2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

18

【2008年開幕時点】

 

 エースナンバー。名を知らぬ投手でも背中に「18」とあれば“ああ期待されてるんだな”と勝手に思う。投げる前から、おそらく右のオーバーハンド、生え抜き、本格派であろうことも野球ファンなら知っている(目論見外の場合ももちろんある)。そういう認識のまま海の向こうのモイゼス・アルーやジョニーデーモン、柏田貴史{※1}などを見て違和感を覚えたりもする。そう、“「18」=エース”は日本独自の伝統、それも偶然“成った”ものなのである。
 '36年に職業野球連盟が立ち上がった時、巨人は背番号「1」〜「9」→野手、「10」〜「12」→捕手、「13」以降→投手、と振り分けた。だが全球団がこれと横並びだったわけではなく、例えば阪急が契約順に、タイガースは氏名のイロハ順に、それぞれ「1」「2」……とする方式を採用。そしてタイガースに遅れて入団した若林が、その時点でのしんがり「18」を着けた。これが“「18」=エース”と成っていく起源、偶然の一端である。
 若林{※2}は法政大で当時東京六大学最多の43勝(現4位)を挙げた超大物。といっても'38年までは前川ともどもエースのフォロー役。まずエースの役割を果たした「18」は野口明、に'37年秋の鈴木鶴。だがイメージが結実する前に退番。そこへ'39年、若林がチーム勝ち頭の28勝。新人・野口二(先述の明の弟)も同33勝。この揃い踏みがイメージ植え付けにはでかかった。以降この両者に加え、'40年村松、'41年中尾&福士勇も「エース」名乗りを上げ、'41年は実に8球団で4人がエース。村松も同年チームトップに2勝&2・1/3イニング及ばずのの“準エース”。何となくイメージとしてあった“「18」=エース”はこの年をもって既定イメージにまで浸透した。ただし翌年には若林が監督兼務に伴い「30」へ変更、村松、福士は応召で抜け、中尾もチーム3番手へ、と退行。1人残された野口が、寂しさをぶつけるように527・1/3イニングを投げ40勝、未だ日本記録の19完封{※3}。翌'43年には真田の参入も見たが、当年開幕前に背番号廃止。“エース番号なるかな”のイメージは、芽を残しつつ戦後へ持ち越された。
 さて戦前・戦中期の野手「18」は中野正(出場は外野)〜国久の南海勢がレギュラーを張り、林が控えのユーティリティー選手。南海では'43年堀井もバトンを受け継ぎレギュラー成ったが、開幕前背番号廃止。この年は小松原も規定打数に達しただけに惜しかった。
 結局戦後、真田、白木、梶岡に'46'47年野口、'46年丸山、'48年中尾&スタルヒンと揃えた投がエースイメージ再点火。いよいよ本格始動に入る。軌道に乗った兆候として挙がるのが'50年、実績者の今西、黒尾、武末が「18」を甘言に新参球団から招かれている点。さらに中原「6」→「18」、翌年長谷川「32」→「18」、三富{※4}「21」→「18」という現象に「18」への憧憬がはっきり顕れる。
 そんな中、なぜか逆行したのがタイガース。'49年肩痛で前年から勝数半減も13勝した梶岡を'50年「1」に。'52年に移ってきた前ロビンス・真田には「6」を用意{※5}。この奇特さに救われたのが消滅寸前だった野手像。河西、与儀、と再びレギュラーを得た。その後1度は投手奔流に呑まれるも、再び控え捕手・藤重と粘る。が、さすがにこれが限界。'87年、久々に一軍登場したレスカーノも「体力の限界」と残し5月退団。これはそのまま野手「18」の辞世のセリフのようでもあった。ただ打イメージが完全消滅したのかというと、そんなことはない。草創より、'36年秋〜'37年秋に野口明、'36年秋、'37年秋に前川が投・野手兼務で規定打数クリア。野口二も時に四番で'39〜'42年、戦後も3度、規定到達。'40、'46年はともに打率9位、'46年は31試合連続安打も記録。真田は規定不足ながら'50年〜3年連続3割。梶岡も着3年で4本塁打(通算は9年で12本)。米田は初勝利試合で6打点を挙げ、プロ4打席目での満塁本塁打は駒田徳広に破られるまで最短記録、2度のシーズン5本塁打を記録し、通算33本{※6}は投手2位。同5位21 本(「18」では19本)の堀内は'67年無安打無得点達成試合で3打席連発、'73年日本シリーズでは投手唯一の1試合2発。成田は'72年、と着前年'71年に満塁本塁打(投手で2発は最多タイ)、'69年5本塁打。また'60年オールスターでは巽[たつみ]が(唯一の出場での唯一の打席で)投手本塁打を記録。近年も通算7本の桑田、'90年カープ初の投手サヨナラ本塁打を放った佐々岡、交流戦日本人投手第1号弾の岩本、'00年代打2点打〜'06年“遅ればせながら”交流戦本塁打の松坂・・・、と打の「18」は生き継がれている。
 そろそろ本分に戻ろう。'50年前後に多数追随者を生み“エース番”として定着した「18」。認知後初のエースとなったのが長谷川。167cm 56kgの「小さな大投手」は弱小球団に属しながら('50年含め) 2桁勝利10度、うち20勝以上4度、最多30勝。よりイメージ深化を受けて植村、権藤、空谷[そらたに]、井崎、米田・・・と大物{※7}新人続々来着(権藤、空谷は2年目着)。米田は2年目21勝、以降18年連続2桁勝利、うち20勝以上8度、最多29勝。弱小球団の次は「灰色球団」のと報われないエースが続く{※8}。さらに常勝球団のエース・藤田までが'57年(=は別番)〜3年連続日本シリーズ敗退を経験。中でも'58年、対ライオンズ3連勝後4連敗時には6登板の奮迅及ばず「神様 仏様 稲尾様(背番号24」参照)」の引き立て役に。慶応大時に1度も早慶戦で勝てずの「悲運のエース」ぶり再体現。それでも、'56年島原、'59年児玉が20勝以上、'54年野村、'55'56年植村、'62年若生[わこう]智{※9}が15勝以上と着実に後進{※10}を得る。'66年からは、ドラフト制度導入を受け、1位入団(=エース候補) →背番号「18」という図式を石床、豊永、堀内、高橋善、門野、河原、太田{※11}、谷村・・・で確立(堀内は2年目着)。この中から堀内が長期安定の常勝エースとなり、日本シリーズ通算11勝(最多タイ)に集約されるように“敗者”イメージから脱却。面白いことに堀内参入の'67年は米田属するブレーブスの初優勝年。灰色球団(のエース)は以降、常勝球団(のエース)へと姿を変えるのである(ただし米田のエース期間は'70年まで)。またはっきり言葉として「エースナンバー」と呼ばれ出すのもこの辺りからで、名実とも「18」は表舞台の主人公となる。投手像も米田、藤田、堀内、成田で右本格派の、権藤、堀内、稲葉でカーブ投手{※12}のイメージが定番となり、現在まで不変。
 ただ米田が70年まで、堀内、成田は'75年まで。'72年稲葉を除き“エース級”の出現が一時途絶え、その後も'77年稲葉17勝、'78'80年(松原〜)福士敬各15勝が目立つぐらい。'72年6名、'73年5名いた2桁勝利投手が'79年は稲葉、'80年は福士のみにまで一時減退したが、その後山内、'84年石川、に'85年9勝ながら日本シリーズ第1戦完封の池田、を弾みに桑田、伊東、郭、佐々岡、村田、伊良部、藪、岩本、三浦、松坂、清水、と「エース」大挙で、“座・安泰”状態に。選手引退や米移籍が重なり顔ぶれが一変する可能性も、逆に楽しみと思えるほど成熟した。
【2008年開幕時点】
 
