2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

22

【2008年開幕時点】

 

 一時エース捕手番の座を獲る勢いだった「22」。ライバル「27」方の伊東勤台頭が'84年、そこから'89年中嶋聡台頭まで“正妻”は伊東1人。に対し「22」はその間、田村藤&木戸、に若菜('87年)、中尾 ('89年)の“多妻”ぶり。も、'91年以降、こちらも田村1人。'92年は大久保台頭も持続なず、'95年に田村レギュラーから陥落後はすっかりサブ捕手番号の趣。山崎、鈴木が野手転向、関川、礒部、和田は野手兼務(~安田秀も含め脱番後野手転向)の点も捕手像が陰った一要因。堀場、大久保に、笹本、荒井も強打特長の代打兼務捕手。しかしその流れに取り込まれつつあった里崎が'05年ブレイク。停滞ムードは一帰され、'06年には荒川~'08年には田中と次代を担う選手が参入(25才以下捕手の入番は里崎以来)。一気に夢が膨らみ始めた。ただ野田、前田も含め、この時勢を生かせなければ里崎が“宙に浮いた”存在となり、再び重苦しい空気が漂いかねないのも事実。というのも捕手勢の沈滞中、あれよあれよと一大勢力にのし上がったリリーフ投手像が、今や「22」の新旗手となっているからである。
 その劈頭は「大魔神」佐々木主。'91年クローザー定着すると、以降9年で20S以上6、30S以上3度。'99年まで計229S 269SP の日本記録を残し米大リーグ 入り。引き続き「22」で4年計129S 136SP を挙げた。 この間日本での通算王座を奪取したのが高津。クローザー着座の'93年より20S以上8、30S以上4度の計260S 289SPを残し、こちらも'04年大リーグへ。入れ替わる形で'04年日本球界復帰した佐々木が翌'05年に(252S)293SPと記録を抜き返し選手引退。'06年、これまた入れ替わるように日本球界復帰の高津が、当年は「11」で通算(273S) 303SP とし王座再奪取~'07年、「22」に戻ってプラス13S 13SP。
 この両巨星に引き寄せられるように、'97年小林宏{※1}、'03年建山がクローザー像踏襲し、'95~'00と'06年高橋建、'98'00'01年長冨[ながどみ]、'01'03年愛敬[あいきょう]、'02と'04~'06年建山、'05年~藤川、に'06年半~準定着の高井、福田、ユウキでセットアップ一団を形成(高橋は先発兼務)。そして藤川が'06年中盤からクローザー転位、する前後で47・2/3イニング無失点、143アウト中奪三振73 (うち空振り62)。さらには'07年、シーズン佳境でのチーム10連勝時の全試合に登板し2勝7Sを記録する圧倒的存在感で新「22」のクローザー領主を受禅した。また、前(2大)領主の1人である高津の曳光を追い、建山、愛敬、岡本晃、増渕とサイドハンド流れも派生。実はこの“変則投法”と「22」のかかわりは古く、'36年までさかのぼる。
 この年阪急入団した重松は当機構(NPB)における「アンダースロー」の第1号。チーム3番手の位置付けで'40年までで計33勝、'39年は準エース格として13勝を挙げた。この他、'37年春に遠藤3勝、'38年秋に常川4勝。野手で'37年秋、矢野がレギュラー、遠藤が外野で半レギュラー、といった感じなので当時の「22」は重松、もしくは智将・藤本定義{※2}の番号のイメージだった。
 ただ重松が1番の成績を残した'39年、前年巨人入りし即レギュラー、三番を打った千葉が参入すると衆目は一気にこちらへ移る。のちに名手と謳われた千葉が本格的に二塁に定着するのがこの年で、打棒も'41年までオール打率10傑入りと冴えを見せる。木下、織辺に、'40年半レギ格の山尾、伊勢川も加わって「22」は“打”の色合い濃くなっていく。この中から伊勢川が'41年正捕手となると、戦後('48年は別番も)'53年まで座を守り、“「22」=捕手番”像の第1歩を印すことになる。話戻して'42年、千葉が抜けるもこの伊勢川に、一番打者・塚本、捕手兼三塁手・木下、3番手投手・天保[てんぽ]、で野手中心構成は変わらず。'43年に別所、天保がともにチーム最多の14、11勝を稼ぎ、野手(&捕手)方の塚本、藤原、に半レギ格・山田秀を上回ったが、開幕直前の背番号廃止令がたたりイメージ転覆は叶わず。
 明けて戦後は伊勢川中心のスタート。'47年鈴木圭が台頭で“捕手番”イメージ固まりかけるが、翌年伊勢川離番、鈴木も出番減。かわって'47年小松原、から笠原、森下重、後藤、田宮と続く中軸打者番号へと鞍替えする。捕手勢も、'49年伊勢川戻り、鈴木も'52'53年全試合出場、河合'54~'56年準~半レギ格とイメージの灯は守った。すると野手陣は'50年小松原、から引地、荒川{※3}、田宮(オリオンズ時)、玉造、船田('63年)、別部[わけべ]('64年)とつなぎ打者が急増しイメージ縮小。控え陣も笠石(=外野兼務)、新留[にいどめ]、新井、加倉井、川崎、高木公とシブい仕事人の趣。ただそれでは飽きたらなかったかパリス、ロペスで中軸回帰の波を立て、すると捕手方も種茂が'62年日本シリーズMVP(=2人同時受賞のうちの1人)。シーズンでは半レギ格も、'66年から正捕手に定着した。
 この間投手は、これまた小松原{※4}の'47年6~'48年4勝に、'49年松田友5勝、'53年川本7勝。'56年、ようやく野母[のも]14で2桁に乗るが、以降8〜8勝。また黒田勉は2桁ならずも'57年9勝20敗、'62年8勝23敗(通算38勝93敗)と弱体チームならではの“奉公{※5}”奮闘。 この旗色がかわったのは、'60年~3年連続20勝以上(5年2桁)の大石、'61~'68年で2桁勝利7度の皆川、両工―スの参入から。重松番の由緒を守るサブマリン投法・皆川の'68年31勝は現状日本プロ球界最後の30勝以上。またこの間、甲子園優勝投手の尾崎、社会人NO.1の田端と大物新人着が続き、'69年には、前年度ドラフト3題噺の定番”田淵、星野、鳥野{※6}”を揃って迎え入れた。
 田淵は正捕手期間は'72~'76年だが一塁、外野兼務で1年目からレギュラー格。タイガース看板選手となり30本塁打超 6、40本超2度。合わせたように、'68'69年と出場100を割っていた種茂が'70~'73年再レギュラー。'75年からは水沼、'76年からは加藤俊と、それまで流れの1つでしかなかった捕手番像が主流イメージへのし上がる。もう一方の強打面も'69年から東田(=イメージ台頭は'68年8月、昼2軍で3本~夜1軍で3本の計1日6本記録時)、'75年ロリッチがイメージフォロー。この強力サポート体制を前に、1年目から8、10勝とまずまずのすべり出しだった星野もすぐに形勢不利を悟り降番。かわってマウンドに現れたのは星野とは全く毛色の違う「ペンギン{※7}」投法・安田猛。スローボールで打者を翻弄の緩急タイプで‘75~'78年と15勝前後。'73年には81イニング連続無四死球 (日本記録) 。そしてこれが田淵への“敬遠”でストップするサブキャラぶりを発現した。ただ、それに次ぐ投「22」は'78'79年各9勝森口、'79年7勝三浦ぐらい。藤城、黒田真を含め「狙うと」{※8}外れるの連続。だが'65'66年と低迷した大石が'67年以降救援役で復活。すると'70年以降宮本、に星野&安田も先発兼務で救援躍動。から'83年住友8勝&'89年佐藤7勝をともに全て救援で記録し、直後訪れるリリーフ旋風の礎となる。
 一方強打像は田淵がライオンズ移籍後も6年で154本、'83年は前半29本と量産(~死球骨折で結局30止まり)。後身・武藤は期待外れも、先記“強打捕手”追随でイメージは維持した。その中から野手転向した山崎が'96年本塁打王で本格受禅~現在は里崎が暫定受禅。田淵登場前に主流だったつなぎ打像は'76年吉岡が突発的に首位打者獲得も以降凪状態。からここへきてアレックス〜藤井の猛肩外野像勃興(結果出ずもキャプラーも同系)、しかし両者とも「4」にさらわれ沈静。
 そんな中、再興傾向なのが先発投手像。安田以降2桁勝利は'98年小林10(うち救援2)勝、'01年高橋10勝、'02年吉見11勝のみ。だが'06'07年は吉見の他、'06年愛敬、'07年高橋&ユウキ&福田が10先発超、建山も'07年7先発の転身続き(勝数は最多で5。高橋、建山は再着座)。加えて'07年新人・高崎&'08年参入・増渕ともに'07年終盤先発初勝利と、一寸先、急転の気配。
【2008年開幕時点】

