前半、'60年代序盤での'52'54年杉下、'55年大友、'61'62年権藤博は30勝台。'60年堀本も29勝で一挙「投手番号」中の頂点へ。さらに池永、木樽と続いた。だが個々事情はあるにせよ短命投手が多く、権藤2年、堀本1年、大友も4年が絶頂期間。高卒組の池永、木樽は各々23、29歳での選手引退。'50年〜6年連続20勝超、9年連続2桁勝利とこの中では最も活躍期間の長かった杉下{※1}、のドラゴンズでのみ「エースナンバー」として生き継がれたのはそういう理由にもよる。
 さてその杉下出現前の「20」は'36〜'38年家村、'37年三浦がレギュラー、'37年中田武が通年8勝、藤野5勝と始め3年静かな動き。イメージ胎動は'39年、高橋敏が17勝(防御率2位)、リベラが5月入団ながらチームトップの6本塁打(開幕は3月18日)を記録時。8月にはリベラが球団初の満塁本塁打。'41'42年に室脇、岩本章が続いたところを見れば、鮮烈度はリベラ優勢か。岩本は'43年、4本塁打でキングとなったが、残念ながら当年開幕直前背番号廃止令が出されたため、さらなるイメージ伸張は叶わず。
 '43年は他に多田、長谷川、投手の重松、石田、中田もレギュラー級とかつてない盛況ぶりだっただけに惜しかった。
 明けて'46年、岩本が“やり残し”を果たすべく「戦後のプロ野球公式戦第一号」を含む6本マークも、この年は「非公式戦ながら戦後初の柵越えアーチ」を架けた大下弘が“出現”した影響で10本以上が4人いた。打率も.204と奮わずずで翌年控えに。
 投手勢は溝部(中田から改姓)の6勝が最多と今一つな立ち上がりも、'47年から中谷が5年連続2桁勝利('48年は20勝超)。'47'48年と井筒も2桁勝利。'48年はさらに林直が開幕後2ヶ月で9勝(途中移籍)〜河村章が閉幕前3ヶ月で7勝を挙げ、'49年藤村16勝、そして同年8勝の杉下が'50年より量産態勢突入。
 対して野手(捕手含む)レギュラーは'49年藤原、'50年塚本だけ、とここではっきり投手番号に固まった。
 イメージ筆頭領主・杉下に、'51年から大友が加勢し2桁勝利6年('53〜'55年20勝超)、'54年には西村貞が出てきて20勝前後3年。さらに'55年西村一も22勝と投手像大シケ{※2}。この間野手は'54'55年椙[すぎ]本、'59'60年谷本がレギュラーとなるも、'61年杉下の選手復帰で谷本移譲。逆に'57年からエアスポットに入っていた投が'59年18勝・北川芳〜'60年29勝・堀本〜'61年35勝・権藤の凄腕新人衆来訪で息を吹き返し、'60年には島田源19勝&完全試合ブレイク。各々“脱・主役”となっても'63年頃まで10勝前後のフォローを供給し、その'63年より新たに石井茂が17、28、21勝、その後も2桁勝利5度。'65年からは池永が5年で計99勝の荒稼ぎ。'66'67年と渡辺泰も各15勝以上を挙げ、'66年日本シリーズでは1、2、3、5戦に先発する敢闘ぶり。'67年着・石戸もこれより2桁勝利3年(20勝1度)。'69年木樽が出てきて15勝。'70年、4勝を挙げたところで池永去る{※3}が、木樽が21、24勝と本格化。
 押されっぱなしの打{※4}だが、風穴を開けたのは何と野手転向した権藤。'65'66年と半〜準レギュラー。'68年投手復帰{※5}するが、かわって辻が3年間の半レギ、を経て'71年全試合出場。
 投もその'71年新機軸として前年別番で10勝の星野仙を迎える。当初リリーフで2年各9勝のあと、先発も兼ね2桁勝利7度。'74年には当年制定の初代セーブ王(10S)となり、後述する守護神流の礎を築いた。また、もう1人の新鋭・関本も'71'74年各10勝を挙げ、'73年着・山内は先発1本で2桁勝利8度(20勝2度)。脱番後の'84年まで311連続先発登板の日本記録をつくった。
 その発端期、'73年仲根〜'74年山下〜'75年定岡とアイドル新人が続々入番すると思わすこと。この中で即一軍定着した山下が控えながらオールスターにも出場し、'72年〜出番激減の辻にかわり野手像旗手となる。も、1年で退出。だが投手では芽の出なかった仲根が'83年外野で準レギ格。トレーシーとの三番打者共演で再建の一役を担った。が、今度はトレーシーが首脳陣批判で翌年4月退団。仲根も'84年以降は半レギ〜代打要員。'86年ブコビッチも2年目に改番し、と今一つ上昇時に出てから気運に乗れず、仲根、平田、駒崎、森の代打イメージに落ち着いていく。平田以外、(ブコビッチ、デューシー、ローズも含め)左打者なのは'83年産のイメージ慣性。
