2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

28

【2008年開幕時点】

 

 江夏以前、江夏以後で大きく印象が異なる。江夏以前はどちらかといえ野手の番号。投手は'42年広瀬、'52年野口正、'53年大神、'56'57年中山、'63年河村が20勝前後、'63年石川陽、’65年林が15勝超の突出実績はあるものの、規定到達回数を見ると'66年まで投手15、打者23で野手優勢。江夏在番中は衣笠が'68年以降オール規定クリア。'67年以降、の江夏と印象度はともかく回数ではほぼ互角。両者以外のクリア例は'74'75年竹村、'75年末木原といずれも投手だが、野手(捕手含む)と準レギュラー級が'67年佐野、'67と'70年宮寺、'71年ワーハス、'73年以降村上と出たのに対し、投手のそれは'68年林だけ。と、まだこの時点でも野手番イメージ強の趣。風向きが変わるのは江夏脱番後である。去った大黒柱の、その空白を埋めるように新浦[にうら]、都、星野、園川・・・が続々台頭。'76年以降(=江夏は'76年開幕前、の脱番)打者の規定到達例は'82年ラム、'84年二村[ふたむら]、'84'85'87年八重樫[やえがし]、'86年金村、'95年グレン、のみ。すっかり投手番号へと様変わりした。そして'76年以降の2桁勝利投手の利き腕左右比は23:5。
 これまた江夏のイメージ産である“左腕の番号として完全に定着した。
 さて江夏出現前を振り返ってみると、まず戦前・戦中期何といっても目立つのは広瀬。'41年7月にテストを受け、8月登録。21日初登板し3安打完封。含め、以後3ヶ月で8勝(4完封)。スタルヒン(=当時登録名は須田博)の離脱で窮地に陥りかけた投手陣の、救世主のような形で('38年秋からの)チーム4連覇を後押しした。翌'42年は開幕投手を務め、9月までに21勝(10完封)。5連覇目の立役者になるが、当年応召し、戦死した。
 この他投手勢は青木が'37~'39年計4勝を挙げたのみ(背番号廃止の'43年、長沼が3勝)。野手勢は'38年北浦、'40~'42年中島がレギュラー。ともに一、二番タイプで、'42年半レギの金田正(~'43年レギュ ラー、も背番号廃止)も同系。さらに広瀬も'40年に短距離で国体出場した俊足選手。同じく短離離で'47年国体出場の内藤が、'50年遊撃、二塁、外野兼務の準レギ格で15盗塁。同年東谷は半レギながら9三塁打。'52年小島はリーグトップの10三塁打。同年6月には山崎が2ホームスチールを含む1試合6盗塁の日本記録、半レギなから19盗塁を稼ぐ。また4月には東谷、浅原がサイクル安達成。 加えて白川は通算114試合 (141打席)で16盗塁記録、とスプリット面の話題続々。その印象が変わったのが、'54年中軸打者・ルイスの
来参からで1年目は.298 (パ8位)、15本塁打、90打点。2年目は全体的に数字落とすも二塁打数リーグトップ、で連続ベストナイン。また2年間で12三塁打、16盗塁とスピード像も堅持。'54年小田野、'55'56年大石も五、六番を打っての小田野23盗塁、大石計20盗塁。浅原も含め走力併備の強、好打者像形成。この流れは吉田~田中久へと継がれていく。吉田は脱番後に本領発揮の感があるが、田中は「28」がベストナンバー。外野に居を移した'61年には打率3割超。強肩と広域守備範囲を武器に'63年ゲーム守備機会10の外野手パ記録も作った。また別派で'56'57年内藤、'61年田中守、から佐野、住友、船田、にスーパーサブ・塩原のつなぎ打像も着々形成。'61年塩原日本シリーズ優秀選手、'67年住友“1人トリプルプレー{※1}”とトピックも生まれ、大器・星山も'62年一番に組み入れられた。ただこの流れればここで一区切り。かつて'64年36本塁打の実績を持つクレスが'66年来着、17本。そして衣笠が登場する。
 この間の投手は緒方‘47年~2年で5勝。田宮'49年11勝~'50年、開幕早々9回2死まで完全試合{※2}の快挙、も肩痛で結局この1勝のみ。ちなみにこの田宮が「28」の初勝利左腕。その後右腕・野口が'51年~12、23勝、同・大神'52年~8、19、14勝、日・田中照'55年~2年で10勝。対して2人目の左腕・中山が'56年~20、20、11、9勝。'56年9~'57年8完封はともにリーグトップ。'58年からは同じく左腕・西尾が11、8勝。も、'60年中山3、西尾4勝で共倒れ。すると右腕勢が、河村'61年13を含め6年で57勝、ディサ'62年9勝、石川'63年16~'64年5勝も防御率7位、と躍進。'65年久々に左、中小の母校(=中京商、現中京大中京)後輩でもある林が開幕12連勝~最終的に17勝、優勝にも貢献し、日本シリーズでは先発完投勝利&完璧リリーフで優秀選手とスポット浴びるが、翌年肘痛で1年咲き。かわって'66年、河村3年ぶり2桁勝利。また初の東大出身選手・新治[にいはり]が'65'66年計9勝、で右に衆目が傾きかけたところで江夏登場。 新人年から12勝、以後'75年まで全年2桁勝利、20勝超4度の計159勝。'67年~7年連続200奪三振超 ('68年 401は日本記録)。'68年~4年連続(&'73年) 最多完封。'74年 197・2/3、以外は全年200イニング超 (300超も3度)でイメージマスターに。ただこの間、投フォローは'68年林7勝、に'69年林&若生が主に中継ぎで20登板前後、ぐらいとー“一匹狼”風情{※3}。
