2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

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【2008年開幕時点】

 

 '80年代中盤~'90年代に球界を席巻したリリーフエース番。'85年に中西清がイメージ着火後、中山裕、赤堀、成本、'00年森慎と継いだ。だが'01年、不調の森が“トリから2番目”に転位すると、このテの話題はすっかり潮を引いた。ちょうどリリーフエースが、ピンチに登場する「火消し役[ストッパー]」から最終回に登場する「幕引き役[クローザー]」に変わった時期とも重なっていて、セットアッパーを担った'92年以降の中西、'95年以降の中山(='96年はクローザー)、'97年木田、'02年森、'04年長田[おさだ]に、左封じの清川、'90年高木、'92年石貫、'03'04年久本、'04年清水が“火消し”要素を残すものの「リリーフエース」からはイメージ離れとなった。
 かわって'99年~上原、'02年~石川を両輪に、'95年山部、'96'97年フレーザー、'98'00年川尻、'99'00年永井、'01'02年長谷川昌で形成の先発像へと雛形変化。入団時“リリーフエース候補”だった永井がこちらで結果を出し、ストッパー四天王の中西、中山も'90年前後に先発入り、定着できずも赤堀、成本が'00年前後に先発傾倒した事実もこの流れを促進。果てはクローザー実績者・ギャラードが躍動叶わず早々退団して、リリーフエース像は完全に鎮火・・・、と思われた'07年、上原のクローザー転位でイメージ大逆流。1年の期間限定ながら優勝にも寄与し、より印象増。さらっと新後継候補・上野のデビュー侵攻をも助ける心憎さでイメージライバルに塩を送った。そして今度は、'07年自身の不在&石川不調で縮小した先発像再生を、後半6連勝(2完封)した金子、2軍エースの吉見の後ろ盾も兼ねつつ推進。
 さてこのリリーフイメージ、初めて焚き出されたのは'60年。パを制したオリオンズのエースとして先発12勝、プラス救援21勝(=日本記録)を挙げた小野。特にチームが18連勝した6月は16登板中14がリリーフ、この期間中10勝を稼いだ。その後、'69年に浅野、大石弥がリリーフ中心起用され各々9、11勝。だがチーム成績それぞれ5、6位で印象薄。から'75年、初のリリーフ専任&優勝寄与ストッパーとなる宮本が登場(10勝10S)。この'75年は、野村克が長距離砲としての最低限の数字を残した(=28本塁打)、江尻が規定打席に達した、ともに最後の年。それまで野手中心だったのが、翌'76年小林エース着座、加えて'75'76年野村収、'79'80と'83~'85年梶間、'80'81'83年間柴、'79年藤沢、'82年永本・・・も2桁勝利で形勢逆転、となる分岐年。以降も山内、'84年金沢と波を継ぎ、そして'85年、中西が10年前の宮本が果たせなかった「胴上げ投手」となり、前後で新美~井辺が中継ぎ台頭しリリーフ像本格萌芽。
 さてその分岐年までの主役は、やはり野村克となる。来番の'56年にレギュラー~翌年本塁打王。'62年ラビットボール ('48年終盤~'50年に使用された”跳ぶ”ボール)廃止後初の40本超。'63年最終打席で当時日本新の52号。'65年三冠王。同年9月に放った312号、から'73年566号まで通算本数1位。またベストナイン 19度、選手兼任監督での規定打席(or 投球回)到達7度は史上最多。そしてこの本領を予見していたように、野村入番の'56年にはクリーンア
ップ即定着の大津&「坂崎大明神{※1}」の両新人も参入。また、投手としてすぐに39('51年には23)勝の松田が'56年、同65勝の関根が'57年、ともにシーズン途中野手完全転向。これも大きかった。中島も含め、'58'59年は野手6名がレギュラー格という状況が出来上がる。さらに'62年~藤井、'67年~江尻と職人タイプの巧打者を加え、'66'67年と岡本もポジション確保('67年の新宅も半レギ格ながらオールスター出場)。助っ人役の森永、アグリー、伊藤竜に、ユーティリティー守備固めの山本秀と、控え選手も切り札要員多く印象増。
 対する投は'57'59年各20勝~'60年33勝の小野、'62年より5年で20勝以上4度の尾崎、の両速球派{※2}(特に尾崎は“当代随一”)が両輪も、“対”となったのが'62年(尾崎20勝、小野9勝)のみ。また小野は20勝超2度の大矢根という“援軍”を得たが、尾崎の援軍・中山義、牧は最高名9勝。村頼、江尻も期待外れ{※4}。'67年6勝を最後に尾崎も先発から外れた。かわって大石、浅野が台頭も、大器と名高かった三輪田、湯口が続けず伸び悩み。閉塞感が漂う中、'75年4月「ボール」判定の球審に宮本が飛び蹴り、結果的にこれがイメージ突破口となる。
 その気性の荒さは「19」の伝統気質で、初代が慶大時「リンゴ事件{※5}」をおこした水原。プ□入り後の'36年にもフロントと対立して一時巨人を追放されたが、何とか秋季中盤の11月復帰。リーグ戦に参加すると“二番三塁”で定位置確保。応召の'42年まで花形選手であり続けた。また'36年、秋季中盤よりエース格となり巨人・沢村栄治の13に次ぐ8勝を挙げたのが森井。 と、 入れかわるように'37年入番したのは水原以上の快男児、初代「酒仙投手」の西村。'37'38と通年で連続20勝以上。'37年秋から対巨人8連勝(年度優勝決定戦含む)の初代「巨人キラー{※6}」でもあった。ハイライトである'37年年度優勝決定戦では3勝(オール完投)中、第1戦、最終第6戦での2勝を、くしくも前年森井の前を行った沢村{※7}に投げ勝って獲た。また'37年秋季途中に移籍入番の小島は早大時2度首位打者に輝いたスター選手。水原と華やかさの両輪を形成し、'37~'39年瀬井、'37年大沢と揃える野手が、西村プラス'37年秋3勝・丸尾、の投手をひとまずイメージリード。から、'38年秋松尾12勝、西村は9勝と超一級から一級に下降も、その分を水原8勝(防御率2位)で補填。'39年には政野18勝。同年西村、'40年政野&松尾も2桁勝利で形成逆転。そこで水原1人に減退、の野手が打開策に登場させたのは、水原、西村に輪をかけた「きかん坊」の土井垣。ただ捕手としても打者としても本領発揮は戦後から。逆に、投手が'41'42年各20勝超の神田{※8}という激情エースを得た(浅岡、内藤は投打で助勢)。から戦後は天保[てんぽ]{※9}という新たな気骨人が参画し、土井垣との熱血漢同士によるイメージ覇権争いを展開。土井垣にはすぐ多田という助太刀が付き、“「19」=捕手番”アピール。だが翌'47~'50年、多田{※10}4年連続2桁勝利と天保方に寝返り。知己を得た天保が'48年19~'49年24勝と数字を伸ばし、'49年武末21、野口12、江田9勝で雌雄は決した。さらに2リーグ分立年、例の“10番台=投手”認識による一挙投手増(背番号「16」に詳述)。当'50年米川が23勝した他、天保、多田、宮下、田原、林、野口も2桁勝利と大盛況。野手は土井垣健在も、西江が'50年71失策(=2リーグ下最多)してレギュラーから陥落、実績者・筒井も'52年半レギがやっと。投手は'53年にも米川、天保、関根、オニールと10勝台4人。ただ'54年からは米川23~22勝、関根16~14勝の2人体制となり、対する野手は'55年内野のオールラウンダー・広岡{※11}が準レギ格、筒井も同年半レギ返り咲き。翌'56年、米川10勝、関根9勝と投手がリーグ分立時に与った貯金を使い切ったところで、野村登場。投打優形成は逆転する。
 ただ、野村'61年~8年連続本塁打王(パ)、も王貞治'62年~13年連続本塁打王(セ)。'62年初の40本以上~通算5度、も王'63年初40本~通算14度。'63年新記録の52本、も王'64年55で更新。'65年戦後初三冠王、も王'73'74年連続三冠玉。加えて'73年通算本塁打数の、'78年には通算打点数{※12}の、各1位の座を王に奪われ、全て先んじながら後塵拝すのパターン。おそらく半端でなかったであろう敵愾心の顕れは、王が'80年11月4日に選手引退表明したのを“待って”、直後の15日に同表明をしたところ(当時王40才、野村45才)。さらに遠大な策謀が'06年からの「19」再着用。同一番号の最長着年数は王の「1」で30年だが、これは番外と断った上で野村は社会人球界での'02~'05年を加えれば'08年で32年となるのだ(もっとも王も高校での2年を加えれば32年だが)。何という執拗さ! 半ば呆れつつも畏怖せざるを得ない。
【2008年開幕時点】