 再び話題を投手に戻すと、'77年〜北別府、'77'79年白石、'78年〜仁科、'79年佐伯、'80年〜定岡、'81年〜伊藤宏、杉本が先発ローテーション入り。'84年には満を持して、というより発奮剤として小松が兄貴分・星野の番号継承。'85'87年ともに17で最多勝を獲得し、'78年〜11年連続2桁勝利(20勝1度)の北別府との両輪で約20年ぶりにセのハーラーダービー(最多勝レース)ジャックを再現。'86年〜3年連続2桁勝利の藤本、'86年10勝の金沢次と若手も台頭し、'88年にはガリクソン14勝、に小松も12、藤本も10を勝った。だがこの'88年を境に勢いは急速に衰える。'90年主に中継ぎ役の白武、'91'92年北別府、と何とかつなげた2桁勝利の波は、この後'99年のハッカミー、川越、豊田までプツリ途絶えてしまう。兆候は伊藤宏、杉本、藤本から始動の感あり、中本、相川、高柳に、伊藤智、川越、入来[いりき]、寺原へと連鎖、矢野、金沢健、鎌田も煮え切らず、の伸び悩み渦からなかなか抜け出せない。
 ならばとそのほころびにつけ込んだのがデューシー〜ローズ。ともにトレーシー譲りの中距離打者の趣。そこからローズが'99年40本〜'01年日本タイの55本と長距離変化[へんげ]。その後も46、51、45本と続けた。
 一方投でも宣[ソン]、豊田('01年以降)、に'86年サンチェ、'93年序盤山原、'95年木村恵、'96年郭李、'97年伊藤智、'00年木塚、'03と'06年〜永川の守護神流れ勃興。ただ宣、豊田、永川以外は短発躍動で、木村、木塚は主に、郭李、永川も他年時セットアッパーで定着。'04年〜薮田、'06'07年豊田も参画、'07年永川の神通力が今一つだったことも折り込めば現状こちらの方が印象強か。中本、白武、渡辺伸、入来、金沢健、山本省にも中継ぎ奮闘歴あり。ながら木村、薮田に、負傷頓挫の伊藤智も先発からの失地回復組で、伸び悩み像の一端ともとれる。逆パターンで'01年先発13勝を挙げた入来もその後低迷。2桁勝利の現出ないままで過ぎていたが、'07年”ドラゴンズのエース”にと目された中田賢が14勝と光明が射し込んだ。
 ところで「20」には度胸勝負のふてぶてしい投手が多い。基礎イメージを形作った杉下、堀本、池永、木樽は入ってきた時から大物感にあふれ、'61年の「権藤、権藤、雨、権藤(登板しないのは雨の日くらい、という意)」に象徴される超即戦力実績からも、“頼れるのは自分だけ”といった風情が漂う。そして自恃[じじ]を育んだといえる、高校時甲子園優勝または準優勝、経験者の池永、木樽、西本、仲根が各々卒業初年入番。社会人の都市対抗・橋戸賞(最優秀選手賞)受賞者、杉本、入来、川越もその翌年入番。助っ人も韓国の至宝・宣、に入番前年五輪で(日本を破り)銀メダル獲得の台湾代表エース・郭李には国家を背負った趣もあり、米大リーグで計103勝のガリクソン{※6}には病と共生してプレーという格好のサイドストーリーが付加していた。また仲根〜定岡で“もはや高卒新人=即戦力ではない”と悟ると'76年北別府を最後に大学・社会人出にシフト変更。以降高卒1年目着は4例だが、寺原は新人年から6勝、矢野も2勝の準即戦力。現メンバーも、山本淳、正田がかつて甲子園優勝を経験(山本は2番手投手)、準優勝の山本省は中学、大学で全国制覇とやはり場馴れ者揃い。'08年には、前年五輪予選時アマ唯一の代表入りをした長谷部、ドラフト直後の社会人・日本選手権でMVP獲得の服部が加入しさらなる光明が射し込んできた。功名〜高名への文字化け期待。
【2008年開幕時点】
 
{※1}魔球「フォーク」日本人初の使い手としても有名。当時他に横手からの「高速スライダー」の大友、下手からの「十字架球」(上下左右にムービングする球、の意)の渡辺信も。上手からで球筋は違うが'90年代、伊藤智、宣が「高速スライダー」再生。
{※2}'53年大友優勝寄与&MVP〜'54年、杉下、西村貞が各々チーム初優勝へ導き、日本シリーズ初戦相先発。杉下は“死力を尽くして”の奮迅で胴上げ投手に。だが'60年堀本〜'61年権藤博は僅差で優勝(&MVP)とり逃し(〜'70年木樽、'86年北別府が雪辱)。
{※3}現役選手が、野球賭博がからんだ八百長に手を染めた「黒い霧事件」。潔白を主張した池永だったが、現金一時預かりの事実が“決定的証拠”とされ永久追放処分を受けた。その後も無実と復権を嘆願し続け、'05年に処分解除。
{※ 4}ただし池永実質5年で13本塁打、権藤博も投手時9 (+野手時9 )本。他に星野仙15、石井茂11、小松9 (「20」では7)本、杉下、木樽各6本。近年も東京六大学で33勝&9本の織田[おりた]参入(プロでは不開花)。元をたどれば'36年ボンナは“四番投手”デビュー。
{※ 5}4月、'64年6月以来の勝利(結局これが最終白星)を挙げる。同年島田源も8年ぶり2桁の14勝、高橋明も3年間の低迷脱し9勝(〜翌年も10勝)と復活ラッシュ。
{※ 6}帰国後も4年間2桁勝利、'91年20で最多勝。他に指導者でトレーシーが米国、金彦、宣が韓国、中本、郭李が台湾各球界寄与。球界外では相沢がトラック諸島の酋長に。
【2008年開幕時点】