 そのイメージ対抗馬、として野手の先鋒となる衣笠は'68年にレギュラー定着。'71年当時タイの5試合連続、を含む27本塁打、打率.285 (セ2位)、&初の全試合出場。脱番後の選手引退'87年まで連続出場(=のスタートは'70年ラスト5試合目)し通した。まだ浮き沈みの激しかった頃だが、'72年最多安打(.299 29本 99打点)、'74年は32本をマーク。また'69年には32盗塁と相変わらず走力併備像も健在。フォロワーは打面で江藤、林の代打陣、走面で飯塚(控えながら'69'70年計26盗塁、失敗4)、住友 ('70年18盗塁、失敗1)と弱風。そこで“捕手”という衣笠の出自面(およびルイスの残像)を抽出培養し、宮寺、村上と規定打席には不到達も、100試合出場超各4度の両者を輩出。打像強化を果たした。
 投側も江夏の勢力減('74年12勝14敗、'75年12勝12敗)に合わせて、'74年竹村9&新浦7勝、'75年竹村&木原ともに2桁勝利とポツリポツリ新戦力台頭。そして新浦が'75年2勝11敗、から江夏が脱した'76年 11勝11敗 (防御率3位)、当年より4年連続2桁勝利と本格化。'75年2 桁
勝利の両右腕は'76年ともに0勝。に対し左腕は、新浦に続いて都[みやこ]が'81年~4年間レギュラー戦力、2度2桁勝利。右腕は中田が'81年~5年に渡り18連勝、最中の'85年12勝と巻き返すが、'87年(韓国から)日本球界復帰の新浦、に新進・星野&園川と先発3左腕揃い踏み。新浦は4年で2度2桁勝利。星野は11年連続(計12度)2桁の157勝。園川は2桁勝利'88年のみも計9年先発堅守で87勝。右腕はリリ ーフ・広田が'89年19セーブポイント、中田が'90年 16セーブポイント(うち救援勝利 10)、先発はアンダーソンが'91'92年、鶴田が'93年と定着も2桁勝利に届かず。 形は完全に決した。
 野手勢力も衰退一途で、新興の捕手群像も八重樫'83~'87年、瀬戸輝'98年とレギュラー、'77~'82と'88年八重樫、'98年以外の瀬戸('01年まで)、に笹本、'97年定詰[じょうづめ]、 '07年後半川本が1軍帯同という状勢。内、外野では既述の規定到達者の他、好打の'75~'78年西村俊、'79年山下、'80~'82年山本雅、'82と'85年岡村が半~準レギ。 松岡、服部、他年時岡村が万能サポート役。強打実績も'86年金村、'95年グレン、'05年ガルシアが20本強(ガルシアは21本中18を7、8月で量産 、2試合連続3本塁打も記録)、八重樫、二村が10本台4度、で精一杯。なので出現時間の短い江藤、林、萩原、西田、に控え時('89年~切り札) 八重樫と続く代打像が、捕手像に次ぎ印象に残る形。西田は'91年暫定四番で7本ながら優勝寄与し鮮烈度を高めた。
 さて投手陣は左腕3人衆が去ったあと、'00年~前川、'01年~加藤康、'02年~正田で新左腕トリオ現出。も、揃って好調期2年、ローテ期3年で息切れ。さらに各1度ずつ最多敗戦となる不安定常態。'00年~岡島6年、渡辺正4年に、'01年嘉勢[かせ/勢は正しくは生丸に力]、'05'06年広池と各40登板超(フェリシアーノも40超)のリリーフ職人で必死に糊した。右勢も鶴田、福原、中里と出る杭は軒なみ故障離脱。だが低迷中だった入来[いりき]が'01年10勝~佐藤も'03年序盤先発4連勝で再生番号ジンクスを萌芽させると、'04年福原も便乗し開幕5連勝~計10、'05年も8勝で再台頭。も両年とも最多敗戦と不安定禍にも連鎖。'06年12勝5敗で脱出〜'07年2勝8敗とやはり浮き沈みは激しい。また'06年秦[はた]1軍定着~'07年即戦力新人・小松&同年途中中継ぎ実績者・金澤が入番。と勢力急伸の右に対し、左も'06年片山&チェンへ~'07年「江夏2世」の呼称を持つ大隣&江夏の中学後輩・金刃[かねと]、へと旗手変更。'07年は金刃7勝、以外総倒れとなったが、'08年加入の右腕・藤原&左腕・根本、にレギュラー1歩手前の敏捷捕手・川本&既成准捕手・小田も併せたつばぜり合いの遍歴が、そのまま「28」の新雛形を象る予感。
【2008年開幕時点】

{※1} 無死一、二塁から二直を捕球→二塁ベースを踏み二死→一塁走者にタッチ、完成。
{※2} バント安打警戒の三塁手前進、その後方へ凡飛球がポトリで達成ならず。逆に'62年星山は同僚・村田元一の「あと1人」時に一塁ゴロをはじき“安打”を付けてしまった。
{※3}'73年無安打無得点を11回裏自らのサヨナラ弾で完成。'68年にシーズン奪三振記録353の更新射程圏内突入時、王貞治から奪っての更新を予告。タイ記録目を王から奪うと、打者一巡“打たせて取って”宣言通り新記録目も王から奪取、の時も0-0から12回裏自身のサヨナラ弾で決着。'71年オールスター9連続三振試合でも3ラン。
【2008年開幕時点】