{※1}浪商高黄金期の四番。監督・中島春雄が「水原が戦後シベリア抑留時」の上官という関係から水原巨人入り。水原東映監督時に入団の尾崎も浪商(&米川、岡本も同校)出。
{※2}近年中山裕、高木、木田、前田、森慎{※3}、杉本、黒木、ギャラード、上野、萩原で速球像再興。
{※3}さらに森慎以降、金石、永井、木村、上原、長谷川昌、田中敬、萩原とフォーク投手急増。
{※4}村瀬は背番号「61」参照。江尻は早大時46・2/3回無失点の当時東京6大学新、'64春防御率0.00。
{※5}'33年早慶戦で早稲田応援団から投げられた食べかけのリンゴを水原が投げ返し大トラブルに発展。翌日新聞の社会面をジャックし、水原は責任を取って退部した。
{※6}「19」での後継は天保、浅野、そして“対巨人8連勝”を再現した小林(='79年)。
{※7}三重県宇治山田市出の同郷で西村が7才年長。同市では両者胸像が相対して凝立中
{※8}'42年結核を患い、ハンカチを血で染めながら61登板。だが無理がたたって翌年逝去。
{※9}'43年勤労奉仕先の工場で左右計4本の指先を削られながら克復~再起を果たした。
{※10}母校先輩でもある水原の監督就任時、前任・三原脩排斥を企てた策動者でも著名(直後に筒井が「19」着したのも奇縁=背番号「 31」参照)。「19」後期はスコアラーでも“暗躍”。
{※11}広岡達郎の兄で広島市民球場の第1 本塁打者(非公式戦だが後楽園の第1号は水原)。
{※12}その試合では通算安打数も張本勲に抜かれた。本塁打、打点、安打、全て通算2位。