{※1}'95年日本シリーズ3連敗後の4戦目、サヨナラのピンチに登場。あわや、の大ファール2度にもひるまず14球目でオマリーを三振に斬って取った熱投もインパクト大。
{※2}'35年米国遠征より帰国~日本各地を転戦中の巨人が、藤本率いるノンプロ球団に連敗、で初代監督・三宅大輔解任。後任・浅沼誉[よし]夫を挟み、翌'36年第2次米国遠征から帰国後に藤本が3代目監督就任。巨人在籍の'42年まで9シーズンで7度優勝した。ちなみに重松にアンダースロー改造を指示したのは'36年時、阪急監督の三宅。
{※3}王貞治 「一本足打法」生みの親。同期着・川本はのち野手を極端に右[ライト]側へ寄せる「王シフト」を考案。田淵は13シーズン続いた本塁打王座を王から奪取。片平は“一本足”を踏襲。
{※4}さらには'48年24救援完了(=34登板中)は当年最多とリリーフ系脈の旗揚げも担った。
{※5}'57年はパリーグ内で「最下位→球団解散」の取り決めがあったため、“存亡を賭けた”奮闘。〜'04年の近鉄球団消滅時、それを阻止すべく闘った選手会長も元「22」の礒部だった。
{※6}巨人は当初予定の田淵指名を阪神に先んじられると、事前に“保険指名”を口約した星野ではなく島野を指名。反故にされた星野は中日で、対巨人35勝のキラー投手に。
{※7}短めの両腕とヒョコヒョコ歩くサマから付いた仇名。先記・皆川はサイドに近いアンダーだったが、安田はアンダーに近いサイド。他に佐藤、足立、高津・・・とサイド。
{※8}森口、藤城はドラフト1位。同2位・三浦も「球界玉三郎」と謂れた“メインキャラ”候補。武藤、住友、黒田真は高3時1位→入団拒否組。銚子も2度目被指名入団。
【2008年開幕時点】