{※ 1}'97年ニューヨーク・メッツで在番の左のサイドハンド、移籍、技巧派。中継ぎ役で35登板 3勝。ちなみに日本球界ワンポイント登板初記録者が中尾。また'60年から権藤は主に救援で馳せ、以降安仁屋、'88年伊東、'89'90年(一時)酒井勉、'90と'95〜'98年('94'01も一時)佐々岡、'01〜'03 (途中)年ギャラード、'01年具[ク]、'02年バルデス、'04年山口和が抑え役、大町、鹿島、'88'89年河野(先発兼務)、'88〜'90年岡本透、'98年酒井弘、前田幸、'01年清水、'02年山本が中継ぎ役。各々の実績者、江夏、平岡も先週実働最終年来着。
{※ 2}'40年阪急森弘太郎と計157球の1試合最少記録。個人では'57年開幕戦での植村71がタイ。
{※ 3}この年延長28回(日没引き分け)のギネス試合を完投。その前日も9回1死まで無安打無得点の1安打完封。その2日前も完封。加えて東西対抗で21回(日没引き分け)を零封。前年には若林が20回0-1サヨナラ負け(9回から相手投手は野口) & 18回完封。'42年には三富19回完投負け。'52年には片山初回無死から延長20回(セ最長)まで投げ抜き、救援最長登板記録。
{※ 4}「18」変更時、戦没した先代・村松の墓前で活躍を誓ったエピソードが残されている。
{※ 5}同球団では'50〜'55年8名、'56年6名の“1桁番”投手在籍。全体でも'36、'38〜'43、'47〜'70、'76'77'79、'87〜'90、'95〜'04、'08年と採用('37年も外野登録の景浦將が主戦格)。
{※ 6}金田正一36本(投手出場以外を含めると38本)にもう1息までせまりながらDH制導入で望み断たれる。ちなみに別所毅彦の通算35は米田を上回るが投手出場時では31本。
{※ 7}それゆえ空谷、米田、西川、田鎖、桑田(に「18」着前、畑、高橋一、北本)と紛糾入団度々。
{※ 8}「エース」ではないが、この最たる例が'55年から足かけ3年、28連敗を喫した権藤。
{※ 9}15勝。兄・忠男も14勝で兄弟揃って(「18」で)自己最多勝利&防御率10傑入り。
{※ 10}'63年には新人・中井が二軍最多勝〜終盤7登板4勝3完封、シーズンスタートから31回無失点のセ記録も樹立。が、翌年交通事故に遭い(他番時含め)通算9勝。
{※ 11}以降、甲子園ヒーロー〜プロで「18」着物語を酒井圭、野中、桑田、松坂、田中将が増刷。
{※ 12}真田、藤田に、戸田、桑田、佐々岡、岩本、に寺前、前田健もドロン系カーブ遣い。
【2008年開幕時点】